セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

読書ノート:小川仁志「市役所の小川さん、哲学者になる 転身力」海竜社

2008-11-09 20:17:50 | 文化
街に出て書店で平積みされているコーナーをのぞいてみたら、「市役所の小川さん、哲学者になる・・・」というタイトルの本があった。何々、地方公務員から哲学者になった人の記録ならおもしろいと思って、裏表紙の著者のプロフィールをみたら、その市役所というのが名古屋市役所で、また第20回明烏敏賞受賞とある。名古屋市は僕が先ごろまで30年以上に渡り勤めていたところで、また明烏敏(あけがらす・はや)といえば宗教哲学者の清沢満之に師事した著名な真宗大谷派の僧侶で歎異抄の解説本などの著作も多い人だ。そこで僕は、これは公務員生活で何か思うことがあって哲学者になったのだろう、そしてそのテーマはなにか浄土真宗に関係のあるものかもしれない、と思い早速購入した。

ところが僕の早とちりであった。この本の題のおしまいの語句「転身力」と帯の広告文をみればわかるように、これはステップアップの本であった。帯には(人生は変えられる。夢は実現できる。必ず!商社→フリーター→市役所職員→市役所職員+大学院生→哲学者 「なにくそ精神で」挫折のドン底から這い上がり。夢を実現した異色の哲学者。〈小川式〉勉強法・関門突破法も伝授)とある。ぼくは「フリーター」の位置にいるが、8時まで寝ていられる今の状態に満足で、お金が続く限り勤めに出る気はまったくないのでこういう種類の本はお呼びではなかった。そうそう僕自身はフリーターといわずにデイ・ウォーカーと自称したい。平日の昼中に街を歩くのだから。おっと吸血(税)鬼がいるのかなんて深読みしないように。明烏敏賞のほうも明烏敏の出身地の自治体が地域振興関係の論文を公募しているもので浄土真宗とも宗教哲学とも無関係であった。

著者は京都大学法学部を卒業後、伊藤忠商事に就職したが、3年あまりで退職している。そのうち最後の2年間は中国への語学留学ということで、商社での実質的な仕事はあまりやっていないように思う。著者の回心のきっかけは中国留学中に天安門広場に行ったとき天安門事件を思い、お金儲け第一主義の世界から人権や民主主義などの「公」の世界へ心が傾いたためとのことである。そこで留学を終わると同時に伊藤忠商事を退職した。伊藤忠商事での中国留学以外の思い出は、当時会長を辞めて顧問をしていた瀬島龍三氏に偶然言葉をかわしたことだ。新入社員かと聞かれてハイと答えると、「人生は長いようで短いから頑張りなさい」と声をかけられたとのことである。

「公」にかかわる仕事ということで、法学部をでているのだから弁護士をめざした。しかしながらなかなか司法試験に合格しない。受からないのは悠々自適に法学の本を読んだりして、試験対策の勉強方法をとらなかったからだ。とうとう心身に変調をきたして敗北をみとめ、つぎに公務員になろうとした。しかし年齢は30歳になっており、30歳で受験できるのは政令市では北九州市役所と名古屋市役所だけだ。地理的なことから名古屋市役所を受験した。この前後から著者の「転身力」の方法・ノウハウが語られる。著者はこのあと名古屋市職員の傍ら社会人入学で名古屋市立大学の大学院でヘーゲル哲学と公共哲学を学び、市役所都市計画課で3年、区役所総務課庶務係で3年の計6年のあと現在は徳山工業高等専門学校で准教授として哲学を教えている。哲学研究者として職をえるために自分をプロデュースした方法を細かく書いている。明烏敏賞への応募もその中の一つだ。僕(親鸞型)とは別のタイプ(日蓮形)の人の話だけど、読んで役立つ人も多いことだろう。

著者が「公」の仕事ということで名古屋市役所に就職したのになぜ職業としての哲学研究者をめざしたのか。主として大学院の勉強の延長とも思えるが、生涯の哲学者ではなく職業としての哲学研究者を最初から目指していたようだ。市役所へ入庁した年齢と係長試験の受験資格により、がんばっても課長になって6年で定年という話を、「母に話したら悲しそうだった。」ということも関係ありそうだ。ちなみにこの本にのっている昇任の計算方法は名古屋市職員によく知られているものだ。

この本のなかの名古屋市役所の話は全部20ページでそう多くない。とくに興味深いエピソードが述べられているわけでもない。期間が短いこともあるかもしれないが、個別に事件を書くと守秘義務に触れるからかもしれない。しかし区役所総務課時代の防災訓練のことなど僕も知っていることなので思い出す。人口が10万人ぐらいの区って何処だろう。2つぐらい思い浮かぶのだが。ところでこの著者と僕の考えがおおかた一致するところがある。著者は目の前で困っている人をつい助けてしまうが、上司や先輩から、公務員は全体の奉仕者だから一部の人に利益を与えるのはよくないとチクリといわれる。これに対して著者は、
「・・・しかし、多くの市民は、ここで手助けしない態度のほうこそ非難するであろう。全体の奉仕とは万人の幸福を目指すものであるはずだ。全体の奉仕のために、目の前の困っている一人を助けることができないというのは、矛盾しているではないか。
おそらくそこには哲学が欠けているのである。考えることなしに杓子定規を当てはめるだけでは、この場合、たしかに一部の奉仕だという結論になろう。しかし、よく考えてみてほしい。一部の奉仕がいけないというのは、不公平をもたらすからである。とするならば、困っている人は社会的に見ればもともと不公平な状態にあるのだから、それを救う行為は何も不公平でない。これを直感的に人々は感じて、杓子定規の適用を非難するのである。」

「おおかた一致」というのは一致しないところがあるから。著者は全体の奉仕と一部の奉仕という哲学の問題だと考えている。ヘーゲル哲学者らしい考えだがそれは表層のことだ。問題は組織の自己保存の生態だ。ある公務員が何かを市民のためあるいは組織の本来の目的ためになることを行うと、他の役人は組織上の理由でそれを嫌う。その理由は
①他の同じような仕事をしている者及び後任者ができない場合があると、市民から非難されるので、むしろ役所はなかなか動いてくれないところという常識があるほうが組織運営上都合がよい。だから役所の職務の配置は職員の能力の最低水準にあわせて行われ、人事の配置は特異な能力を発揮できないような部署とする。
②自己完結的な官僚組織では、昇任など試験成績などにより行われる。もし業績などによる成果主義をもちだせば、評価が難しい上にどんな評価でも苦情が絶えないと思われるから、本質的には官僚組織とは試験以外に才覚がないから民間ではなくて公務員になった人たちの組織なので、一応試験成績なら全体が納得しやすいからだ。

この本のタイトルの「市役所の小川さん、・・・」を見て、ややおかしな感じを受ける。それは街のお店などが、自分で看板に「・・・に××屋さん」というのを見るのと同じ感じ。自分で○○さんというのはおかしいもの。まして世間ですでに通り名になっているのなら別だけど。著者の場合は「市役所の小川さん」だけど、小さい市の役場で何十年も勤めている場合はそうしたことが一般的に通り名になっている場合があるけど、そうではない。また同じアパートに2軒以上小川さんがある場合そのアパートでそう呼ばれることもあるだろうが、これも違う。そう、これも著者の自己プロデュースなのだと思う。ちなみに著者のブログは「哲学者の小川さん」。では次になにをねらってのプロデュースか?橋下知事にあこがれているというから、テレビに出演してそれを梃子に4年制大学の大学教授の座かな?これは僕の推測。