黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「ねじれ」は、僕らの意識に!(5)――「憲法改正」を考える(その1) 

2013-07-12 09:05:22 | 仕事
 2,3日前になるが、「東京新聞」の連載「本音のコラム」を週1回担当している文芸評論家の斉藤美奈子が、「世論調査の結果を見ると、憲法改正に賛成の人が4割、5割いて、反対の人を上まっているけれど、改正に賛成している人のうち、どのくらいの人が憲法の全文を読んでいるか? そして読んだ上で賛成しているのか、はなはだ疑問である」と書いていたのだが、ほんとうに「そうだな」と思わざるを得なかった。一見、乱暴な議論のようだが、正鵠を射た主張である。
 特に、「平和憲法」を象徴する「第9条」(戦争放棄条項)を改正することについては「反対」が「賛成」を上まっているにもかかわらず、全体としては「改正賛成」が「反対」を上まわる、この「ねじれ」が意味するところは何なのか、を考えると、斉藤美奈子が言う「改正賛成派は、憲法の全文を読んでいないのではないか」が的を射た指摘だと思うのである。なぜなら、戦後一貫して「自主憲法の制定」を党是としてきた自民党(保守政権)は、「支配者のための憲法」と言っていい「大日本帝国憲法(明治憲法・旧憲法)」へのノスタルジアを捨てきれず、これまで何度か示された自民党の「憲法改正草案」を見れば分かるように、現憲法の柱の一つである「主権在民」を否定して「国家(公権力)中心」の憲法を制定しようとしてきた
 例えば、一人の表現者として僕が今一番気になっているのは、これもまた現憲法の柱の一つである「基本的人権」、とりわけ「自由権」(思想・信条の自由・表現の自由、等々)が自民党の「憲法改正草案」では、表向きは現憲法と同じように「認めている」ように装っているが、よく見るとその最後に「公共の妨げにならない限り」という制約が付いているのである。これは、ほとんど戦前の「治安維持法」の思想と同じで、「反権力」「反政府」の思想や運動を、「公共の妨げになる」ということで、「制限(弾圧)」することができる、ということである
 法律というのは、その作られたときの状況とは関係なく、権力の恣意によっていくらでも「解釈」が可能であることを考えれば、「自由権」に「制限・制約」を付けるという発想の本音は、「認めない」ということである。つまり「国歌・国旗法」が決まったとき、それを強力に推し進めた自民党政府は、法律の国会通過をスムーズにするためか、「思想・信条の自由」を尊重するとして、「教育現場や公の場に置いて、国歌斉唱、国旗掲揚を「強制するものではない」という付帯条件を付けたが、あれから何十年かが経って、東京都教育委員会が「国会決議」などは無視して推し進めた「強制」(現憲法を「廃棄」して、「自主憲法の制定」を主張する日本維新の会共同代表が東京都知事であった時代に行ったことだが)が象徴するように、権力はどのような法律も「恣意的に解釈」して、自己の権力を守ろうとするのである。
 そもそも、僕らが「最後の砦」として守らなければならない「第9条(戦争放棄・紛争解決のための戦力は放棄する)」にしたって、「自衛のための戦力」を否定したものではない、という「解釈」の下で、極東の同盟軍を作りたかったアメリカの戦略と二人三脚で着々と戦力を拡充し、現在では「世界7位」という武装集団(軍隊)を保持する国となっている。因みに、尖閣諸島や竹島、あるいは北方4島に関する「領土問題」に対して、週刊誌レベルでのことになるが、「日中戦争の再開」などという「戯けたもの言い」が通用しているのも、自衛隊(日本)が「持っていないのは、空母と核兵器だけ」と言われるほどに最新鋭の装備(そのほとんどはアメリカから買わされたもの)を保持する「軍隊」だからに他ならない。
 「平和憲法」のことについては後日詳しく触れるとして、今僕がもっとも怖れているのは、繰り返すが「基本的人権(自由権・平等権・抵抗権、等々)」が制限されることである。もし戦前の「治安維持報」を念頭に、自民党の「改正草案」が作られたものであるとするならば、インターネット社会になっていかにも「自由」が拡大しているかのように見えながら、権力者たちは自分たちに都合のいい情報はそのままに、都合の悪い情報は、安倍首相が反対派に対して「左翼」呼ばわりして排除しようとしたように、必ずや「反権力」の言論は封殺されるのではないか、と思うもし自民党の「憲法改正草案」がそのまま国会を通ってしまったら、さしずめこのブログなど最初に封鎖を強いられることになるのではないか、と思っている。
 恐ろしい世の中の到来である。
 僕が「憲法改正」を目論む保守政党に「反対」なのは、まさに以上のようなことを想定されるからに他ならない。

「ねじれ」は、僕らの意識に!(4)――TPP参加を考える

2013-07-11 09:28:01 | 仕事
 僕が今住んでいるところは、平成の大合併によって「前橋市」になったが、かつては人口12.000人ほどの赤城山の裾野に広がる「純農村」(もちろん、隣接する前橋市や桐生市、伊勢崎市のベッド・タウン化しつつあったが)であった。住民の多くはサラリーマンか兼業農家であるが、専業農家の数もそれなりに多く、「緑」の多い、拙宅のすぐ横を流れる粕川では数はそんなに多くはないが毎年ホタルを見ることのできる自然環境に恵まれた地域である。
 そんな農村地区に居を構えて40年、近くの畑や田を耕すお百姓さん(兼業農家が大部分)とも親しくなって、昨日も玄関で名前を呼ぶので出て行ったら、トウモロコシを抱えた知り合いが「食べてくれ」と言って、6本置いていった。その前は、別な知人が軽トラックを拙宅の前に止め、「トマトが好きだと言っていたから、持ってきた」と言って、完熟した大玉のトマトを5個、窓から手渡してくれるということもあった。また、素人(僕)が見よう見まねで行っている家庭菜園での野菜作りを見かねて、こうすればいいとか、肥料はいつ頃施せばいいとかアドバイスをしてくれ、時には苗が余ったからと言って持ってきてくれたり、植え替えの方法なども手ほどきしてくれたり、ということが度々あり、日本の農業はこのような人たちが支えているのだと実感することが、これまでにも何度かあった。
 そんな兼業農家の実態と共に存在するのが、専業農家の人たちが現在どれほどの苦境に立たされているか、ということである。1年に何回か流れてくる「○○さんの家はパンクしたそうだ」とか「△△さんの家の跡取りが家を出て行った」という<悪い噂>で、そんなにたくさんではないが「借金で苦しむ××さんの息子がビニールハウスの中で首をくくっていた」というようなものまである。実態については、よく分からないが、専業農家の人たちが農協や銀行から数千万単位の借金をしているのは事実で、現在我が地域の大地主は「借金のかた(抵当)」として多くの田畑を所有する農協だという、笑えない話も存在する。
 そんな「純農村地区」での生活体験から「TPP参加」問題を考えると、「米」を初めいくつか「例外品目」を作るようだが、日本の農業が壊滅的な打撃を受けるのは、火を見るより明らかである。自公政権与党はもちろん、民主党のみんなの党も、また日本維新の会もこぞって「TPP参加」に賛成のようだが、「TPP参加」によってまたまた「食糧自給率」が下がり、日本の「食生活」が危険きわまりないものになることは、間違いない。本当にこの国の政治家たちは、何を考えているのだろうか。 そして僕がおかしいなと思う最大の理由は、現在もなお多くの農産物(食材)を中国からの輸入に頼っているのに(もちろん、日本が食料を輸入している国は、中国だけでなく、アメリカやカナダ、オーストラリア、東南アジア諸国などからも大量に輸入している)、その中国との関係を尖閣諸島問題があるとは言え、安倍首相や右派政治家たちの「靖国参拝」に象徴される「歴史認識」によって「悪化」させていることである。さらに付け加えるならば、これまでの自民党を支えていた農家の人々の反対を押し切っても(これまでの農政の歴史を見れば、農家には時々「アメ」を与えれば大丈夫、と高をくくったような考え方があるようだ)、「TPP参加」を推し進めるのは、アメリカ追従をさらに強めることを意味し、アメリカの属国化をさらに強化すると思うのだが、安倍首相を取り巻く「右翼」の若者たちは、このことについて何故何も言わないのだろうか。言い方を換えれば、「TPP参加」問題に関しても僕らの意識の中に「ねじれ」があり、そのことを解消しない限り、この国の「未来」は見えてこない、ということである。
 以上のようなことから導かれる考えは、「TPP参加」問題も「原発再稼働・輸出」と同じように、「未来」を構想し得ない「愚かな政治家」とそれに見合った選挙民(国民)の意識を変えるのは、至難の業だということである。
 だが、ここであきらめてはいけない。このような「反対派」が苦境に陥っている状況にあって思い出すのが、7年前に亡くなった小田実がよく口にしていたことである。「反権力」「反権威」という意味では、常に少数派であった小田実は、「黒古さん、われわれは日本では少数派かも知れないが、世界の中では多数派かも知れないよ。そのことを信じて今を生きることが大切なんだよ」と言っていたものである。小田さんの言葉から、僕はいつも「少数派」であることを怖れてはならない、というメッセージを受け取っていたことを、今こそ思い出す。

「ねじれ」は、僕らの意識に!(3)――なぜ反原発か

2013-07-10 08:26:09 | 仕事
 これまでにも繰り返し「原爆文学」との関連などから「反原発の理由」について書いてきたが、いよいよ原発再稼働が参院選前に具体的になってきたことを受けて、再度確認しておけば、まずはスルーマイル島、チェルノブイリ、そしてフクシマが明らかにしたように、原発に大事故が起これば、それはヒロシマ・ナガサキが証明してきたことだが、当然のように原爆と同じようにたくさんの犠牲者(死者やヒバクシャ)を出すことからに他ならない。吉本隆明は、亡くなるまで「核は科学の力によって制御できる」と、あたかもフクシマがなかったかのような発言を繰り返してきたが、それが単なる「空想上の戯言」であったことは、フクシマが未だ収束していないことを考えれば一目瞭然と言っていいが、原発を推進しようとする人たちの論理は、究極的には吉本と同じ「科学万能主義=安全神話の構築」に拠るもの、と考えられる。
 吉本の「核」論がいかに恣意的かつ「幻想」に基づくものであるかは、拙著『文学者の「核」論―吉本隆明・大江健三郎・村上春樹』(彩流社 3月刊)で明らかにしたが、そこでも触れておいた反原発の二つ目の理由は、「高濃度放射性廃棄物(核のゴミ)」の最終処分場が未だに決まっていないこと(たぶん、永久に決まらないのではないか)である。核のゴミ(高濃度放射性廃棄物)の中心となる核燃料棒や「廃炉」から出るゴミの中には、核兵器の主原料となるプルトニウムのように半減期が数万年になる核物質もある。数万年先と言えば、それまで人類が生き延びているかという疑問も残るが、いずれにしろ原発を動かせば動かすほど溜まる高濃度放射性廃棄物の最終処分場が世界的な規模で決まっていない(デンマークとアメリカで、今建設中のものもあるが、日本の場合に限って言えば、フクシマが起こった現在、どの地域も最終処分場を引き受けないだろう。原発再稼働を推進する(黙認する)人たちの内部が「今がよければそれでいい」というニヒリズム・ジコチュウに染まっていること、つまり「将来」を構想しない原発容認論、これが一番問題である。
 3番目は、2番目との関連で、「夢の増殖炉・もんじゅ」も存在が象徴しているが、「核燃料サイクル」が確立されていない(理論的には可能なようであるが、技術的にはまさに「夢」でしかない)ことである。溜まる一方の「使用済み核燃料」をリサイクルして再利用しようとする発想は、「核と人間は共存できない」という思想と対立するもので、青森県六ヶ所村に建設中の「核燃料サイクル施設」が何百億円もの巨額をつぎ込んでも未だ稼働していないこと、僕らはこのことの意味を今こそ考えなければならない。
 4番目は、原発を稼働させることによって生じるプルトニウムが「核兵器」の原料であること、したがって原発の存在は明らかに「安全保障上の問題(核抑止力論)」であり、他国(近隣諸国)との「緊張状態」を作り出すものになっている、ということである。つまり、日本の場合、表向きは「エネルギー(電力)問題」としてのみ原発は語られるが、何故保守政権が「原発ゼロ」を目指さないかは、それが「安保問題」と深く関連し、「戦争」を想定するものだからに他ならない。原発を稼働させ維持するための資金の何分のいくつかでも「自然エネルギー」の研究・開発に注げば(例えば、太陽光発電とその蓄電装置を各家屋に「補助金」をふんだんに出して義務づければ)、電力問題など即座に解決するのに、それを保守政権が行わない理由は、まさにそこにある。
 以上、「反原発」の4つの理由について述べたが、結論的には、昨日も述べたように原発の存在は「人間の未来」を閉ざすものに他ならないということである。

<訂正>
 昨日の文章中、「朝日新聞群馬県版」とあるのは、「東京新聞群馬県版」の間違いでした。訂正します。

「ねじれ」は、僕らの意識に!(2)――原発再稼働問題

2013-07-09 08:29:17 | 近況
 昨8日、原子力規制委員会が「世界最高水準の安全性を目指す」とした原発の「新規制基準」が施行された。それに伴って関西電力(大飯3、4号基、高浜3、4号基、計4基)、四国電力(伊方3号基)、九州電力(玄海3,4号基、川内1,2号基、計4基)、北海道電力(泊1,2,3号基)の4電力会社は早々に「再稼働申請」を行った。フクシマを起こした東京電力も4電力会社と歩調を合わせて、柏崎刈羽6,7号基の再稼働申請を行うつもりだったようだが、泉田新潟県知事の強力な反対もあったためか「様子見」状態で、昨日は申請を控えたようである。
 そんな「原発再稼働」の動きを見ていると、各メディアが伝えるように、当然それは自民党(政権党)が「原発推進」を強力に推し進めようとしていることに「力を得て」行われたことであるが、表題「ねじれは、僕らの意識に!」との関係で言えば、この「原発再稼働」問題こそ、僕らの意識における「ねじれ」を如実に示すものはないのではないか。
 つまり、「再稼働」を申請された原発が存在する自治体(地域)住民の、「何十年も原発によってここの経済は成り立ってきた。もし、原発が動かなければ、たちまちのうちに<玄海集落>になってしまう」、あるいは「私らの生活は原発があって初めて成り立つものだ」といった発言が如実に示すように、原発が存在することによって保障された「現在の(豊かな)生活」をどのように維持するかを前提とする限り、つまり「経済=金儲け・豊かさ」を優先させた現在の在り方を前提とする限り、それはまた厳しい言い方になるが「未来・将来」に対して「責任を取らない生き方」ということにもなるのだが、そこに「原発再稼働」の最大の問題があるとしても、果たしてそのような生き方を是認した上でしか成り立たない「原発再稼働」を容認していいのかどうか。敢えてきつい言い方をするが、僕はそのような生き方(現実)を否定する、つまり原発に頼らない「もう一つの生き方」を追求しない限り、いつかまた「未来の人間」がフクシマを経験することになるのではないか、と思う。
 何よりも「安価」とされる原発の燃料――ウランや「死の灰」から取り出されるプルトニウム、しかしウランとプルトニウムを混合したMOX燃料さえ、核兵器の材料であるプルトニウムは原発を運転し続ける限り、どんどん溜まっていく――が100年ぐらいで枯渇すると言われていることを考えると、原発に頼るエネルギー政策は「刹那主義」と言うしかない。そして、「刹那主義」が自己中心(ジコチュウ)思考の産物であるとするならば、それは「経済最優先=金儲け主義」に通じるということであり、そのことを認めるならば、「原発再稼働反対=原発ゼロ思想」はまず自分自身の意識変革(思想転換)、つまり物質的な意味での「豊かさ」の追求を止めて、物質的には不十分でも精神的には充実した生活を望む考え方に転換しなければならないのではないか。つまり、1980年代にドイツの「緑の党」が提唱した「オルタナティヴ(もう一つの生き方)」の意味を、21世紀の現在、フクシマ後の現在にあって、僕らは真剣に考えなければならないのではないか、ということである
 アベノミクスと言われる「一時的=幻想的」な経済政策がまさに従来型の「資本主義経済」に基づくものであることを考えると、所詮それは「あぶく(バブル)」を呼び込むだけで、かつてのバブル経済によって「利益」を受けた者が一部の富裕層だけであったことを思い起こせば、僕らは「目を覚ます」しかないのではないか、と思う。
 なお、マスコミが伝える「原子力規制委員会」のメンバーのうち3人が田中委員長はじめ「旧原子力ムラ」(原発推進派の集まり)の出身であることや、今度の「新基準」に、事故が起こった場合遠隔操作で冷却操作を子ナウ「第2制御室」の設置や非常用電源の3系統目の設置、フィルター付きベント(排気)設備の設置、などが「5年猶予」になっていること、及び「避難経路」の見直しがほとんど行われていない、等を考えると、原発再稼働の動きは自民党の原発政策と同じように、フクシマ(だけでなく、スリーマイル島やチェルノブイリの原発事故、等の原発事故)から何も学んでいないのではないか、と思えて仕方がない
 さらに言えば、今朝の朝日新聞の群馬県版は、今度の参議院選挙に際して「原発に関するアンケート」を行い、それによれば自民党以外の候補者は「再稼働反対」と明確に回答を寄せたが、自民党の候補者(閣僚)は「回答なし」であったと伝えている。安倍自民党総裁も各地の演説で「原発(再稼働)政策」については触れていないようで、このような「姑息」なやり方を許す僕らの意識を、まず変えることが必要だとつくづく思う。

「ねじれ」は、僕らの意識に!

2013-07-08 11:10:08 | 仕事
 前に本当に「ねじれ」(衆参の)は解消した方がいいのか、という記事を書いたが、7月4日告示、21日投票の参議院選挙に対する各種の世論調査の結果を見て、もちろん自民党・公明党が主張するような「(衆参の)ねじれ解消」には断固反対と考えているが――自民党や日本維新の会が主張するような「改憲」を阻止するためには、とりあえず「ねじれ」状態であることが望ましいからである――、そのような与野党の獲得議席数がもたらす「ねじれ」は「ねじれ」として、問題は国民の意識の中にある「ねじれ」なのではないか、と思うようになった。
 つまり、世論調査が示す、今度の参院選において「比例代表」の投票先として40パーセント近くが自民党を上げ、あるいは選挙区(一人区)でも自民党が独占するような勢いでありながら、憲法第9条の改憲については50パーセント以上が反対し(改憲手続きを緩和する「96条」の改正に至っては60パーセント以上の人が反対を表明している。また、基本的人権の「自由権」を中心とした制限についても同様に反対の人が多い)、また原発の再稼働や輸出に対しても50パーセント以上の人が反対しているという、まさに「意識のねじれ」現象。
 何故このようなことが起きているのか。その答え(と思われるもの)は、同じく世論調査で「アベノミクス(経済政策)に期待する」と答えた人が「60パーセント以上」いるにもかかわらず、その効果を実感できるかとなると「70パーセント以上」の人が感じていない、と答えているところに示されているのではないか、と思われる。安倍政権の「経済政策(景気浮揚・雇用促進)には「期待」するが、今のところその効果を「実感できていない」あるいは「期待できないかも知れない」と思わざるを得ない現実、このような「股咲き状態」が、まさに現在の「意識のねじれ」の原因なのだと思うが、その「意識のねじれ」を解消するにはどうしたらいいか。
 それは、この国の「未来」(具体的には、自分の子供や孫たちの将来)にとって、もっとも問題としなければならない「政策」は何か、つまり、「将来の日本」を考えたとき(構想したとき)、果たして「憲法(第9条・基本的人権の尊重)改正」や「原発再稼働・輸出」は必要なことか、を真剣に自分の問うことだと思う。言い方を換えれば、「目先の豊かさ」に目を奪われて、「未来」を閉ざしてしまっていいのか、ということである
 東日本大震災、とりわけフクシマが僕らに教えてくれたことは、まさにそのことではなかったのか、と今は痛切に感じている

 今日から参院選の投票日まで、毎日少しずつ、僕らは今どのような問題を抱えているのか、僕の考えを伝えていきたいと思う。

この「危機感」は、僕だけか?

2013-07-05 05:05:04 | 近況
 昨日(4日)は、参議院選挙の公示日だったが、各政党の党首が発した第1声を聞いて、安倍政権が発足してからずっと抱き続けてきた何とも得体の知れない「危機感」がますます増幅するような気がした。
 理由は、はっきりしている。その第1は、昨日の安倍自民党総裁と公明党山口代表が申し合わせたように(たぶん、申し合わせたのだろう)「今度の選挙で<ねじれ>解消を!」と叫んでいたことにある。もし、仮に今度の選挙で先の衆議院選挙、あるいは都議会選挙の時と同じように「自公勝利=自公で議席の過半数獲得」ということになれば、自民党が悲願(?)としている「憲法改正(案)」が象徴しているように、先のアジア太平洋戦争の「敗北」によって僕らが手にすることになった「平和と民主主義」を基底とする社会の在り方は根底から「改変」され、「また再びの道=戦争への道・大企業優先の道(格差社会の増大)・「自由権」や「平等権」といった基本的人権が制限された社会、等々」を歩むことになるのではないか、と思うからである。
 具体的には、物価の上昇による生活の圧迫(「アベノミクス」という幻想としか思えない経済政策で潤うのは、大企業=輸出産業や投資家だけであり、多くの国民は依然として「苦しい」生活を強いられるのではないか、と思われる。また、アメリカの言いなりになって具体的になったTPP参加は、明らかに多くの農家に大打撃を与えるものであり、「食糧自給率」を急激に下げ、僕らは日常的に「危険な輸入食物」を食べざるを得ないことになる)であり、原発の再稼働(たぶん「新設」も視野に入れているだろう)や原発輸出がが明らかにしているように、自公政権が目指しているものは「未来=展望なき社会」の到来である
 安倍自民党総裁がその第1声を福島市で行ったというのは、いかにも「皮肉」であり、「姑息」なやり方だと思う。彼は「<ねじれ>の解消によって、復興は促進される」といった主旨の演説をしたが、この演説には「フクシマ」によって未だ避難生活を強いられている15万人余りの人々の存在、とりわけおそらく今後何十年にわたって(永久に)故郷へ帰還できないであろう避難民(被曝者)の存在、さらには放射能除洗作業も遅々として進んでいない現実(除洗作業を「金儲け」の手段としてしか考えないゼネコンや中小企業の存在)が、すっぽりと抜け落ちている。また、フクシマに伴う「廃炉」作業にも莫大なお金と年月を要すること、つまりフクシマが僕らに「核と人間は共存できない」ことを改めて教えてくれたにもかわわらず、この人(安倍首相)の頭の中には、それらの「原理」は全く存在せず、あるのはいかに「権力」を維持し、自分がどんなに「偉い政治家」であるかを見せつけることができるか、ということだけである。この人が流行りのフェイスブックを利用して、自分に反対する人々を「左翼」呼ばわりしたことは、この人物がいかに「卑小」で「臆病」であるか、を如実に物語っている。この人のお祖父さん(岸信介)は、かの「安保闘争」の時に、国会を取り巻く数十万人の反対派に対して、自分はこの人たち(デモ隊)の「声」ではなく、デモに参加しない「声なき声」を信じて日米安保条約を結ぶのだと言ったが、その孫(安倍晋三)は、「声なき声」を聞く度量が無く、彼が聞くのは企業(経済団体)の人たちの声であり、彼の演説に日の丸の旗や日章旗を持って動員された「ネトウヨ」と呼ばれる人たちの声だけである。
 このような、彼のかつての盟友(拉致問題に関する)からも「右傾化」を心配される姿勢(思想・政治)に対して、何故これほどまでに「権力」にすり寄るのか理解できないのだが(権力というのは、余程「甘い汁」をもたらしてくれるのだろう)、「平和と福祉の党」公明党は彼安倍晋三の思想・政治を「是認」してのことなのだろうが、自民党と同じように「<ねじれ>解消」を叫んでいる。彼らは、自民党の「暴走」の歯止めになる、とでも思っているのだろうが、「平和」からも遠く、いかに「福祉」を削るかに腐心している自民党とは、本来「水と油」のはずなのに、もし<ねじれ>が解消して、自民党の思惑通りの政治が行われるとしたらと思うと、連立を組んで「与党」であることの「蜜の味」を吸い続けている公明党の「罪」は重いのではないか、と改めて思う。
 そんな「与党」の余りにも国民を見くびったような第1声に対して、では「野党」党首たちの演説はどうかと言えば、分裂して少数政党が乱立状態になっているということもあるのか、何とも「頼りなく」「迫力不足」としか言いようがない印象を受けた。特に、余りにも「ナイーヴ」であったからなのか、今日のような政治状況を招いたことに対して「最大の責任」を負うべき民主党の、何ともお粗末な迫力不足、たぶんそれは憲法問題でも原発問題に関しても自民党との「違い」を明確に打ち出せないところから来ているのだろうが、何とも情けない。それでも彼らにせめて「野党」として矜持を持ってもらいたいと、なけなしの「期待」を持たなければならないとしたら、「危機感」は深まるばかりである。
 ただ、はっきりしているのは、「憲法改悪」を目指す政党、原発再稼働・原発輸出を公約とする政党、基本的人権を制限するような政策を行おうとしている政党、アジア近隣諸国との摩擦を増長するような政党には「ノー」を突きつける必要があるのではないか、ということである。
 21日(投票日)まで、こんな憂鬱な日々が続くのだろうか。
<追記>
 なお、僕が抱く「危機感」は、もし仮に参院の「ねじれ」現象が解消されて、自公で過半数を占めるようになったら、これまでの自民党政治を知る者として、彼らは必ずや今度の参院選挙の「公約」でぼかしたり隠している「憲法改正」や「原発再稼働・新設」といった右派的な政策を「選挙で禊ぎが済んだ」、「選挙で認められた」とばかりに、一挙に推し進めるのではないか、と懸念されるからである。あの安倍首相の政治的パフォーマンス(振る舞い)を見ていると、第一次安倍内閣の時に、戦後思想を象徴する「教育基本法」を改悪したときのように、必ずや強引に右派適正作を推し進めるであろうというのは、推測ではなく確信として僕の内部に存在する。
 このとき、公明党は何ら「歯止め」にならないこと、このことは忘れるべきではない。「懸念」「杞憂」がそのままで終わることが一番いいと思いながら、イヤそんなことはない、「将来」のことをほとんど考えていないように見える安倍首相なら「必ず」実行するはず、と思う。。僕が「危機感」を抱くのは、現在がまさにこのような状況にあるからに他ならない。