いよいよ残すところ1章と少しという状態になり、大学も春休みになったので(と言っても授業がないというだけで、会議は相変わらず集に何回も行われている)書くことに専念しているのだが、なかなかはかどらず、1日に10枚から12,3枚しか書けない。10年ほど前だったら1日に15枚をノルマにして、多いときは20枚も書いていたことを思うと、これも「老い」のせいかなとも思うが、それだけではなく、書いている最中に「村上龍」を今書くことの意味は何か、彼の文学史上の位置は何か、というようなことを考える時間が多くなって、闇雲にキーボードをたたけなくなったというのも、1日に書く量が減った理由の一つなのではないかと思っている。
それで改めて「村上龍」のことであるが、村上春樹などと比べて多作であり、発表媒体も選ばない作家である彼の作品をざっと眺めてみると、正直言って「玉石混淆」という書き始める前の印象を現在の時点で改める必要はないと思っているが、その全体像はともかくとして、結論的に言えば、現代作家の中で村上龍ほど「社会」や「世界」の在り方に強い関心を持っている作家はおらず、その自分の指向性を作品の中に生かしている作家も以内のではないか、と思っている。
村上龍は、1970年代にこの国の「近代化」は終焉し、それ以後現在まで私たちは誰からも「未来への指針」が示されない「希望なき時代」を生きているのだ、という時代認識を持って創作を続けているが、「内部」への志向(嗜好)を強めているように僕には思える現代文学の風潮に対して、彼の文学は明らかに対峙するものだと言っていいだろう。先に芥川賞を受賞した津村記久子の「ポトスライムの舟」について、派遣社員が主人公でありながら、現在の「派遣義理」や「雇用問題」に切り込んでいないと批判したが、村上龍の小説は、彼女の「内部=心理」に傾きがちな作風と違って、明らかにこの時代の問題点にその筆は届いており、何とかしてこの状況を切り開いていきたい、という作家の「願い」が込められている、と読むことができる。
もちろん、一方で村上龍の「絶望」(「喪失感」から生じたもの、と言うこともできる)の深さは半端ではなく、彼の作品が多様なのは、彼の絶望の深さと関係しているのではないかと思っている(詳細については、今月中には書き上げられ、6月頃には上梓される予定の拙著を見ていただきたい)。
そして、村上龍論を書きながら、日ごとにたまっていくその草稿の数を横目にしつつ思うのは、「100年に一度の不況だ」と言われながら、一向に先が見えない状況に苛立つ自分と「凪」状態にあるように思える社会総体とのギャップについてである。我が世代の性かな、とも思うのだが、倦んだような日々に苛立ちを押さえることができない。
そんな日々を幾らかでも慰めてくれるのが、芽吹き始めた木々と同調して進めなければならない「ジャガイモの植え付け」の準備である。先週、秋に集めておいた落ち葉(腐葉土)と牛糞や豚糞を入れた土を耕したばかりで、お彼岸の3連休の1日を使って植え付けを行う予定。今年は立松和平にも所望されたので、例年より少し多めに植え付けするつもりであるが、ジャガイモの後は里芋と続き、今しばらくは気分転換が可能な季節になる。
でも、「村上龍論」は早く仕上げないと、次の仕事も待っている。慌ただしさが一向に変わらない日々が続く。
それで改めて「村上龍」のことであるが、村上春樹などと比べて多作であり、発表媒体も選ばない作家である彼の作品をざっと眺めてみると、正直言って「玉石混淆」という書き始める前の印象を現在の時点で改める必要はないと思っているが、その全体像はともかくとして、結論的に言えば、現代作家の中で村上龍ほど「社会」や「世界」の在り方に強い関心を持っている作家はおらず、その自分の指向性を作品の中に生かしている作家も以内のではないか、と思っている。
村上龍は、1970年代にこの国の「近代化」は終焉し、それ以後現在まで私たちは誰からも「未来への指針」が示されない「希望なき時代」を生きているのだ、という時代認識を持って創作を続けているが、「内部」への志向(嗜好)を強めているように僕には思える現代文学の風潮に対して、彼の文学は明らかに対峙するものだと言っていいだろう。先に芥川賞を受賞した津村記久子の「ポトスライムの舟」について、派遣社員が主人公でありながら、現在の「派遣義理」や「雇用問題」に切り込んでいないと批判したが、村上龍の小説は、彼女の「内部=心理」に傾きがちな作風と違って、明らかにこの時代の問題点にその筆は届いており、何とかしてこの状況を切り開いていきたい、という作家の「願い」が込められている、と読むことができる。
もちろん、一方で村上龍の「絶望」(「喪失感」から生じたもの、と言うこともできる)の深さは半端ではなく、彼の作品が多様なのは、彼の絶望の深さと関係しているのではないかと思っている(詳細については、今月中には書き上げられ、6月頃には上梓される予定の拙著を見ていただきたい)。
そして、村上龍論を書きながら、日ごとにたまっていくその草稿の数を横目にしつつ思うのは、「100年に一度の不況だ」と言われながら、一向に先が見えない状況に苛立つ自分と「凪」状態にあるように思える社会総体とのギャップについてである。我が世代の性かな、とも思うのだが、倦んだような日々に苛立ちを押さえることができない。
そんな日々を幾らかでも慰めてくれるのが、芽吹き始めた木々と同調して進めなければならない「ジャガイモの植え付け」の準備である。先週、秋に集めておいた落ち葉(腐葉土)と牛糞や豚糞を入れた土を耕したばかりで、お彼岸の3連休の1日を使って植え付けを行う予定。今年は立松和平にも所望されたので、例年より少し多めに植え付けするつもりであるが、ジャガイモの後は里芋と続き、今しばらくは気分転換が可能な季節になる。
でも、「村上龍論」は早く仕上げないと、次の仕事も待っている。慌ただしさが一向に変わらない日々が続く。
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