黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「近代」は終焉したのではなかったのか?

2013-01-08 06:05:58 | 近況
 新しい年を迎えて1週間、例年と違っていたのは、新潟大学に留学している武漢の教え子(修士課程3年生)が8人、3泊4日で「論文指導」を受けに拙宅にやってきたことだが、慌ただしい毎日を過ごしながら、この春の刊行を目指して喫緊の問題になった吉本隆明と村上春樹の「核・フクシマ論」批判を中心とした文学者の「核」への対応をまとめていて気付いたこと、それは「悪しき近代主義」がまたぞろ復活してきているのではないか、ということであった。
 「悪しき近代主義」、それは吉本の原発擁護論に象徴されるような「(近代)科学は永遠に進歩・進展する」といった「科学神話」がフクシマの「復興」や原発の再稼働と共に語られるようになったことと、「アベノミクス」などという財界・経産省主導の「経済再生論=金権主義」が大手をふるって罷り通るようになったこと、及び明治新政府が掲げた「富国強兵」が如実に物語る「覇権主義=帝国主義」の復活を思わせる軍事力増強と外交政策、つまりこの国の「右傾化」が当たり前のように言われるようになったことである。
 これらの3点の「悪しき近代主義」について、足早に「批判」の骨子を述べておけば(たぶん、今年はこの問題にずっとこだわり続けなければならないのではないか、と思っているので)、まず第一の「科学神話」の横行についてだが、これは先の衆院選で国民の混乱・混迷を利用して300議席を獲得した自公政権が、公明党の「反原発」論を押し潰して既存原発の再稼働を目論むだけでなく、新増設も視野に入れるという、まさに15万人以上が未だに避難生活を強いられてるフクシマの現実を蔑ろにする動きが活発になっていることに象徴される。
 このことは、フクシマが「風化」しつつあることの現れでもあるが、原発の再稼働にしろ、あるいは新増設の目論見にしろ、「悪しき近代主義」と思われる第二の問題である「経済再生」という名の「金権主義」と密接な関係にあり、いずれも経済界・経産省主導で行われていることであり、果たしてフクシマを忘れて僕らの「未来」はあるのかと思うと、現在が如何に「刹那主義=ニヒリズム」に陥っているかを象徴しているのではないか、と僕には思える。多くの人が指摘しているように、既存の原発敷地に活断層が走っているのを知りながら、「経済=電力供給」という大儀面分によって原発を作り続けた自公政権(及び、フクシマが起こる前は原発建設を推進しようとしていた民主党)の「復権」は、まさに眼前の利益しか考えないニヒリズムそのものである。
 見せかけとしか思えない「豊かな」生活のために、僕らは果たして「未来」を売り払っていいのかどうか、僕ら一人一人が根本からこの問題を考えなければ行けないのではないか、と今は痛切に思っている。前にも尖閣諸島問題で「怪しくなった」日中関係に関わって書いたことがあると思うが、「内憂」を「外患」を作り出すことで凌ごうとする手法は、例えばあの「9・11」の同時多発テロのあとアメリカがイラク戦争を始めたことを見れば分かるように、各国の外交が取る「古い」手法だが、「景気回復」と裏表の関係にあるように見える「国家主義=覇権主義」の横行も、実は国内危機の表れだとしたら、僕らは安倍第二次政権に期待するような風潮は、厳に戒める必要があるのではないか、と思う。今(目の前のこと)さえよければ、「未来」など関係ないというのは、まさにビジョン無き今日そのものの姿であるが、それもまたニヒリズムの表れだとしたら、何ともやりきれない気持にさせられる。
 いずれにしろ、安倍新政権になって明らかになった「復古調」は、本来の意味における「民主主義」「個人主義」「生命主義(人間尊重主義)」を基底にした「近代」とは別物であることを明らかにするもので、かつて「ポスト・モダン」論議が盛んであった時代に(それはまさに「近代の終焉」を巡って論議されたものであった)否定された「進化し続ける近代」、つまり「悪しき近代」の再現でしかないことを、僕らはもう一度思い出し、その上で「近代後(ポスト・モダン)」にはどのようなビジョンを描くことができるのか、を考える必要があるのではないか、と思う。
 そうでないと、年の初めから様々なメディアを通じて流される安倍新政権の「バラ色の未来」というデマゴギー(嘘)に僕らは対抗できないのではないか。つまり、安倍新政権や今度の選挙で伸張した石原慎太郎・橋下徹「日本維新の会」に対する「イヤーな感じ」、あるいは「不安」はどうしたら解消できるのか、そのような岐路(決断するとき)に僕らが今立っているということを自覚しなければならない、ということである。
 何とも「憂鬱」な日々がこれからも続くのだろうと思うと、「戦後民主主義」の下で「殺すな!=平和主義」を暗黙の前提で育った世代としては、蔓延するニヒリズムに抗して頑張らねばと思う。
 なお、このブログは、ずっと以前に言明したが、理想としては『水滸伝』の「梁山泊」のような場になればいいと考えているので、読者の皆さんには「自由」にこの欄を使ってもらいたいと思っています。ただし、「匿名」(個人情報を明らかにできない事情を持っている人は、どうぞあらかじめその旨伝えた上でなら、「匿名」でも構いません)で、「誹謗中傷」を目的としたものは、これも再三再四言ってきているように消去しますので、ご了承ください。
 では、今年もよろしく。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿