昨日(12日)は、久し振りの講演で、日頃考えている「差別と共生」というようなテーマで話しをしたのだが、僕のつたない話を聞いてくれた人たちの顔を見ながら、その時感じたのは、この国ではどうも全ての人間が「対等・平等」であることを原理として「共に生きていく社会」をめざす「共生」という考え方が、未だ十分に理解されておらず(一般的になっていないで)、ピラミッド型の、例えば封建時代の「士農工商」のような「階層・階級社会」を無意識に選択し、そのような社会の法が「居心地がいい」というように感じている人が、意外と多いのではないか、ということであった。たぶん、それは明治時代以降に強化された「近代天皇制(王制)」=権力構造の頂点に立つというより、三島由紀夫が言うような「文化概念」としての天皇制、共和主義的政体を目指してきた近代社会にあって「別格(象徴的)」に存在する天皇、の故なのではないかと思うが、「長いもの(強いもの)には巻かれろ」という心性が蔓延しているこの社会で、「差別」など「格差・階層・階級」を否定したところに成り立つ「共生」社会は、果たして可能なのか?
少々「絶望的」になりながら、そんなことを講演会からの帰途も考え続けたのも、昨今の「原発再稼働」「消費税増税」に狂奔する野田政権の姿に、この政権下(もちろん、自民党主導の、あるいは自公政権下でも、さらに言えば「弱者」や「文化」を切り捨てるような政策を次々と出している橋下徹大阪市長率いる「大阪維新の会」やそれに同調している「みんなの党」でも)では、「共生」社会への展望は拓けていかないだろう、と思ったからである。
それにしても、財界や経産省の役人の「言いなり」になっての判断としか思えない大飯原発3、4号機の「再稼働」、野田首相は「私の責任で」などと大見得を切っているが、「フクシマ」に関して、それを許容・推進してきた歴代の自民・自公政権の指導者はもちろん、東電も、建設した原発業者も、未だに誰一人「責任を取った」人がおらず、殊にひどいと思うのは、政府に責任を押しつけて恬として恥じない東電という企業であり、そのような「無責任」な私企業を野放しにし、そこから「甘い汁」を吸ってきた自民党政権、自公政権である。その意味では、「政権交代」したばかりで「フクシマ」に遭遇した民主党政権は「気の毒」という面もなくはないが、しかし、野田首相の全く自民党と同じ体質を持つとしか思えない、その政権運営(財界や官僚とのつきあい方、等)の仕方は、国民の現在の「用強雨」を全く忖度しないという意味で最低である。
このような野田首相の在り方がくっきりしてきたのは、「消費税増税」に関して、もうそれこそ「なりふり構わず」、政権交代を目指して掲げた「マニフェスト」など投げ捨てて(もちろん、小沢一郎のように「マニフェスト厳守」と僕は言うつもりはない、現実と理想の違いはあるだろうから「修正」しなければならないことも多々あるだろう)、、国民の存在などそっちのけで突っ走る。「社会保障との一体」はどこへ行ってしまったのか、と思わせるほどに、自民党案を「丸飲み」してまで「増税」を強行しようとする、なぜそのような「阿呆」なことを平気でやろうとしているのか、僕には全く理解できない。「私はドジョウ」などと言って国民を目眩ましにして、財界や官僚の「忠犬」として、何が何でも「増税一本槍」、本当に困った首相だな、と思う。政権内部にいる岡田副総理や前原政調会長、枝野経産大臣など、もう少し「まとも」だと思っていたのだが、「阿呆」な総理大臣に引きずられて、みんな「阿呆」になってしまったのか。これでは、「ネオ・ファシスト」としか思えない石原慎太郎やhししたとおるに漬け込まれるのは、当然か?
当分、「苛々」は続くかも知れないが、「怒り」を隠さず、ストレスをためないようにしよう、と思う。
とは言いながら、今書いている「フクシマ」に関する諸人の言説に関する「批判」は、ストレスを蓄積させるようなことが多く、当分解消は無理か、と思ってしまう。果たして「平穏」な日々は訪れるのだろうか。
少々「絶望的」になりながら、そんなことを講演会からの帰途も考え続けたのも、昨今の「原発再稼働」「消費税増税」に狂奔する野田政権の姿に、この政権下(もちろん、自民党主導の、あるいは自公政権下でも、さらに言えば「弱者」や「文化」を切り捨てるような政策を次々と出している橋下徹大阪市長率いる「大阪維新の会」やそれに同調している「みんなの党」でも)では、「共生」社会への展望は拓けていかないだろう、と思ったからである。
それにしても、財界や経産省の役人の「言いなり」になっての判断としか思えない大飯原発3、4号機の「再稼働」、野田首相は「私の責任で」などと大見得を切っているが、「フクシマ」に関して、それを許容・推進してきた歴代の自民・自公政権の指導者はもちろん、東電も、建設した原発業者も、未だに誰一人「責任を取った」人がおらず、殊にひどいと思うのは、政府に責任を押しつけて恬として恥じない東電という企業であり、そのような「無責任」な私企業を野放しにし、そこから「甘い汁」を吸ってきた自民党政権、自公政権である。その意味では、「政権交代」したばかりで「フクシマ」に遭遇した民主党政権は「気の毒」という面もなくはないが、しかし、野田首相の全く自民党と同じ体質を持つとしか思えない、その政権運営(財界や官僚とのつきあい方、等)の仕方は、国民の現在の「用強雨」を全く忖度しないという意味で最低である。
このような野田首相の在り方がくっきりしてきたのは、「消費税増税」に関して、もうそれこそ「なりふり構わず」、政権交代を目指して掲げた「マニフェスト」など投げ捨てて(もちろん、小沢一郎のように「マニフェスト厳守」と僕は言うつもりはない、現実と理想の違いはあるだろうから「修正」しなければならないことも多々あるだろう)、、国民の存在などそっちのけで突っ走る。「社会保障との一体」はどこへ行ってしまったのか、と思わせるほどに、自民党案を「丸飲み」してまで「増税」を強行しようとする、なぜそのような「阿呆」なことを平気でやろうとしているのか、僕には全く理解できない。「私はドジョウ」などと言って国民を目眩ましにして、財界や官僚の「忠犬」として、何が何でも「増税一本槍」、本当に困った首相だな、と思う。政権内部にいる岡田副総理や前原政調会長、枝野経産大臣など、もう少し「まとも」だと思っていたのだが、「阿呆」な総理大臣に引きずられて、みんな「阿呆」になってしまったのか。これでは、「ネオ・ファシスト」としか思えない石原慎太郎やhししたとおるに漬け込まれるのは、当然か?
当分、「苛々」は続くかも知れないが、「怒り」を隠さず、ストレスをためないようにしよう、と思う。
とは言いながら、今書いている「フクシマ」に関する諸人の言説に関する「批判」は、ストレスを蓄積させるようなことが多く、当分解消は無理か、と思ってしまう。果たして「平穏」な日々は訪れるのだろうか。