黒古一夫BLOG

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「倫理的」であることの難しさ(3)――次世代への責任

2012-02-15 09:21:09 | 文学
 今朝の「朝日新聞」に載っていた大江健三郎の「定義集」(毎月第2水曜日に掲載)を読み、そして各新聞やテレビのニュースで報じられている橋下徹大阪市長が率いる「大阪維新の会」が発表した「船中(維新)八策」(その具体的内容は明らかになっておらず、今は項目と輪郭だけだが)を読んで思ったのは、「倫理的」であろうとすることの難しさである。昨日、池澤夏樹の東日本大震災や「フクシマ」に関して書かれた『春を恨んだりしない―震災をめぐって考えたこと』(2011年9月 中央公論新社刊 この長編エッセイ集は、作家の魂=精神が全編に籠もっていて、僕もこのような文章が書ければと思ったほど、感動的なものであった)を遅ればせながら読んだせいもあるのだろうが、大江がその脱原発の運動と思想に関して「次世代への責任」を言っていることと、橋下の言う「これからの日本を憂えて、改革を」という言葉が、あまりにも懸隔(違い)を感じさせるものであることに、愕然とせざるをえななかったのである。
 また魯迅の言葉を持ち出すが、かれは「絶望の虚妄なるは、希望の虚妄なるに相同じい」と言い、安易に「絶望」したり「希望」を抱くことを戒め、生きることに「リアル」であることが大切だということを教えてくれたが、大江さんの「次世代の命への責任」があるから脱原発のデモに出たり講演会で話し、署名活動をしているのだ、という言葉に励まされながら、大阪維新の会(橋下徹)の「船中八策」が現実政治へのカウンター(閉塞感打破)にはなっていても、その「改革」の先にほの見えてくるのが「独裁=ファシズム」であることを知ると、何ともやりきれない思いがしてならない。何よりも、かつての小泉純一郎の「改革」と同じように、人々の生活の中に「競争原理=弱肉強食の世界」を導入することの危険性――橋下徹らの発想が対象としているのは、明らかに「勝ち組」だけで、どのように「努力」しても、何らかの事情で「負け組」にしかなれない人間がいること、そうであるが故に「共生」という考え=本当の意味での民主主義が必要とされるのだということを、橋下らは全く分かっていない。僕が苛つくのは、大阪維新の会(橋下徹)の考え方から「負け組」あるいは「弱者」(生まれつき障害があったり、途中で失敗した者)への想像力が全く欠如している、と思えるからである――
 そんな「勝ち組」しか「恩恵」を受けないような大阪維新の会の選挙公約(「船中八策」)に賛同する者が、街頭アンケートで50パーセントを超えるという現実、彼らの全てが「ムード=感じ」だけで橋下の考えに賛同しているとは思わないが、例えば小泉純一郎のポピュリズム(大衆迎合主義)が結局は「格差社会」の固定化しか生み出さなかったことを考えると、もっともっと僕らは「冷静に」彼らの動きを観察し、そしてそれぞれの流儀で彼らを大胆に「批判」し続けていかなければいけないのではないか、と思う。そうすることが、大江の言う現在を生きる僕らの「次世代への責任」に繋がっていくのではないか、と思う。
 なお、繰り返すことになるが、先に記した池澤夏樹の『春を恨んだりしない』(1200円+税)は、数多くある「震災本」「フクシマ本」の中でも、秀逸である。文学者(作家)であることの深い自覚を持って「今僕らができることは何か」「今僕らは何をしなければならないか」「今僕らは何を考えなければならないか」を自らに問い、そして例えば「フクシマ」に関しては、「脱原発」に向けて「こうすれば可能なのではないか」と提言し、そのためには「各自ができることをする」ことが必要だ、と力強く書いていて、僕が感動したのは、このような本を出すこともまた「次世代への責任」を果たすことではないのか、と思い知らされたからである。実は、僕が『ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ―「書く」時代を考える』を出そうと思ったのも、ともかく「命」を次につなげなければならないとの思いからだったのだが、残念ながら池澤夏樹の本ほどその思いは「深く」なかったのかも知れない、と今は反省している。
 いずれにしろ、僕らが「倫理的」であることの難しさは相変わらずである以上、その難しさへの自覚だけは忘れないようにしたい、と思う。

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