黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

この「危機感」は、僕だけか?

2013-07-05 05:05:04 | 近況
 昨日(4日)は、参議院選挙の公示日だったが、各政党の党首が発した第1声を聞いて、安倍政権が発足してからずっと抱き続けてきた何とも得体の知れない「危機感」がますます増幅するような気がした。
 理由は、はっきりしている。その第1は、昨日の安倍自民党総裁と公明党山口代表が申し合わせたように(たぶん、申し合わせたのだろう)「今度の選挙で<ねじれ>解消を!」と叫んでいたことにある。もし、仮に今度の選挙で先の衆議院選挙、あるいは都議会選挙の時と同じように「自公勝利=自公で議席の過半数獲得」ということになれば、自民党が悲願(?)としている「憲法改正(案)」が象徴しているように、先のアジア太平洋戦争の「敗北」によって僕らが手にすることになった「平和と民主主義」を基底とする社会の在り方は根底から「改変」され、「また再びの道=戦争への道・大企業優先の道(格差社会の増大)・「自由権」や「平等権」といった基本的人権が制限された社会、等々」を歩むことになるのではないか、と思うからである。
 具体的には、物価の上昇による生活の圧迫(「アベノミクス」という幻想としか思えない経済政策で潤うのは、大企業=輸出産業や投資家だけであり、多くの国民は依然として「苦しい」生活を強いられるのではないか、と思われる。また、アメリカの言いなりになって具体的になったTPP参加は、明らかに多くの農家に大打撃を与えるものであり、「食糧自給率」を急激に下げ、僕らは日常的に「危険な輸入食物」を食べざるを得ないことになる)であり、原発の再稼働(たぶん「新設」も視野に入れているだろう)や原発輸出がが明らかにしているように、自公政権が目指しているものは「未来=展望なき社会」の到来である
 安倍自民党総裁がその第1声を福島市で行ったというのは、いかにも「皮肉」であり、「姑息」なやり方だと思う。彼は「<ねじれ>の解消によって、復興は促進される」といった主旨の演説をしたが、この演説には「フクシマ」によって未だ避難生活を強いられている15万人余りの人々の存在、とりわけおそらく今後何十年にわたって(永久に)故郷へ帰還できないであろう避難民(被曝者)の存在、さらには放射能除洗作業も遅々として進んでいない現実(除洗作業を「金儲け」の手段としてしか考えないゼネコンや中小企業の存在)が、すっぽりと抜け落ちている。また、フクシマに伴う「廃炉」作業にも莫大なお金と年月を要すること、つまりフクシマが僕らに「核と人間は共存できない」ことを改めて教えてくれたにもかわわらず、この人(安倍首相)の頭の中には、それらの「原理」は全く存在せず、あるのはいかに「権力」を維持し、自分がどんなに「偉い政治家」であるかを見せつけることができるか、ということだけである。この人が流行りのフェイスブックを利用して、自分に反対する人々を「左翼」呼ばわりしたことは、この人物がいかに「卑小」で「臆病」であるか、を如実に物語っている。この人のお祖父さん(岸信介)は、かの「安保闘争」の時に、国会を取り巻く数十万人の反対派に対して、自分はこの人たち(デモ隊)の「声」ではなく、デモに参加しない「声なき声」を信じて日米安保条約を結ぶのだと言ったが、その孫(安倍晋三)は、「声なき声」を聞く度量が無く、彼が聞くのは企業(経済団体)の人たちの声であり、彼の演説に日の丸の旗や日章旗を持って動員された「ネトウヨ」と呼ばれる人たちの声だけである。
 このような、彼のかつての盟友(拉致問題に関する)からも「右傾化」を心配される姿勢(思想・政治)に対して、何故これほどまでに「権力」にすり寄るのか理解できないのだが(権力というのは、余程「甘い汁」をもたらしてくれるのだろう)、「平和と福祉の党」公明党は彼安倍晋三の思想・政治を「是認」してのことなのだろうが、自民党と同じように「<ねじれ>解消」を叫んでいる。彼らは、自民党の「暴走」の歯止めになる、とでも思っているのだろうが、「平和」からも遠く、いかに「福祉」を削るかに腐心している自民党とは、本来「水と油」のはずなのに、もし<ねじれ>が解消して、自民党の思惑通りの政治が行われるとしたらと思うと、連立を組んで「与党」であることの「蜜の味」を吸い続けている公明党の「罪」は重いのではないか、と改めて思う。
 そんな「与党」の余りにも国民を見くびったような第1声に対して、では「野党」党首たちの演説はどうかと言えば、分裂して少数政党が乱立状態になっているということもあるのか、何とも「頼りなく」「迫力不足」としか言いようがない印象を受けた。特に、余りにも「ナイーヴ」であったからなのか、今日のような政治状況を招いたことに対して「最大の責任」を負うべき民主党の、何ともお粗末な迫力不足、たぶんそれは憲法問題でも原発問題に関しても自民党との「違い」を明確に打ち出せないところから来ているのだろうが、何とも情けない。それでも彼らにせめて「野党」として矜持を持ってもらいたいと、なけなしの「期待」を持たなければならないとしたら、「危機感」は深まるばかりである。
 ただ、はっきりしているのは、「憲法改悪」を目指す政党、原発再稼働・原発輸出を公約とする政党、基本的人権を制限するような政策を行おうとしている政党、アジア近隣諸国との摩擦を増長するような政党には「ノー」を突きつける必要があるのではないか、ということである。
 21日(投票日)まで、こんな憂鬱な日々が続くのだろうか。
<追記>
 なお、僕が抱く「危機感」は、もし仮に参院の「ねじれ」現象が解消されて、自公で過半数を占めるようになったら、これまでの自民党政治を知る者として、彼らは必ずや今度の参院選挙の「公約」でぼかしたり隠している「憲法改正」や「原発再稼働・新設」といった右派的な政策を「選挙で禊ぎが済んだ」、「選挙で認められた」とばかりに、一挙に推し進めるのではないか、と懸念されるからである。あの安倍首相の政治的パフォーマンス(振る舞い)を見ていると、第一次安倍内閣の時に、戦後思想を象徴する「教育基本法」を改悪したときのように、必ずや強引に右派適正作を推し進めるであろうというのは、推測ではなく確信として僕の内部に存在する。
 このとき、公明党は何ら「歯止め」にならないこと、このことは忘れるべきではない。「懸念」「杞憂」がそのままで終わることが一番いいと思いながら、イヤそんなことはない、「将来」のことをほとんど考えていないように見える安倍首相なら「必ず」実行するはず、と思う。。僕が「危機感」を抱くのは、現在がまさにこのような状況にあるからに他ならない。