セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

内田樹氏の橋下大阪市長批判について

2012-08-09 15:26:50 | 社会経済

大阪市の橋下市長について色々な文化人・知識人が批判している。総じてポピュリズムとの批判が多い。しかし世の中の多くの人が明らかに不当だと思うのだが、利害関係人のしっぺ返しを恐れて政治が手を付けてこなかったことにある政治家が手を付けようとすると利害関係人とその代弁者から「ポピュリズム」のレッテル貼りが行われるのは当然と言えば当然である。

彼等は内容ではなくレッテル貼りでしか防御できないからだ。だから政治学者にしろ精神科医にしろテレビでの橋下氏との討論では一方的に敗退しているらしい。僕はそのテレビ番組を見ていないが巷(ネット上)の評判ではそうだ。反橋下陣営からも逆の評価は聞こえてこないので、一方的な橋下氏の勝利だったのだろう。だから空虚な「ポピュリズム」という批判(?)を見ても何ら知的好奇心は湧かない。

だがフランス思想家の内田樹氏がブログ 「内田樹の研究室」で2012年7月26日「同一労働最低賃金の法則について」http://blog.tatsuru.com/2017/07/26_1559.php 及び7月27日「ビジネスマインデッドな行政官について」http://blog.tatsuru.com/2010/07/27_1617.php で理屈らしきものを書いて橋下批判をしているのでそれを検討するのは、彼らを橋下批判に突き動かす影の車を明らかにするのに役立つので取り上げようと思った次第である。

内田氏の主張の二本柱は「同一労働最低賃金の法則」と「行政官」論である。二つとも他で見られないユニークな主張である。最初に大阪市営バスの運転手の年収問題に触れておかなければならない。これは内田氏では「同一労働最低賃金の法則」と結びつけられているが、大阪市民が問題にしている主要な論点が内田氏では全く無視され、屁理屈ともいえる「同一労働最低賃金の法則」で話しの論点がまったく明後日の方へ飛ばされているからである。

7月27日で内田氏は

《昨日も書いたように、大阪の有権者は、市営バスの運転手の年収が阪神・阪急の運転手よりも高いことを『貰いすぎ』とみなし、その『貰いすぎ』分を剥ぎ取るべきだという判断を下した。

この判断は一見すると合理的である。

だが、いったんこのロジックに同意した人は・・》

と書いている。「一見すると合理的」なら本当は合理的でない根拠を示さなければならないのだが内田氏のもちだした根拠は内田氏が発見した「同一労働最低賃金の法則」である。内田氏の「同一労働最低賃金の法則」は「党の否定面を荒立ててはいけない。なぜなら敵を利するから」のような主張と同じ功利主義的理由で真の問題点ではない。大阪市民の判断の根拠はたまたま市営バスの運転手の年収が高いということではない。赤字の市営バスが一番高いというのともチョットちがう。市営バスはもともと民間では利益がでなくて運行できないが地域住民に必要だから利益を目的としないで市が運営しているからである。だから赤字は運転手の年収に関係ない。

しかしである。市営バスだから経営体の赤字はあたりまえだから経営状態の制約はないので給料を多く上乗せして赤字が増えたとしても税金で補填するから構わないとなったらどうであろう。民間企業との200万円以上という隔絶とも言うべき年収差があるのはこういう構造だからである。市民が一番問題としているこうした構造を故意か無意識に等閑視して「労働者たちが、同じ労働者の労働条件の引き下げに『ざまあみろ』という喝采を送るというのは、日本労働運動史上でおそらくはじめてのことである」(7月26日)と言う内田氏は健全な感覚で現実を見れなくなっているのだと思う。

この問題はバラバラの各社の給与体系でたまたま大阪市営バスが一番高かったから「同一労働最低賃金の法則」で一番下に合わせるという話ではない。むしろ「同一労働でも身分により賃金が違う」と言うべき問題だ。むかし旧満州国の南満洲鉄道などの企業では同じ勤務地で同じ仕事でも日本人と中国人では賃金が違っていた。それと同じことだ。

もしかしたら市営バスの賃金が高いのは労働組合の闘いの結果で誇るべきことで恥じるべきことではないと内田氏は言うかもしれない。でも事実は旧市長たちとの共謀の結果であり正常な労使関係によるものではない。闘いというなら確かに本来の雇用主である市民には謀略という闘いを仕掛けているが、市民の代理の支配人であるはずの旧市長とは共謀して本来の雇用主の財産を横領しているのだ。投票率の低い市長選挙では労働組合のまとまった票数が当落の決め手となる。また組合は市政運営に協力出来ないと恫喝もできる。だから常識からかけ離れた高い給与は市民の目から隠れた裏取引の結果である。橋下市長が職員組合の政治活動を規制しようとするのは正当な根拠があるわけである。こうした特異な位置にある市営バスの運転手と民間バス運転手では身分が違うような扱いをされているといわざるをえない。だいたい「悔しかったら民間も組合闘争しなさい」という市職員は皆無だが、「悔しかったら採用試験に受けて合格してみろ」とうそぶく者はイッパイいる。もちろん、ある種の居づらさを感じている良心的な職員もいるがそうした人はけっして内田氏の論理には賛成しないだろう。

つぎに「行政官」論に移ろう。

ウイットゲンシュタインという哲学者は、哲学問題はすべて言葉の意味の不正確な使用から発生するといったそうだ。だとすれば内田氏は充分に哲学者の資格がある。僕は最初に内田氏の文章を読んで意味がよくわからなかった。それは使用されている言葉の意味が僕や一般とは違うだけでなく内田氏の文章の前後でもすり替わっているからだ。ここでは7月27日の「ビジネスマインデッドな行政官について」を解剖していこう。解剖しなければ読む人を混乱させずに説明することはむつかしい。

この文章は橋下大阪市長が文楽協会への補助金打ち切りの意向を示したことについてだ。そのことについて文楽が「儲からない芸能」であることが議論になっているらしい。橋下市長が「儲からない」ことを直接理由に挙げたかどうかは僕は知らないが、巷ではそれが議論になっているとのことだ。僕の個人的見解では補助金が時代と観客に受け入れられる努力や改良工夫を阻害してその芸能を衰退させることは多いにありうる。戦後関西落語家が二十数人の時に行政が補助金をだしたらいまでも関西落語は絶滅危惧種だった気がする。

さて順次解剖しよう。

《市長が文楽協会の個人的なオーナーであり、彼が経費を支出している立場であるならば、「採算不芳部門は切る」と発言をすることは経営判断として合理的である。

だが、彼は文楽協会の経営者ではない。

地方自治体の首長である。》

ここでは「オーナー」という言葉と「経営者」と言う言葉がでてくる。内田氏は文楽協会は橋下市長の自由にできる橋下市長の個人的私有物ではないことを強調するために「オーナー」を使ったが、その概念では都合が悪くなるので直ぐ下の文で「経営者」とすりかえる。オーナーで経費を支出している立場なら、経営判断にかかわらず切るか切らないかはカラスの勝手だ。下位球団のオーナーや愛人にクラブを経営させているオーナーを見ればいい。オーナーとはそういうもの。しかし初めから「経営者」のみを使うと内田氏の論議を有利に誘導しようとする効果が薄くなるわけだ。「オーナー」のみでは支離滅裂だけど。

しかし最も問題は、橋下大阪市長は文楽協会の経営者ではないことは当たり前だが、文楽協会も市役所の行政組織ではないことだ。だから補助金は市役所としては外部への一方的支出だから初めから「採算不芳部門」という言葉がでてくる余地がない。文楽協会が「儲からない芸能」であることは自治体の予算執行上はまったく関係ない。逆に儲かるものなら補助金はもともと不要だろう。内田氏は意図的に論理の混乱をねらっているのか、もともと内田氏自身が混乱をしているのか。ワカラン!

《行政官はビジネスマンではない。

「もう少しビジネスマインドが望ましい」

という要求はありうるが、そういう言葉はふつう「ビジネスマンではない人間」にしか使われない。

行政は税金で運営されている。

まず納税者からお金を頂いて、それを分配するのが仕事である。

行政官に対しては、「税金を無駄づかいしている」という批判はありうるが「稼ぎが悪い」という批判はありえない。

誰もそんなことを言わない。企業の場合は、そういう仕事をするセクションを「管理部門」と言う。

それ自体は何の収益も上げないし、もともと「管理部門以外の人々」が働きやすい環境を整備し、その創造的な活動を支援するのが本務である。」

   [省略]

しかたがないので、管理部門を独立させて、集団成員がまじめに働くように管理する。

彼らは価値のあるものを創り出すプロセスを支援するのが仕事だが、自分たちでは何も価値あるものを作り出さない。

行政というのはそのような管理部門である。》

すごく驚愕しかつ違和感を感じる行政論である。行政は税金を分配するのが仕事でそれ以外の者つまり行政以外の者が真面目に働いて価値あるものを創り出すようにする管理部門だそうだ。なんか旧ソ連か北朝鮮の地方自治体の話を聞いているみたいだ。だからお金をつべこべ言わずに文楽協会に渡し気持ちよく使ってもらえということだろう。

言うまでもなく大阪市は基礎自治体でその仕事の大部分は住民に用役を提供することだ。内田氏は文章のこの部分では「価値あるもの」=「お金を稼ぐもの」の意味で使っている。「この部分では」というのは内田氏が都合で言葉の意味を突然変えるから確認のためだ。たしかに基礎自治体の市町村はお金を稼がないけど、今のはやり言葉でいえば「安心安全」とか「幸福度の向上」に役立つ「価値あるもの」を創りだしておりそれが主な仕事だ。だから内田氏の話は日本のことでないみたいだ。内田氏自身がこの日も前日も大阪市営バスについて話している。たしかに市営バスは赤字でお金を稼いでいないが価値あるものを創っていないだろうか。都道府県では管理面が強くなるかもしれないが、それでも福祉事務所・児童相談所・保健所・福祉施設などを運営しているし道路や河川も自ら営繕管理しているからやはり内田氏はおかしい。

でもこの内田氏のこの考え方は、内田氏の周りにいる役人や公務員志望の学生の影響のせいで前後の文脈を離れて突然浮かんでくるのかもしれない。ある本に「公務員志望の学生が総務部門に行きたがる者が多い。これは商社に入ったのに営業部門に行きたがらないようなもので異様なことだ」と書いてあった。同感である。2チャンネルの名古屋市職員専用スレッドには「人事課に異動するにはどうしたらよいか」という書き込みが時たま出てくる。しかし「◯◯の仕事がしたいが仕事内容を教えて」という書き込みにはついぞお目にかかったことがない。これは人事課の仕事が面白いからではなく(面白いと思う人もいるかもしれないけど)出世コースだから。そうした人たちにとっては市役所とは仕事の集合ではなく出世のヒエラルキーにしか見えない。そうした人たちは管理部門を好む。なぜなら問題解決の才覚がなくても務まり失敗することも少ないからだ。だからそうした公務員は管理ということが行政すべてだと思うようになる。スターリンか!内田氏がそうした人たちとしか話していないとそう思うかも。

たぶんそうした管理志向の大阪市役所の幹部職員が一番橋下市長に恐怖を抱いているのではないか。職員の管理懐柔の手っ取り早い手段であるお金が制約されるからだ。それは橋下市長が「ビジネスマインデッドな管理者」だからではない。橋下市長はビジネスマインデッドでも管理志向の人間とは思えない。市役所の「お金を稼ぐ」とはちがう価値あるものの創造力を最大限出すためにはその前提として不当不正な支出や公私混同は必ず正さなければならないことは自明だからだ。

だからコストカットであたかも稼いでいるように仮象する非生産部門の管理者という企業論もどきは橋下市長にあてはまらない。第一に行政(市町村)が「なにも価値あるものを作らない管理部門」と言うのは大間違い。第二に市民が評価するのは結局行政サービスの質と量。しかし市財政へのつまみ食いやダラダラ支出が横行していては行政サービスの向上は期待できない。大阪市にそうしたことが横行していた事は橋下氏の登場以前から全国民が知っている。明白なこの道理は市民も知っているから橋下市長を応援するのであって、けっして内田氏のいうようなやっかみからではない。内田氏の思考方法は「公務員批判はやっかみからだ。悔しかったら試験に受かって公務員になってみろ」という人と同じで不愉快だ。

《地方自治をまるごと民営化したいというのは、リバタリアンの「口にだされない夢」だからである。

公共サービスというものを全部止めてしまう。

全部民営化する。

その代わり、もう税金も払わなくていい。

実際にそうすることの方が資産家たちにとって、はるかに合理的である。

自分の土地を要塞化して、そこに私兵を配備して部外者の侵入を防ぎ、召使や執事を侍らせて、「主人」として君臨できる人たちにとっては、「公共サービスが全部民営化された社会」は一種のバラダイスである。なにしろ、民営化された警察や消防や医療を「私企業」として自己所有すれば、自力で犯罪に立ち向かえない市民や、自力では火を消せない市民や、自力では病気を治せない市民たちから個別サービスごとに恣意的に課金して、ほとんど無尽蔵の利益を上げることができるからである。

それがリバタリアンの「口に出せない夢」である(まれに“重慶王”簿煕来のように実行しようとする人間もいるが)。》

「口にだせない・」なんて思わせぶりな書き方しているね。何の効果を狙っているのかな?僕はリバタリアンだけど口に出していうよ。たしかに地方自治の全部の民営化は夢だね。それに住民自身による運営もだけと。要するに住民に対する抑圧的権力的要素を最小にしたいね。いまの科学技術水準等では夢は夢。でもいつかは可能かも。

しかし内田氏の文書はレトリックのみで中味が貧困だな。「お米の配給が廃止された今は農民のパラダイスだ。自分でお米を作れない市民から恣意的に課金してほとんど無尽蔵の収益を上げることができる」と同じようなことを書いている。この文がおかしいように内田氏の文章もおかしい。

リバタリアンは税金特に所得税に否定的だからこの面で資産家の同盟軍とみなされやすい。しかしリバタリアンの本質は消費者の利益擁護者だもの。ある種の資産家と対決する側面は多い。僕はリバタリアンだけど資産家ではないし資産家になりたいと思ったことは一度もない。だいたい資産家にはリバタリアンはほとんどいない。アメリカでも日本でも新興国でも資産家は政治権力や国家と癒着しているものリバタリアンになりようがない。まれにアントレプレナーが成功して大きな資産をもつが、晩年は自分の信条にあう社会事業に資産の大半を寄付して隠棲するのが標準コースだ。

あれ内田氏は「自分たちでは何も価値あるものを創り出さない。行政とはそのような管理部門である」と大見得えきっているのに、ここでは(リバタリアンは)「公共サービスというものを全部止めてしまう」といっている。そうするとどう考えたらいいのかな。

内田氏の話をまともに受け取って、そして市営バスの存在は忘れて、できるだけ合理的かつ好意的に解釈すると、内田氏は(そんな自治体は存在しないけど)行政とは役場事務を含むすべての事業を民間業者に委託していていると思っていて、お金の配分と委託者としての管理が役所のすべてで、民営化とは行政がそうした事業から完全に手をひいて市場にまかせることかな。空想の話だね。でも、そうなるなら市民は以前の税金プラス手数(利用)料金よりも安い出費でより親切できめ細かいサービスを受けられる。競争は生産性を向上させるからね。携帯電話料金やレンタルビデオ料金をみれば実感するだろ。ああ、内田氏の言葉の統合失調状態にまともにつき合っちゃった。でも統合失調というより後先をみずその場その場で適当なことを言っているだけかもしれないけど。

「民営化された警察や消防や医療を『私企業』として自己所有すれば」の「自己所有」とはどういう意味かな。「私企業」」と「所有」はほぼ同義だから「『私企業』として『私有』すれば」ではただのナンセンス文だ。だから単に「所有」でなくて「自己」がつくのは、一人の人間または家族があらゆる産業を所有するニュアンスが読みとれる。“重慶王“なんて単語もそのニュアンスの文脈上に整合する。競争も新規参入もない世界がリバタリアンの夢でないのは当たり前すぎる公理だから、それならこれは何なのだ?すべての資本がたった一人または一家族に集中するということは、それは特異点というべきもので階級としての資本家階級は消滅していることになる。あとの国民はすべてプロレタリアート。この内田氏の黙示録はリバタリアン世界ではないのは当然だが、では何を示している。ヨハネの黙示録より難解だと思ったら内田氏自身が自分では口に出せない答えをある人物の名を出すことで書いていた。

それは“重慶王“薄煕来だ。内田氏は「簿」とかいているが「薄」が正しい。薄煕来は内田氏が作為的に文脈上リバタリアンと思わせるように書いているがその反対の共産党の幹部だ。それもいま中国によくいる共産党員を装った資本主義者ではなくて、革命歌を歌うことを奨励(唱紅)する頑固な根っからの共産主義だ。父親も共産党幹部で趙紫陽や胡耀邦を批判して失脚させた保守派の薄一波だ。だから彼は共産主義国になると普遍的に作られる身分制度でいうと紅一類だ。この身分は親や親類の階級や革命貢献度できまり進学や就職の制限になる。北朝鮮では成分といったかな。ソ連で聞かないのは富農が階級的だけでなく肉体的に抹消されたから。

重慶市の最高権力者である薄煕来は、日本共産党も推奨する共産党主義の王道をとった。つまり金がなかったら金持ちと大企業から取ればいいということだ。薄煕来は次々と企業家を犯罪により逮捕してその財産を奪って行った。それじゃあ仕方ないかといわないで。問題はそれらの大部分は無実だったのだ。これは共産主義の標準的手法だよ。

まさに内田氏の黙示録は共産主義社会を現しているのだ。そういえば1ファミリーが経済を支配してそのうえ税金がないなんて北朝鮮みたいだ。これはリバタリアンの夢ではなくて、内田氏の「口に出せない夢」なのだ。