2,3日前になるが、「東京新聞」の連載「本音のコラム」を週1回担当している文芸評論家の斉藤美奈子が、「世論調査の結果を見ると、憲法改正に賛成の人が4割、5割いて、反対の人を上まっているけれど、改正に賛成している人のうち、どのくらいの人が憲法の全文を読んでいるか? そして読んだ上で賛成しているのか、はなはだ疑問である」と書いていたのだが、ほんとうに「そうだな」と思わざるを得なかった。一見、乱暴な議論のようだが、正鵠を射た主張である。
特に、「平和憲法」を象徴する「第9条」(戦争放棄条項)を改正することについては「反対」が「賛成」を上まっているにもかかわらず、全体としては「改正賛成」が「反対」を上まわる、この「ねじれ」が意味するところは何なのか、を考えると、斉藤美奈子が言う「改正賛成派は、憲法の全文を読んでいないのではないか」が的を射た指摘だと思うのである。なぜなら、戦後一貫して「自主憲法の制定」を党是としてきた自民党(保守政権)は、「支配者のための憲法」と言っていい「大日本帝国憲法(明治憲法・旧憲法)」へのノスタルジアを捨てきれず、これまで何度か示された自民党の「憲法改正草案」を見れば分かるように、現憲法の柱の一つである「主権在民」を否定して「国家(公権力)中心」の憲法を制定しようとしてきた。
例えば、一人の表現者として僕が今一番気になっているのは、これもまた現憲法の柱の一つである「基本的人権」、とりわけ「自由権」(思想・信条の自由・表現の自由、等々)が自民党の「憲法改正草案」では、表向きは現憲法と同じように「認めている」ように装っているが、よく見るとその最後に「公共の妨げにならない限り」という制約が付いているのである。これは、ほとんど戦前の「治安維持法」の思想と同じで、「反権力」「反政府」の思想や運動を、「公共の妨げになる」ということで、「制限(弾圧)」することができる、ということである。
法律というのは、その作られたときの状況とは関係なく、権力の恣意によっていくらでも「解釈」が可能であることを考えれば、「自由権」に「制限・制約」を付けるという発想の本音は、「認めない」ということである。つまり「国歌・国旗法」が決まったとき、それを強力に推し進めた自民党政府は、法律の国会通過をスムーズにするためか、「思想・信条の自由」を尊重するとして、「教育現場や公の場に置いて、国歌斉唱、国旗掲揚を「強制するものではない」という付帯条件を付けたが、あれから何十年かが経って、東京都教育委員会が「国会決議」などは無視して推し進めた「強制」(現憲法を「廃棄」して、「自主憲法の制定」を主張する日本維新の会共同代表が東京都知事であった時代に行ったことだが)が象徴するように、権力はどのような法律も「恣意的に解釈」して、自己の権力を守ろうとするのである。
そもそも、僕らが「最後の砦」として守らなければならない「第9条(戦争放棄・紛争解決のための戦力は放棄する)」にしたって、「自衛のための戦力」を否定したものではない、という「解釈」の下で、極東の同盟軍を作りたかったアメリカの戦略と二人三脚で着々と戦力を拡充し、現在では「世界7位」という武装集団(軍隊)を保持する国となっている。因みに、尖閣諸島や竹島、あるいは北方4島に関する「領土問題」に対して、週刊誌レベルでのことになるが、「日中戦争の再開」などという「戯けたもの言い」が通用しているのも、自衛隊(日本)が「持っていないのは、空母と核兵器だけ」と言われるほどに最新鋭の装備(そのほとんどはアメリカから買わされたもの)を保持する「軍隊」だからに他ならない。
「平和憲法」のことについては後日詳しく触れるとして、今僕がもっとも怖れているのは、繰り返すが「基本的人権(自由権・平等権・抵抗権、等々)」が制限されることである。もし戦前の「治安維持報」を念頭に、自民党の「改正草案」が作られたものであるとするならば、インターネット社会になっていかにも「自由」が拡大しているかのように見えながら、権力者たちは自分たちに都合のいい情報はそのままに、都合の悪い情報は、安倍首相が反対派に対して「左翼」呼ばわりして排除しようとしたように、必ずや「反権力」の言論は封殺されるのではないか、と思う。もし自民党の「憲法改正草案」がそのまま国会を通ってしまったら、さしずめこのブログなど最初に封鎖を強いられることになるのではないか、と思っている。
恐ろしい世の中の到来である。
僕が「憲法改正」を目論む保守政党に「反対」なのは、まさに以上のようなことを想定されるからに他ならない。
特に、「平和憲法」を象徴する「第9条」(戦争放棄条項)を改正することについては「反対」が「賛成」を上まっているにもかかわらず、全体としては「改正賛成」が「反対」を上まわる、この「ねじれ」が意味するところは何なのか、を考えると、斉藤美奈子が言う「改正賛成派は、憲法の全文を読んでいないのではないか」が的を射た指摘だと思うのである。なぜなら、戦後一貫して「自主憲法の制定」を党是としてきた自民党(保守政権)は、「支配者のための憲法」と言っていい「大日本帝国憲法(明治憲法・旧憲法)」へのノスタルジアを捨てきれず、これまで何度か示された自民党の「憲法改正草案」を見れば分かるように、現憲法の柱の一つである「主権在民」を否定して「国家(公権力)中心」の憲法を制定しようとしてきた。
例えば、一人の表現者として僕が今一番気になっているのは、これもまた現憲法の柱の一つである「基本的人権」、とりわけ「自由権」(思想・信条の自由・表現の自由、等々)が自民党の「憲法改正草案」では、表向きは現憲法と同じように「認めている」ように装っているが、よく見るとその最後に「公共の妨げにならない限り」という制約が付いているのである。これは、ほとんど戦前の「治安維持法」の思想と同じで、「反権力」「反政府」の思想や運動を、「公共の妨げになる」ということで、「制限(弾圧)」することができる、ということである。
法律というのは、その作られたときの状況とは関係なく、権力の恣意によっていくらでも「解釈」が可能であることを考えれば、「自由権」に「制限・制約」を付けるという発想の本音は、「認めない」ということである。つまり「国歌・国旗法」が決まったとき、それを強力に推し進めた自民党政府は、法律の国会通過をスムーズにするためか、「思想・信条の自由」を尊重するとして、「教育現場や公の場に置いて、国歌斉唱、国旗掲揚を「強制するものではない」という付帯条件を付けたが、あれから何十年かが経って、東京都教育委員会が「国会決議」などは無視して推し進めた「強制」(現憲法を「廃棄」して、「自主憲法の制定」を主張する日本維新の会共同代表が東京都知事であった時代に行ったことだが)が象徴するように、権力はどのような法律も「恣意的に解釈」して、自己の権力を守ろうとするのである。
そもそも、僕らが「最後の砦」として守らなければならない「第9条(戦争放棄・紛争解決のための戦力は放棄する)」にしたって、「自衛のための戦力」を否定したものではない、という「解釈」の下で、極東の同盟軍を作りたかったアメリカの戦略と二人三脚で着々と戦力を拡充し、現在では「世界7位」という武装集団(軍隊)を保持する国となっている。因みに、尖閣諸島や竹島、あるいは北方4島に関する「領土問題」に対して、週刊誌レベルでのことになるが、「日中戦争の再開」などという「戯けたもの言い」が通用しているのも、自衛隊(日本)が「持っていないのは、空母と核兵器だけ」と言われるほどに最新鋭の装備(そのほとんどはアメリカから買わされたもの)を保持する「軍隊」だからに他ならない。
「平和憲法」のことについては後日詳しく触れるとして、今僕がもっとも怖れているのは、繰り返すが「基本的人権(自由権・平等権・抵抗権、等々)」が制限されることである。もし戦前の「治安維持報」を念頭に、自民党の「改正草案」が作られたものであるとするならば、インターネット社会になっていかにも「自由」が拡大しているかのように見えながら、権力者たちは自分たちに都合のいい情報はそのままに、都合の悪い情報は、安倍首相が反対派に対して「左翼」呼ばわりして排除しようとしたように、必ずや「反権力」の言論は封殺されるのではないか、と思う。もし自民党の「憲法改正草案」がそのまま国会を通ってしまったら、さしずめこのブログなど最初に封鎖を強いられることになるのではないか、と思っている。
恐ろしい世の中の到来である。
僕が「憲法改正」を目論む保守政党に「反対」なのは、まさに以上のようなことを想定されるからに他ならない。