セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

最近買った本

2011-06-29 22:04:58 | 社会経済
映画を見に市の中心街に行くと当然のように何軒か書店に寄る。すると何冊か興味深い本が見つかってしまう。無職で失業保険もなく(公務員には失業保険はない)年金もまだでない身でこう頻繁に出費するのはいかがなものか、と言うことになるのだがその本の内容によっては希少性が推測されるわが余生の世界観や生き方がかわる可能性もあると思えば買わないではいられない。

昨日買った本で面白い本があった。東洋経済新報社の『なぜ政府は信頼できないのか 寓話で学ぶ経済の仕組み』だ。アメリカのピーター・D・シフとアンドリュー・シフという投資アドバイザーが著者で原題は『HOW AN ECONOMY GROWS AND WHY IT CRASHES』だ。「経済はどのように成長して、なぜ破綻するか」というのだろう。著者のピーター氏は2008年の経済危機を予言したことで有名だが、実はこの本はその素材を25年以上前の父親のアーウィン・A・シフ氏の『How an Economy Grows and Why It Doesn't』から取っている。この父親の本はオーストリア学派経済学のカルト的入門書になったそうである。ちなみに反所得税の闘士であるアーウィン氏は80歳をこえた現在も連邦刑務所に収監されている。ようするに条文上では自衛隊が違憲と見えるように、所得税はアメリカ合衆国憲法の条文上では違憲に見えるのだ。25年前の本が「・・なぜ成長しないのか」で、この本が「なぜ破綻するか」なのは、時代の反映であるとともに2008年危機を予測した息子のピーター氏の自負もあるだろう。

であるからしてこの『なぜ政府は信頼できないのか』も日本におけるオーストリア学派経済学の一般向啓蒙書に加えられることになる。そうそうこの間示した本とこの本の他にセルジョ・リコッサ『超ブルジョアがこの世を救う』(中央公論新社)もオーストリア学派だと思う。内容はそれらしいのだが本文にも訳者あとがきオーストリア学派のことは見当たらない。しかしWikipediaを見ると、イタリア語だがどうやらリコッサ氏はイタリアの経済学事典にはオーストリア学派に分類されているらしい。勿論イタリア語は読めないがそれらしい単語をつなげるとそう読める。

『なぜ政府は信頼できないのか』は昨日買って、今日の午前中に3分の1まで読んだ。明日には読み終えるので、それからまとめて読書ノートを書けばよいと思われるかもしれないが、今書いてしまうのは他にもいい本を見つけたから。その本はアダム・ファーガソン『ハイパーインフレの悪夢』(新潮社)だ。

『なぜ政府は信頼できないのか』を読むと、ケインズ派を始めとする現代の経済学の主要な流れが健全な経済感覚からはなれた異様なことを主張していることがわかる。彼らは収入の少ない若者が見栄での自動車を買わなくなったのはデフレを進めると非難する。でも健全な庶民感覚からすれば若者の行動がマクロ的にもミクロ的にも正しいと思う。東日本大震災で被災地以外の人が自粛するのはよくないと多くの経済学者が言うけど、自粛して余ったお金を銀行に預金すれば復興資金の原資になるのではないのだろうか。ようするに人びとは本能的に正しい行動を知っているのだ。

そうそうデフレを不景気と同一視して毛嫌いする経済学者がいるが、この本では生産性が上がれば価格が下がるのは当たり前と書いてある。近代でも長い期間社会が経済的に発展しながら商品の値段を下げてきた歴史がある。いま祖父の世代に聴くと昔は物価が安かったというが、祖父の世代がさらにその祖父の世代に聴いたら昔は物価が高くて庶民に買えない物が一杯あったというだろう。ちなみに水野和夫さんか長谷川慶太郎さんによると、世界が戦争経済ぎみだとインフレで平和だとデフレになる。その理屈はよくわかる。

え!無駄な支出はマクロ的にもミクロ的にも意味がないというお前がこの間iPadを見せびらかしていたって?そうだった。いくらぐらいと聞かれてケースも入れて5万円以上したと言ったっけ。そして勤めているときは月給の額を考慮して決めるが、今は預金残高を考慮しているのでわりと気軽に買ってしまう、と言ったっけ。それも真実だけど、本当は能力の衰亡を含む余命を考慮しているのだ。この文もiPad上のPagesで書いているからまんざら無駄な出費でもない。

かわって『ハイパーインフレの悪夢』の方はサブタイトルは「ドイツ『国家破綻の歴史』は警告する」のように第一次世界大戦後のドイツのハイパーインフレーションの記録だ。イギリスの歴史家が駐ドイツイギリス大使館などの当時の報告書も参考にして1975年に出版したものが、近年にアメリカの有名な投資家が推奨したためまた再版されたものの翻訳だ。サブタイトルから読み取れる本の内容にも興味をもったが、一番目をひいたのは、帯に池上彰氏が「ドイツの経験は反面教師として役に立つはずです」と書いていることだ。さらに帯には「日本が背負う多額の震災復興資金。財政秩序と金融節度が限度を越えたとき、貨幣は価値を失い、国は死ぬー。」と書いてある。これがこの本を今日本で出版する意義てあろう。さらに表紙を見ると池上彰氏が解説を書いているではないか。とすると、僕の推測では池上彰氏がこの本の翻訳出版を出版社に強く勧めたのだろう。

震災復興資金の捻出をめぐってリフレ派がこれを機に国債の日銀直接引き受けなどでお札をジャバジャバ印刷してインフレを起こそうと画策している。リフレ派の主張は日本はデフレだからお札ジャバジャバでもハイパーインフレにはならなくてちょうどいいインフレになるという。元官僚の高橋氏(国の役所の埋葬金の指摘で有名だが、後にゴルフ場更衣室での腕時計で有名)はテレビで「ハイパーインフレにならないが、なりそうになってもお金の発行を停めれはハイパーインフレにはならない」と言った。これを聞いていて僕は「札の発行を停めれば経済活動が停止するから停めれなくていろんな国がハイパーインフレになったのだろうが、誰か突っこめ!」と思ったが誰も突っこまなかった。

ところでリフレ派は、昔とちがって経済学理論が発達して人間の英知が進んでいて経済を調整できるという。そしてインフレ目標こそが最新の経済学の成果という。ところでハイパーインフレ発生直前のドイツのある起業家の言葉がこの本の池上さんの解説に載っている。「インフレは完全雇用を保証する手段であり、望ましいどころか、思いやりのる政府が取り得る唯一の政策だ。」

何だ!こりゃ!リフレ派の「最新の経済理論」と一緒じゃないか。「天が下に新しきことなし」(旧約聖書)だね。リフレ派はインフレに反対するのは失業者など貧しい人への思いやりに欠けると、このドイツの起業家と同じように反リフレ派を非難する。これは左翼の陰謀を警告する上念氏もマルクス主義者で数理経済学者の松尾匡氏もおなじ。上念氏は消費税は国債の発行の邪魔だと思い、消費税は不況にして多くの企業を倒産させて政府系金融機関に所有(国有化)させるという左翼の陰謀という。風が吹けば桶屋が儲かるという理屈だが、旧国鉄を見ても分かるように借金に悩む国が赤字を垂れ流す企業を抱え込みたがるか、と思ったが、国の借金はどんなに増えても問題ないとする真性国家社会主義者と思われる(でも左翼ぎらい)上念氏には自然な論理なのだろう。

大鐘稔彦『孤高のメス』(幻冬舎)と映画『孤高のメス』(東映)

2011-06-04 17:33:17 | 文化
テレビの医療ドラマをよく見る僕も、医療をテーマした小説はあまり読んではいなかった。海堂尊『チーム・バチスタの栄光』もテレビでも映画でも見たが、同じ内容ならあらためてその原作小説までは読みたいと思わなかったので読んでいない。ところが最近、書棚のなかに幻冬舎文庫の大鐘稔彦『孤高のメス 外科医当麻鉄彦』の第1巻があるのに気づいて読み始めた。本の裏表紙の内容説明に輸血を拒否する「エホバの証人」の手術についてのドラマらしいので興味をもって念のため数年前に買っておいたものである。

読み始めるとこの本は輸血拒否の問題はそのエピソードの一部にすぎず、主たるテーマ―は日本の外科医療に携わる医師のあり方と医師養成の在り方への告発である。ぐんぐん引き込まれ読み進んだ。『孤高のメス 外科医当麻鉄彦』は全6巻なので、2巻以降はアマゾンの中古で取り寄せた。中古本の値段は各巻とも1円だが郵送料は250円で合計1冊につき251円となる。1円では保管費用も出ないと思うがたぶん郵送料名目の250円のなかから利益を出しているのであろう。その証拠に数巻まとめて同じ出展者に注文してまとめて送られてきたがやはり1冊分は251円請求された。中古としているが本は全く新品とかわりなかった。いまは6巻全部読んで、次のシリーズの『孤高のメス 神の手にはあらず』を取り寄せて読んでいる。

最初のシリーズの6巻を読み終えた時点で、インターネットで「孤独のメス」を検索してみた。今月つまり6月の初めである。するとなんと映画の『孤高のメス』が6月5日から封切りするというではないか。「え!なんたる偶然、あと数日で映画が見られるのか!」と思ったが、なんのことはない2010年つまり去年の6月5日のことであった。そういえば去年ぐらいにそんな映画の宣伝を映画館で見たような気がしてきた。DVDが昨年末に発売になっているらしいので、早速TSUTAYAに借りにいったが見つからない。主演(当麻鉄彦役)の堤真一の主演作がかたまっているコーナーにもなかった。DVDは発売になってもレンタルにはなっていないのかなと思ったが、GEOにいってやっと見つけて100円で借りてきた次第である。

DVDを見ると登場人物名と手術内容は同じだが、病院の背景とか登場人物の家族関係などが違っている。原作の長いストリーを2時間ぐらいの1本の映画に納めるためかなり加工しているようだ。ちなみに手術というのは脳死者からの肝臓移植だ。この小説と映画の舞台となる年代では日本ではまだ脳死に関する法律ができておらず、当然ながらこの肝臓移植手術は日本で最初という設定。この小説は作者で外科医の大鐘稔彦氏の体験をもとに書かれているが、エホバの証人への無輸血手術は大鐘氏自身の体験でもあるが、日本最初の肝臓移植手術はそうではないと思うが、日本の外科医療の問題点の描写のために主人公の当麻鉄彦をその渦中に置いたのだろう。

さて映画(DVD)と小説の違いに戻ろう。映画では手術室担当の看護婦(今では看護師)の中村浪子の視点から物語が進んでいく。市民病院(たぶん千葉県にある市)の手術室担当の看護婦の中村浪子は病院の外科医の粗雑なメスさばきで多くの患者や死んで行くのに深い憤りと絶望感をもっていた。そこに新しく第1外科医長として当麻鉄彦が赴任してきたわけである。第1外科医長というのは元々1つだった外科だが当麻が来たが、大学から派遣されたもう1人を排除できないため外科を2つに分けて医長を2人にしたもの。

ところが小説のほうでは中村浪子は極めて有能な看護婦ではあるが、ほとんど発言(せりふ)もない。そうそう映画では中村浪子は30代の子持ちの母子家庭の女性であるが、小説では20代の未婚女性である。そうそう第一に中村浪子は別の病院(日赤病院)に勤めていたが、当麻の病院の調理員をしていた浪子の母親の手術を当麻が行うのに立ち会ったのがきっかけで当麻のいる病院に勤めたのだ。

小説のほうでその目を通して病院内の様子を描写するのは医局秘書の江守京子の役割だ。だけど映画では出てこなかった気がする。江守京子は当麻に好意を寄せているが、完全に片思い状態。中村浪子も当麻が好きらしいが小説ではその他看護婦と同様の扱い。江守京子は美人であるが、もっと超美人が病院へ併設のホスピスに看護婦としてくるが、当麻とはほとんど没交渉で当麻の助手の矢野のエピソードに絡んでくるだけ。では当麻鉄彦にロマンスは関係ないかというとそうでもなく、町長の娘の大川翔子とお見合いの後交際している。映画では母親をなくして父親の市長に甘やかされて育ったような現代的な娘という感じで当麻とのロマンスもない。小説では母親も生きていて神戸の大学院で国文学を学ぶ理知的な女性で当麻と交際する。

ちなみに町長とか市長とかややこしいが、映画はたぶん千葉県にある市の市民病院が舞台だが、小説では琵琶湖湖畔の民間病院の話になっている。映画では市長だから市民病院に大切な人物ということだが、小説では当麻のいる民間病院である甦生病院に理解があり、役場内での町立病院設置の動きを抑えるだいじな人ということだ。肝臓移植手術をうけるのはこの町長(映画は市長)だ。

もう少し違うところを書くと、映画では大学病院教授の実川(さねかわ)教授は、当麻とアメリカのピッツバーグで一緒に肝臓移植を学んだことになっているが、小説では当麻はピッツバーグだが実川はイギリスのケンブリッジで肝臓移植を学んでおり、以前には面識がなかったのだ。なお小説では最初は実川は助教授として出てくるが、当麻の肝臓移植時点では教授になっていたのでその点では映画の実川教授は間違いでない。
そうそう映画では当麻鉄彦は手術中に都はるみのテープ流すが、小説ではポール・モーリアだ。主人公の性格設定に違いがでるのでは?

最後に設定の抹消なことでなく映画と小説の違いを言おう。映画では手術中のメスを持つ外科医の不手際で血が噴き出すというショッキングな場面で始まっている。この点では映画も小説も同じ主張をしていることになる。すなわち技量の伴わない外科医がいっぱい横行しているということだ。でも映画はそこで終りだ。つまり中には未熟な外科医もいるのであったら不運だ。せいぜいそうした医師にはメスを持たせないようにというぐらいだ。

でも小説では、大学の医師養成システムを問題にしている。大学病院の外科の教授なのにまともにメスを扱えない者がいる。外科医が箔付けのために技術の鍛錬をほっておいて博士論文のための無駄な統計取りなどに何年も費やすこと。また専門医の肩書を持っていても専門医の認定はなんら実技内容が考慮されていないことだ。

医師の間で学閥意識が横行していること。また地方病院や中小病院の医師の中には難しい手術を要する急患が運び込まれたとき、すぐ手術しなければ患者の命が危ない場合でも、他の大きな病院へ回そうとすることだ。とにかく自分が引き受けなきゃ。なんだか公務員の話に思えてきた。