黒古一夫BLOG

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言葉が軽い――「沖縄慰霊の日」の野田発言

2012-06-24 09:11:17 | 近況
 昨日(6月23日)は、1945年の4月から始まった沖縄地上戦が実質的に終結した記念すべき日であり、それに因んだ「沖縄慰霊の日」でもある。毎年、この日には時の首相が訪れて「式辞=演説」を述べることになっているが、今年の野田首相の演説は、つい最近事故を起こしたばかりのアメリカ軍のオスプレイが沖縄の海兵隊に配備される計画が迫っているという「緊迫」したときであるにもかかわらず、「先の戦争で多大な犠牲を払った沖縄が現在の安保体制にとって重要な位置を占めている」といった「一般論」でお茶を濁し、沖縄が抱えている経済的にも政治的にも「困難」な状況について、全く応えないものを支えている。「空疎」な言葉の羅列なのである。
 これは、消費税増税に関して、「社会保障と一体」と言いながら、その具体的な内容を語らず、ただ闇雲に「不退転の決意」「国民生活に必要」を繰り返し、揚げ句の果ては「政権交代」の意義も投げ捨てて、自公と「大連立」してしまった政治手法と同じである。また、意味のない「空疎な言葉」を羅列して、それがあたかも「英知」の成果であるかの如く振る舞い、原発依存社会の「復活」を目論むような「大飯原発の再稼働」宣言と同じものである。
 何よりも、折角沖縄に行ったのだから、最低限「普天間基地」とその移設先とされるキャンプ・シュワブの辺野古沖ぐらいは「視察」すべきであり、仲井真沖縄県知事とも膝を交えて納得がいくまで「普天間基地問題」や「日米安保」について、話し合うべきであった。それなのに、仲井間知事とは空港で数分挨拶したぐらいで、東京にどんな忙しい仕事が待っていたのかは知らないが(民主党小沢グループの叛乱に備えて、「数」を確保するためには自分が必要だと思っていたのかも知れない)、これでは、「負担」だけを沖縄に背負わせて後はあなた達任せ、といった「無責任」きわまりない態度と言われても、仕方がないだろう。
 このような「無責任」な態度は、前の田中防衛大臣と全く同じで、このような「本土=ヤマト」の政治家に共通な態度は、普天間基地の辺野古沖移設計画してもオスプレイの沖縄海兵隊配備にしても、みな明治維新期における「琉球処分」と同じメンタリティー(沖縄差別)で行われているものなのではないか、と思ってしまう。先の太平洋戦争の末期に起こった沖縄地上戦で、日本軍に招集された沖縄人をはじめ学徒隊や県民防衛隊(武器が十分に行き渡らなかったので「棒兵隊」と揶揄された)の10万人を超す犠牲者を出した沖縄人の苦しみや哀しみを、田中前防衛大臣もまた野田首相も、全く理解しておらず、だからこそ「日米安保」の重視、という建前を前面に押し出して、オスプレイなどという危険きわまりない飛行機の配備を、「平気」で沖縄に押しつけようとしているのだろう。また、オスプレイの沖縄配備の前に、国内の何カ所かで飛行訓練が行われ、先日の群馬県版のニュースによると、群馬県の上空150メートルぐらいのところを飛行する訓練を行うという。沖縄配備もとんでもない話しであるが、国内での飛行訓練も、「日本国・日本人」をバカにした話しで、歴代の首相は「パートナー・シップ」とか「対等な関係」とか耳障りの言い言い方をしてきたが、このオスプレイの国内試験飛行は、日本を従属視していることの証としか思えず、そのことに一言も触れない野田首相はじめこの国の政治家は、みなダメな連中である。
 これらのことがいい例で、何とも野田首相の言葉は「軽い」のである。「軽い」言葉からは「理念」が見えてこない。野田首相の最大の欠点は、「理念」が無いままに強引に事を進めていくことで、不幸なのは、そのような言動の「軽い」首相に自分たちの運命を預けていることである。
 前の自公政権時代の小泉純一郎の「傲岸・不遜」な態度にも破棄がしたが、「鈍重」を装いながら「大連立」をしてまで国民の利益に反することを次々とやっている野田首相の顔も、最近は見るたびに吐き気がする。精神衛生上、大変よくない。何とかならないか、というのが、正直な気持ちである。

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