黒古一夫BLOG

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書評『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

2013-06-07 04:46:03 | 文学
 以前にお知らせした村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の書評(「図書新聞」2013年6月8日号)が出たので、お約束通り、転載します。多くの人の「意見(反論)」「感想」を待っています。
 なお、この書評を基に約4倍の長さ(20枚ほど)の小論を、今夏台湾で発行される『国際村上春樹研究』(研究誌)に寄稿しました。

「リアリズム否定の創作方法は現代文学の本質に適うのか―「読む」楽しさを味わせてくれるストーリー・テリングは健在」(村上春樹著『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』)                                                               黒古一夫

 これまでどのくらいの数の小説を読んだか分からないが、この発売後一週間で一〇〇万部という驚異的な刊行部数を記録したとされる村上春樹の新作ほど、読み始めてから最後まで次々と既視感(デジャビュ)に襲われる小説を読んだことはなかった。
 まず、「過去に囚われ」、「喪失感と孤絶感」を内に抱え込んだ主人公という設定は、あの単行本・文庫合わせて一〇〇〇万部を売り上げたベストセラー『ノルウェイの森』(八七年)の主人公ワタナベトオルの在り様とそっくりだし、その主人公の「内面」が「空っぽ」であり「死」を内在させているというのは、デビュー作『風の歌を聴け』(七九年)から『羊をめぐる冒険』(八二年)を経て『ダンス・ダンス・ダンス』(八八年)に至る一連の作品を想起させ、その物語の「謎」――それは主人公や登場人物が心の内に抱え込んだ「闇」と言ってもいいのだが――を解くミステリー仕立ての展開は、『ねじまき鳥クロニクル』(第一部~第三部 九四・九五年)や『海辺のカフカ』(〇二年)、あるいはエンターティンメント性を追求するあまり、物語の展開に無理が生じた失敗作と言っていい『1Q84』(〇九~一〇年)と同様の方法を彷彿とさせるものであった。
 もちろん、今度の新作もまた、これまでの長編と同じように読者を物語の世界に惹きつけていくストーリー・テリングは健在で、その意味ではこの『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、「読む」楽しさを存分に味わえる作品と言うことができる。例えば、高校時代に形成された「乱れなく調和する共同体みたいなもの」である五人組(赤松慶、青海悦夫、白根柚木、黒埜恵理、そして主人公の多崎つくる)から、大学二年の時に「絶交」を言い渡された主人公は、一六年後に恋人木元沙羅の勧めもあって、その絶交の「真の理由=謎」を解く旅(巡礼)に出るが、その展開は読者を物語の内部へぐいぐい引き込んでいくもので、そのストーリー・テリング(物語の展開)に関しては、さすが、と思わざるを得なかった。
 しかし、主人公の名字に「色」が付いていないから他の四人「アカ」「アオ」「シロ」「クロ」から絶交を言い渡されたとでも言う「思わせぶり」な物語の設定、あるいは四人から絶交を言い渡されて「死ぬこと」ばかりを考え、その結果体型も含めて全く別人のようになった主人公が、いくら恋人の勧めがあったからといって、何故「一六年後」にその絶交の理由を尋ねる「旅=巡礼」に出ることを決意したのか、更には絶交の理由が「シロ」の狂言だったと知った「クロ」は、何故その時点で「好き」だった主人公にそのことを告げなかったのか、また大学で知り合い「心許す仲」になった、これも思わせぶりな黒と白を混ぜた「灰色」を名前の一部に持つ「灰田文紹」は、何故理由もなく物語の途中で消えてしまったのか、等々、いくら小説というものが「虚構(フィクション)」だからといって、現代小説が必須とするリアリズムを否定するような創作作法は、果たして人間の生き方を問う、あるいは大江健三郎風に言うならば「(歴史的存在である人間の)生き方のモデルを提出する」現代文学の本質に適うものであるのか。
 また、この何年か、村上春樹はイスラエルのパレスチナ(ガザ地区)への圧倒的な武力による理不尽な攻撃(侵攻)の直後に行われた「エルサレム賞」の受賞記念講演「壁と卵」で(〇九年二月)、自分は作家として「壁」(強権)の側に付くのではなく、「卵」(弱者)の側に立つ者だと大見得を切り、また東日本大震災(及びフクシマ)の二〇一一年六月のカタルーニャ(スペイン)国際賞受賞記念講演「非現実的な夢想家として」では、東日本大震災について「無常」を語り、同時にフクシマに関して「我々日本人は核に対して『ノー』を叫び続けるべきであった」などと発言してきたが、このような言葉とこの新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、どのように連関しているのか。
 作家の「発言」などその場限りで、にわかに信じるべきではないと思いつつ、それでも余りに恣意的な物語の展開及びその社会的発言と実作との懸隔とは、どこかで繋がっているのではないか、とも思わざるを得なかった。ネット上のみならず中央紙の書評欄でも、この村上春樹の新作に対して「謎解き」もどきの批評が横行している現状を知るにつけ、ハルキストとしてではなくデビュー作からずっと村上春樹の文学に付き合ってきた一批評家としての評者には、余計そのように思えてならず、作家が今後何処に向かって進んでいくのか、疑問が残った。

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10 コメント

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Unknown (たいち)
2013-06-07 17:38:21
 すいません、まず「リアルズムの否定」と言ったって、村上春樹なんて、デビューしてから30数年間ずっと、「リアリティがない、こんなの現代文学じゃない」と叩かれ続けて、それでも自分のスタイルを変えずにやってきてある意味ひとつのジャンルを確立してしまった訳ですから、「リアリズムの否定」たって、ずいぶん今更の否定のような気がします。今作だけならともかくずっとそうなんですから、正直同じような批判してもしょうがないと思います。
 次に、「余りに恣意的な物語の展開及びその社会的発言と実作との懸隔とは、どこかで繋がっているのではないか」の意味がよくわかりません。①「発言と実作が繋がっていない」という意味ですか?それとも、②「発言と実作は繋がっていないようにみえて、実は繋がっている」という意味ですか?いずれにしてもそれに対して批判的なスタンスということですよね。どちらの意味なのでしょうか?180度意味が変わってしまいます。
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ご説明します。 (黒古一夫)
2013-06-11 09:36:34
 村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』についての僕の書評に関する「たいち」さんの疑問について、拙文の意図するところを説明します。
 まず、「リアリズムの否定」ということについてですが、限られた紙幅の中で言葉足らずであったこと、このことを認めて、まず前提として村上春樹の文学について最近アメリカ発の「ニュー・リアリズム」の方法に則っている、と言う説があり、そのことを意識して、また僕自身は「デタッチメント」を基底とする小説と言われてきた初期~中期のノンフィクション『アンダーグランド』ぐらいまでの作品は、大江健三郎が言うところの「消極的ではあるが現在をよく描いている」、つまりそれなりにリアリティのある作品を書いていたと思っており、それ以後、特に『1Q84』と今回の新作は「リアリズムの否定」したところに成立しているのではないか、と思っているということです。
 また、「社会的発言と実作との懸隔」は、文脈上はあなたが推察している①だと僕は思っているのですが、伝わらなかったら、僕の書き方が悪いのだと思います。僕としては、この「社会的発言と実作との懸隔(乖離)」については、拙著『文学者の「核・フクシマ」論―吉本隆明・大江健三郎・村上春樹』で詳論したので、その延長で「丁寧さ」に欠けた文章になったかも知れません。
 このことに関して詳しくお知りになりたいのであれば、どこかで是非拙著をお読みいただければ、と思っています。
 以上です。
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ありがとうございます (たいち)
2013-06-11 22:00:22
 丁寧な御回答感謝いたします。前期村上春樹作品にはそれなりのリアリズムがあるということですね。ただ、正直に申し上げますと私の目からは前期村上春樹作品もリアリティのないファンタジー作品のようにしか見えません。だから、今回の作品も「相も変わらずの(リアリティのない)村上春樹作品だ。やれやれ(ちょっと村上春樹風)。」という印象しかありません。黒古様のおっしゃられるリアリズムと、私の考えていたリアリズムがおそらく違っていたのだと思います。

 次に「発言と実作が繋がっていない」ということですが、まず、「卵と壁」発言については、村上春樹作品は常に一貫として卵の立場に立っていますので、発言と実作が繋がっていないと言われたら村上春樹氏の立つ瀬がないでしょう。今作においてもシロという卵が登場しています。村上春樹氏はスピーチで「どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます」と言っています(この発言は一部から批判されています)が、まさにシロは「まちがっているようにしか見えない」卵です。しかし、主人公はシロを赦します。これ以上もないくらい卵の立場に立った小説だと思います。

 私が、「発言と実作が繋がっていない」のかこだわっていたのは、むしろ、発言と実作が繋がっているかのように、そのように解釈できるように描かれているのは問題ではないかと思ったからです。村上春樹氏は、小説を出版したら後は、小説は読者の解釈に委ねられ、自由に読者が解釈してよいという立場の人です。そのため、メタファーやファンタジーを多用して読者が自由に解釈できるようにしています。
 このためカタルーニャ講演と今作が繋がるべきだという立場からでも、以下のように繋げた解釈が可能です。

 なぜ、「16年後」にその絶交の理由を尋ねる旅に主人公は出なくてはいけなかったのか。16年後とは、複数の人が指摘しているように1995年(阪神淡路大震災)の16年後の2011年に東日本大震災が起こったことを示しています。そして、「色彩を持たない」主人公とは特色のない日本の平凡な一般市民を指します。日本の平凡な一般市民が今まで目を背けて問題から向き合っておらず、東日本大震災をきっかけに問題と向き合わなければいなかったこととは何でしょう。作者の「カタルーニャ講演」と今作との繋がりを重視するなら、これは間違いなく原発問題です。この小説を通じて作者は、日本人は原発問題と向き合わなければいけないと訴えているのかもしれません。シロが行った浜松は浜岡原発を暗示しているのかもしれません。クロが行ったフィンランドはオルキルオト原発を暗示しているのかもしれません。クロの言う「悪いこびとたち」は放射性廃棄物を示しているのかもしれません。

 このように、いくらでも発言と実作を繋げて解釈することは可能です。しかしこれは、要は「どうとでも解釈できる」ということです。村上春樹氏が無名な作家ならどうでもいいのですが、いつの間にか高名な作家になってしまい、ノーベル賞候補などと騒がれています。間違って村上春樹氏がノーベル賞など受賞した日には、「村上春樹作品はこのような意味があるのだ!」と自分の主張に引き寄せて解釈する人間がわらわらと現れるでしょう。村上春樹氏はこの危険性を分かって、どうとでも解釈できるような描写を続けるつもりなのでしょうか?私は非常に疑問です。
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なるほど、分かりました。 (黒古一夫)
2013-06-12 05:46:09
 なるほど、貴方のおっしゃったことの意味はよく分かりました。
 確かに、貴方のおっしゃるように、村上春樹の小説は「多様な読み」を可能にするものだと思います。その意味では、僕の「読み」も「多様な読み」の一つでしかありません。そのことは僕も重々承知しています。
 承知していながら、その「多様な読み」が余りに「恣意的=自己満足的な読み」になってしまうこと、そしてその「恣意的な読み」を許容することが村上春樹の「カタルーニャ国際賞の受賞講演(反核スピーチ)」のような、「デタラメな=事実に基づかない講演」を許してしまうのではないか、と僕は思っています。僕とすれば、もし本気で村上春樹が「反原発」思想を持っているのであれば、外国で「我々日本人は核に対して「ノー」を叫び続けるべきであった」などといわないで、今こそ原発再稼働を急ぎ、原発輸出にも熱心な安倍政権に対して、あるいはそのような安倍政権に60~70パーセントの支持を与える国民に、「フクシマは終わっていないよ」「反核(反原発)こそ今必要だ」といった主旨の発言をすべきなのではないか、と僕は思うのです。
 影響力が大きい(ファンが多い)村上春樹だからこそ、現実に基づいてそのように発言することが必要なのではないか、と思っています。
 最後に、貴方は『色彩を持たない~~』において「シロ」が「卵」だという解釈も可能だ、という主旨のことを書いていますが、では何故『シロ』が殺された事件を「未解決」のままにしておくのか。もし「シロ」が「卵」ならば、何故「多崎つくる」は「シロ」の死の解明に向かわないのか、という疑問が残る、ということを書き添えておきます。
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ありがとうございます (たいち)
2013-06-13 21:05:03
 御回答ありがとうございます。黒古様は、村上春樹氏は積極的に社会的発言をすべきというご意見と思われます。私は、逆で村上春樹氏は、社会的発言は控えた方がよいのではという意見です。いや、村上春樹氏がその作風を変え社会派作家となり、社会問題に正面から切り込むのであれば、積極的に社会的発言をすべきです。
 しかし、今作でもそうであるように、相も変らずどうとでも解釈できるリアリティのないファンタジー的作品を書いています。それでは、いろいろな人に自分の主張に引き付けられて解釈され、誤解・曲解され利用されるだけです。社会問題が絡まなければ誤解・曲解も害はないのですが、社会問題が絡めば誤解・曲解は非常に大きな問題になりかねません。
 だから、社会問題を扱いたいなら、誤解を生まないようなはっきりした作風にすべきだし、作風を変えるつもりがないなら社会的発言を控えるべきだと私は思います。そして、村上春樹氏は自分の作風を変えるつもりはおそらくないでしょうから、ただのファンタジー作家にとどまるべきだと思っています。ノーベル賞とか狙わなくていいです。

 なぜ、シロが殺された真相を追求しないのか?これはこの作品の根幹的な問いですね。
 村上春樹氏のボストンマラソンテロ事件を受けてのニューヨーカーへの寄稿文の一節に、「たとえ答えを見つけたとしても、それがわたしたちを助けてはくれないでしょう。」と言っています。これは、今作を意識しての発言だと思います。

 世の中真相を求めれば必ず真相が見つかる訳ではありません。迷宮入りの事件はたくさんあります。しかし、人々は真相が見つからないと落ち着かずイライラします。答えがないという状態は人を非常に不安にさせます。真相を求めるという行為は、果たして本当に真相を求めているのか?という問題があります。我々は真相を求めているのではなく、「真相らしいもの、答えらしい」ものを与えられることによって安心したいだけなのではないだろうか?ということです。
 「真相らしいもの」を仲間が受け入れられたことによって犯人に仕立て上げられた犠牲者が多崎つくるです。仲間(アオ・アカ)たちはシロの話がどうもおかしいと思いつつ「シロがこれだけ言うのだから、何かあったのだろう。全てシロの言うとおりではないにせよ、なにかしらつくるにも責任があるような問題があったに違いない」という「真相らしい」ものを受け入れ、多崎つくるを犯人に仕立てあげることに加担します。この作業によって彼らも加害者になります。しかし彼らは邪悪な人間たちではなく普通の人間です。彼らは多崎つくるを犯人に仕立て上げるという加害に加担しまったことに気が付くことによって彼ら自身も傷を負います。クロの場合は意識的にやっています。意識的にやっているから彼女の傷が一番深いです。シロは病んでいます。彼女の虚言は彼女自身も傷つけています。多崎つくるは彼らも傷を負っていたのだということに気が付き彼らを赦します。

 さて、多崎つくるがシロが殺された真相を求めたらどうなるでしょうか?真相は求めたら与えられるものとは限りません。警察が捜査しても犯人が見つからず迷宮入りになった事件を彼が解き明かせるのでしょうか。無理です。彼は難関の工科大学を出るほど頭が良いみたいですが、実際には側で思いを寄せる女の子の気持ちすらわからなかった「馬鹿」です。「馬鹿」な多崎つくるでは迷宮入りの事件など解き明かせません。解き明かせないとどうなるか。「真相らしい」ものを求めることになります。まあ、身近なメンバー達を疑いだすでしょうね。アオかアカのどちらかが疑わしいと。疑いだすときりがありません。ますます彼らのどちらかが犯人のように思えてなりません。そして、多崎つくるはメンバーの誰かを犯人と決めつけ憎悪し、報復を考えます。そこにはもはや赦しはありません。あるのは憎悪と報復だけです。

 ちなみにメンバーの中に犯人はいません。シロが殺されたとき、最近まで付き合いのあったメンバー達には警察が事情を聞きに来たと思われます。(クロには電話ですかね。)メンバーの中に犯人がいたら、過去のレイプ騒ぎのエピソードを話して警察がつくるを疑うように仕向けたでしょう。その場合、警察はつくるに事情を聞きにやってきていたと思われます。

 作者が言いたいのは、真相がわからなかったとして、「真相を求める」という気持ちはたやすく「真相らしいものを求める」気持ちに陥ってしまう。そして、それは見当違いの犯人を仕立て上げ、そのスケープコートに報復するという行為になりかねない。そうした危険に陥らないために、我々は「真相がわからない」という状態が存在するという事実に耐えることが必要だ。真相が分からなくても他人の傷は理解できるし、傷を理解することによって他人を赦すこともできるという主張かと思います。
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すいません。 (たいち)
2013-06-13 21:22:57
スケープコート(×)→スケープゴート(○)です。すいません。
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「たいち」さん、少し違います。 (黒古一夫)
2013-06-15 11:08:32
 「たいち」さん、貴方の文章を読みながら頭をよぎったのは、「市井8いちなか)の県人」という言葉です。正直言って、「玄人裸足」の批評だと思います。
 教えられること大です。僕が『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』をもう一度読み返そうと思ったのも、貴方の「コメント」を読んだからであり、貴方の「読み」を僕なりに確かめたかったからです。
 その結果については、前にも書きましたように村上春樹の文学は「多様な読み方」が可能だ、ということであり、僕の「読み」(解釈)は掲載した「図書新聞」の書評と変わらない、というものでした。
 そのような前提に立って、「たいち」さんの「読み」(解釈」について2,3疑問(異議)を書いておこうと思います。
 一つは、僕は村上春樹に「社会派的な作家」なって欲しいと思っているわけではない、ということです。僕は、村上自身が河合隼雄との対談で、「デタッチメント(社会的無関心)の作家からコミットメント(社会との関係を持つ)の作家に転換しなければ」と言っていたこと、およびエルサレム省の講演「壁と卵」で自分は「卵」の側につく、またカタルーニャ国際賞の講演で「我々日本人は核について『ノー』と叫び続けるべきであった」というような「社会的発言」を行ってきたから、それはどのように「実作」に生かされているのか、と問うただけです。
 村上春樹が河合隼雄との対談以後「デタッチメント」風を装ったり、「コミットメント」を打ち出したり、「迷走」しているというのが僕の基本的な考えです(試行錯誤している、という見方もあるようですが、僕はそのように思っていません)。
 二つめは,『色彩を~~』において、「シロの死」について、「真相」をうやむやのままにしておいたことに対して、貴方の解釈と違って、やはり僕は村上春樹の「遊び=怠慢(あるいは傲り)」のなせる技であって、読者に対して「不誠実」だと思いました。
 最後に、これは「文学観」の違いということになるのだと思いますが、文学というのは、大江健三郎的に言うならば「生き方のモデルを提出するもの」であり、否が応でも「時代を刻印する(と同時に「時代を超越するもの)」である、と僕は思っています――小説や詩を読んで「面白い」と感じるのも、作品が「時代との接点」を感じさせるからだと思います。かつてこれも大江さんが言っていたように、もし村上春樹の作品が「消極的に時代を反映している」ものであるならば、村上春樹は自分は「卵(社会的弱者)」の側にたち作家であるとか、「日本には反核運動がなかった」などと、いかにもノーベル賞狙いのような生半可な「社会的発言」をするべきではないのだ、と思っています――。
 以上です。
 
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ありがとうございます (たいち)
2013-06-16 06:49:48
 ご回答ありがとうございます。黒古様と私の読み方は違いますが、それは村上春樹氏が多様な読み方を可能にしているが故です。しかし、結局村上春樹作品は「多様な読み方が可能な書き方をしていること」自体が「遊び=怠慢(あるいは傲り)」ともいえるかもしれません。
 ただ、これは村上春樹作品の魅力でありかつ同時に欠陥であり、根幹なため、これを「遊び=怠慢(あるいは傲り)」と言ってしまうと村上春樹作品の全否定になってしまいます。もちろん全否定しても構わないのですが、村上春樹作品に対して何か肯定的な部分を汲み取って評価しようと思うならばこの「遊び」とみえる部分も受け入れないと、そもそも読めない作品なのかなと思います。

 「コミットメント」というのは誤解を呼ぶキーワードです。氏のインタビューを聞く限り彼の「コミットメント」とは「社会とのかかわり」のことではありません。彼の言う「コミットメント」とは、「孤独な人間」たちが、オウム真理教等のカルトや原理主義テロ組織など(孤独な人間たちが人との関わりを求めたい気持ちを食い物にして、悪をなさせる組織)に飲み込まれないように小説の力を使って彼らにコミットし、「(小説による)魂のネットワーク」をつくることらしいです。要はそういったどうとでも解釈できるキーワードを村上春樹氏が使うこと自体がいけないのだと思います。

 ただ、今作も含め村上春樹作品に「卵」を感じることができないとしたら、それは読者の方の「卵」の意味のとらえ方が間違っているとしか言いようがないと思います。正直「卵」は村上春樹作品にとって根本的な話です。いくら多様な解釈を許しているといっても、そういう読み方をされたら本当に村上春樹氏の立つ瀬はないかと思います。
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よく分かりました。 (黒古一夫)
2013-06-17 10:33:56
 「たいち」さん、貴方の基本的な村上春樹の文学に対する姿勢(批評軸)、今度のコメントを含めて貴方の文章からよく分かりました。
 また、繰り返すことになりますが、貴方のコメントから文学作品や作家の解釈(批評)が「多様」であることも、改めて認識しました。
 結果として、貴方の批評(解釈)とは永遠に平行線である部分と、意外と似ているところがあるということも、分かりました。そして、たぶん、僕は僕の方法でこれまでと同じような姿勢(批評)をとり続けるだろうと思いました。
 これに懲りず、時々僕のブログを覗いていただき、批判があったら忌憚なくそれをお知らせいただければ、と思っています。
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多謝 (たいち)
2013-06-17 20:50:03
 ここまで長々とお付き合いいただき感謝しています。
 最後の方で「間違っている」という言葉を使ってしまいましたが、作者が多様な読み方を許しているのに、他者の読み方を「間違っている」などそれこそ傲慢でした。反省しています。また、よろしくお願いします。 
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