黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

新芥川賞作品「ポトスライムの舟」を読む

2009-01-17 14:54:34 | 文学
 悩まされていた「歯痛」の方は、昨日友人の歯医者の所に行って、上下の奥歯を2,3本削ってもらったら、大部痛みも軽減し、明日辺りから日常に復帰できるようになるのではないかと思えるようになった。それにしても、友人の話では、年を取って疲労すると「歯が浮く」ようになって、噛み合わせが狂い、それで歯痛が起こるのだという。それに歯周病が重なる老化現象の一つだとも言われ、気持だけは全く「老い」を感じないということもあって、少々ショックであった。
 そんなこともあって、昨日発表された芥川賞作品を読んでみた。「ポトスライムの舟」(津村記久子 「群像」2008年11月号)というその作品、そんなに長くないのですぐに読めてしまったが、結論的に感想を言うと、「何でこれが芥川賞なの?」というものであった。大学を卒業して「正社員」として4年間勤めた後、上司や同僚から「嫌がらせ」のようなものを受け(主人公の「推測」に基づく)会社を辞めた後、今問題になっている契約社員になった30歳間近な(作品中で30歳になる)女性の、水だけで育つ「ポトスライム」と共にあるような日常を「淡々と」描いたこの作品、繰り返すが何故この作品が芥川賞を受賞したのか、正直言って僕には分からなかった。
 彼女は、8歳の時父親と離婚した母親と築50年ほどの雨漏りのするような家に住んでいるが、化粧品の瓶詰め工場での仕事の他に、大学時代の友人が開いているカフェで夜アルバイトし、家に帰ってもデータ入力の内職を行い、また土曜日にはパソコン教室の講師もしている。何のためにこんなに働いているのか、契約社員の手取りが13万円余り、ということもあるが、現在は163万円かかる「世界1周クルーズ」に参加したいという「ささやかな夢」を実現するため、ということになっている。
 友人の離婚話があり、「幸せ」な家庭生活を送っている大学の同級生との絡みがあり、風邪をこじらせて10日ほど寝込むというような話があって物語は進んでいくのであるが、確かにこの作品には小林多喜二の「蟹工船」が読まれるような、あるいは「派遣切り」された労働者がためらいなく共産党に入党する(「朝日新聞」の報道による)ような現在の労働状況を反映している、と言えなくはない部分もある。しかし、4つも仕事を同時に行わなければ生きていけないような状況に対して、この小説の主人公は「怒る」ことも、「嘆く」ことも、はたまた「絶望」することもなく、そっくりそのまま受け入れてしまっている。当世の若者(女性)はそんなもんだよ、という声が聞こえてきそうであるが、何もかも状況を受け入れる生きる生き方を描いた作品、これが現代文学を代表する作品であるとしたら、現代文学状況は津村記久子氏一人の問題(責任)ではなく、文学状況そのものがかなり疲弊している、と言っていいのではないか、と思えてならない。
 ここ何年か、青山七重、楊逸、川上未映子、と芥川賞は女性優位に展開しているようであるが、いずれの作風も「日常・生活」に自閉した世界を描いているもので、「世界」や「社会」と切り結ばない、という点に特徴を持っているようで、こんなことで現代文学は時代のニーズに応えることができるのか、と思わざるを得ない。この世の中の若い表現者(作家)たちから、この社会や世界の在り方に対する「怒り」や「苛立ち」、「怨念」、「悲しみ」などといった感情が消失してしまったのだろうか。
 僕も無力だが、このような文章を書いている今も、パレスチナ自治区ガザへのイスラエルの攻撃は続いている。死者も1000人を超えた。このような事態に対して「憤り」を感じ、そのことを裡に潜めた作品を書くことこそ、現代作家の使命なのではないだろうか。「炭坑のカナリア」(カート・ボネガット)こそ作家の役割だと思っている僕にしてみれば、この頃の新人作家たちには歯がゆさしか感じられない。これも年齢のせいだろうか。

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7 コメント

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?? (新浜)
2009-01-18 11:21:57
> パレスチナ自治区ガザへのイスラエルの攻撃
> は続いている。死者も1000人を超えた。
> このような事態に対して「憤り」を感じ、
> そのことを裡に潜めた作品を書くことこそ、
> 現代作家の使命なのではないだろうか。

本当に素朴な疑問なのですが、なぜそのように考えられるのですか。文学は自分の道徳的信条を伝達するための道具などではないように思うのですが(もちろんそうした伝達に使えることも事実でしょうが)。これは批判などではなく純粋に疑問なので、なぜ他でもないそのような文学観を持つに至ったのかをご教示願えると理解が進むように思います。

仮に先生の文学観を認めるとしましょう。もしある現代作家がイスラエルに大義ありと見て、パレスチナに対する強烈な怒りを秘めた作品を書いた場合には、黒古先生はどう思われますか。その作家は自身の倫理的憤激に忠実に書いたのですから、作家としての本分を果したことになるのですか。それとも文学の潜める憤激というのは黒古先生が好しとするような内容のものでなければダメなのですか(それだとなんだか社会主義リアリズムの亡霊みたいな話になりますが)。これも純粋な疑問です。

> 「炭坑のカナリア」(カート・ボネガット)
> こそ作家の役割だと思っている僕にしてみれ
> ば、この頃の新人作家たちには歯がゆさしか
> 感じられない。

この喩えは、普通の人間には感じられない微量の毒ガスでぶっ倒れるカナリアの過敏性の話でしょう。ガザで起きている道徳的悪は別に通常人でも感じ取れるものです(だからといって黒古先生も私もそれについて何かするわけでもないしできるわけでもないのですがこれは作家も同じですね)。いずれにせよカナリアの出番じゃないです。

むしろ、昨今の作家が黒古先生に面白くないとしたら、彼らがカナリアとして黒古先生には――文学の形を取って示されてもなお――気が付けない微量の毒に悶絶しているということはないのですか? もちろん、黒古先生自身が自分は「カナリア」なので自分に気がつけない「微量の毒」なんかあるわけがないというのなら、それはそれで正しいかどうかはともかく筋は通るのですが、もしかして本当にそう思われていたりするのですか?

私には今回のブログ記事(の後半)でいったい先生が何を考えてらっしゃるのか本当に良くわかりませんでしたので、もう少し説明があるとありがたいと思います。
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新浜さんへ (黒古一夫)
2009-01-18 17:11:56
 あなたのいくつかの疑問について、例えば現在のガザにおける状況について「カナリアの出番ではない」というようなことについて、僕には良く理解できないところがありますが、今回の文章で僕が言いたかったのは、最近の文学作品から「社会性」や「歴史性」が抜け落ちているのではないか、ということです。たぶんこれは「文学観」の違いなのだと思いますが、僕は大江健三郎が「文学の役割は―人間が歴史的な生きものである以上、当然に―過去と未来をふくみこんだ同時代と、そこに生きる人間のモデルをつくり出すことです」(「戦後文学から新しい文化の理論を通過して」1986年 『最後の小説』所収)と言っている考え方を承認する立場から、今回のような文章を書いています。
 あるいは、僕は『戦後文学者」たちが濃厚に持っていた夏目漱石以来の「文明批評」を裡に秘めた表現こそ、文学の王道ではないかと思っているので、あなたが言うような「微量な毒で悶絶している」現代文学にはもの足りなさを感じる、と言えばいいでしょうか。
 とりあえず、僕の発言の根拠の一端をお伝えしたつもりですが、今回の発言はあくまでも簡単な「感想」ですから、もしそれ以上のことがお知りになりたかったら、ご面倒でも僕の著書(21冊あります)なり、批評をお読み頂くのが一番いいのではないか、と思います。
 なお、蛇足的に言っておけば、ガザで起こっていることに対して、具体的な「行動」としては何もできないかも知れませんが、僕が今回このブログで発言したようなことも含めて、あなたも僕もガザで起こっていることに対して何らかの意思表示を行えば、それが集積されるということがあるのではないか、と思っています。「何もできない」(と思える)から「何も発言しない=意思表示しない」というのはニヒリズム、あるいは自己欺瞞ではないか、と僕は思っています。
 また、このことに関わってもう一つ言えば、僕は「100番目のサル」理論(サルの野生地として知られる宮崎県幸島で起こった「いも洗い」現象、に関して言われる理論。詳しくはお調べ下さい)を信じたいと思って生きてきた、ということです。
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まだよくわかりません (新浜)
2009-01-18 21:19:26
黒古先生、すぐにお答えをいただけて大変嬉しく思います。ですが、やっぱり先生が「文学観」というものをどう考えておられるのかがよくわかりませんので、幾つか明確化のための質問をさせていただければ幸いです。

1:黒古先生にとって「社会性」や「歴史性」の抜け落ちた文学は「つまらない(黒古先生の趣味の問題)」のか、それとも「文学の責任を果たしていない(作家なら誰でも果たすべきものなので果たしていない作家はダメな作家だ)」のか、それとも「道徳的に優れていない(たとえばガザの問題について声を上げようとしないやつは道徳的に悪い奴だ)」のかどれなんでしょうか。

また、文学の役割に関する大江健三郎のその断定的発言には何か根拠があるのでしょうか、それともそれは大江の決断ないし恣意の問題であり、たまたま黒古先生もそれに賛同されているということでしょうか。

2:「『戦後文学者』たちが濃厚に持っていた夏目漱石以来の『文明批評』を裡に秘めた表現こそ、文学の王道ではないかと思っている」とのことですが、なぜそれを「王道」だと思われるのですか。それともそれは主観的な「文学観」の問題で、他者に対してなぜそのような文学観を採るべきかなのかを説明・正当化できるようなものではない、とお考えですか。

3:もし「文学観の違い」ということなら、たとえば先生はそうした最近の若手作家に「私とあなたでは文学観が違うのでお気に召さなくてもしょうがありませんね」といわれたら、そうですねといって引き下がられるのでしょうか。もしそうならば、そんなに相対主義的でいいんでしょうか。

4:多分お答えをいただいていないと思うのですが、「社会性」や「歴史性」が抜け落ちてはいないけれど、黒古先生のお気に召さないような思想を表現するような文学作品についてどう思われますか。それが自分にとって思想的に敵だとしても「文学の役割」を果たしているものとして承認されるのですか。

以下は文学がどうのというより、一般的な事柄としてですが(上の4つの質問が純粋な疑問であるのに対しこれは質問ではなく批判です)、

5:
> 「何もできない」(と思える)から「何も
> 発言しない=意思表示しない」というのは
> ニヒリズム、あるいは自己欺瞞ではない
> か、と僕は思っています。

まあ、発言するだけなら体も懐も痛みませんからね、というのが私の正直な感想です。たとえば、本当に何かの改善にコミットしているのであれば、やはり何かはするのだと思います。アフリカの貧困についてたとえば私が国際的な医療団体などに寄付をするのは、それで少なくとも何事かが為されるからです。ガザの問題については、自分の生活と折り合いがつくような形で(というのは時間の問題がありますから金を出してということにほぼ等しいわけですが)、あの戦争状態に何がしかの影響を与えられるとは思いません。もちろんブログかどこかでアフリカの貧困やガザの問題について何かを言うだけなら(多少の時間は食いますが)何の負担もありませんが、まあはっきりいって何の意味もないと思います。

> 僕は「100番目のサル」理論(サルの野
> 生地として知られる宮崎県幸島で起こった
> 「いも洗い」現象、に関して言われる理
> 論。詳しくはお調べ下さい)を信じたいと
> 思って生きてきた

ワトソンの『生命潮流』ですね。上のように言われる先生も多分お調べになったことがおありでしょうから、宮島でそんな現象はまったく起こっておらず、単なるワトソンのでっちデッチ上げだったということはご存知のはずだと思います。従って、先生は何の根拠もなく、たとえばブログなどで「声を上げていれば」その内なんでだかみんなが同じ考えを持つようになって、みなが同じ考えを持つようになるとなぜだか世界が変わる(といいんだがな)、などという恐ろしく能天気な願望思考(wishful thinking)をお持ちだということになってしまいますが、そういう理解で宜しいのでしょうか。本当に世界を変えたければ自分で実際に動くか少なくとも金を出すしかない、というのが当たり前のことだと思ってきた私にはまったく馴染めない考え方です。実質的には何もしていない(ガザについていえばそもそもできない)のに「声をあげ」ただけで何かをした気になるなどということのほうがよっぽど恐ろしい「ニヒリズム」だと思うのですが、いかがでしょうか。

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新浜さんへ、もう一度、簡単に。 (黒古一夫)
2009-01-19 10:29:10
 ご質問の1~4まで、一々別けてお答えするには紙幅と時間が足りませんので、また「ご不満」に思うかも知れませんが、まとめてお答えします。
 まず、僕は僕の「文学観」を強制的に押しつけようと思っているわけではありません。ですから、「社会性」や「歴史性」が抜け落ちている(と僕には思われた)津村記久子の芥川賞受賞作品「ポトスライムの舟」について、僕は評価しませんが、その僕の「評価」について、それは「好み=趣味」だと言われても否定しません。文学作品の「読み」について、それは百人百様であるというのは、あなたも経験的にお知りになっていることだと思います。「普遍的」な読み方(入試の現代文のような「正解」)があるわけではない、という前提に立って、僕は僕の「読み」を「感想」として示しただけです。
 ですから、もし僕の「感想」に異論があるのであれば、「ポトスライムの舟」に対するあなたの「読み」を示していただければ、そこから議論は展開するのではないかと思います(いまは、議論している時間がありませんが)。文学作品の「鑑賞=読み」というのはそういうものだ、と僕は思っています。
 なお、前文でも書きましたが、僕の文学観に大きな影響を与えてくれたのは、大江健三郎の『最後の小説』に収録されている「戦後文学」論や「現代文学」論(「戦後文学から新しい文化の理論を通過して」等々)です。前文では、それを舌足らずの形でしか言えませんでしたので、もしお時間がありましたら、どうぞ大江の原文を読み、その上で疑問を呈していただければ、と思います(因みに、『最後の小説』は現在文庫で流布しています)。「戦後文学者」たちの位置についても、この本の中には書いてあります。
 さて、僕への「批判」についてですが、正直言いますと「百匹目の猿現象」理論が、捏造されたもの(学問的にいい加減なもの)であるということ、ご指摘されるまで知りませんでした。僕がこの本のことを知ったのは1980年代の初めに全世界的な規模で盛り上がった「反核運動」の過程で、デモや集会以外でどのように反核の意思表示ができるのか、を考えているときに目に入った書物(「百番目のサル」ケン・キース・ジュニア著、Y・モンキー編 佐川出版 1984年3月刊)で、生物学的世界に関心を持たなかった僕には、ライアル・ワトソンの理論が否定されていることを知りませんでした。(因みに、あなたは「幸島」を「宮島」と誤記していますが、誤記ですよね。広島の宮島に鹿はいても猿はいなかったと思いますので)
 しかし、学問の世界とは別に、僕は「書く=メッセージを発する、思いを外化する」という行為が全くの無駄であるとは思っていません。あなたは「ブログ」などに自説を書くだけでは、そんなのは「自己欺瞞」だとおっしゃりたいようですが、僕はそうは思いません。あなたがおやりになっているという「国際的な医療団などに寄付する」行為(僕もこの歳になるまで何回そのような寄付行為をしたでしょうか。寄付行為だけではありません。デモや集会に参加したり組織したりしました。)と本質的には同じことだと思います。何らかの「意思表示」をするという意味においてです。僕は、「アジテーション」するつもりは毛頭ありませんが、僕の考えに同調してくれる人(「同調」だけでなく、あなたのように「異論」や「疑問」を返してくれる人も含めて)が増えてくれれば、この社会もいくらか動くのではないか、そんな気持が心底にあるが故に、物書き(批評家)をやっているのだと思います。もちろん、「声を上げただけ」で何かをやったなどと思うほど、僕は楽天主義ではないと思っています。むしろ、「声を上げることしかできない」今の自分に苛立ち、悲観することしばしばで、たぶん僕の書く本や文章にその「苛立ち」や「絶望」が反映しているのではないか、それは余り良くないことなのではないか、と思っています。
 以上です。
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Unknown (一読者)
2009-01-19 16:29:16
>一々別けてお答えするには紙幅と時間が足りませんので

ブログに書く文章には「紙幅」はありません。
どのような長文でも気が済むまで書くことができます、それがブログという電子メディアの良いところです。

この場合は正直に誠実に、「面倒くさいから」と言うべきです。そういう逃げの態度が含まれていることくらいは、先生のコメントを読めばすぐわかります。

先生の回答は、新浜さんが呈する建設的な議論からの逃亡です。
質問に対しては、「まとめて」ではなく、誠実に答えるべきでしょう。
どうか、期待を裏切らないでください。

一読者として、先生の活発な議論を期待しています。
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Unknown (ネットイケメン)
2009-01-25 00:13:08
ネットジジイの黒古先生
早く新浜さんの質問に応えたらいかがですか?
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新浜氏の「4」の問の意味 (景清)
2009-01-25 00:37:01
新浜氏が提出した「4」には、是非とも答えていただきたいと思う。

「4」の問いこそ、黒古先生の「文学観」の危うさの核心をついたものだと思うからだ。

新浜氏が建設的な議論のために丁寧に論点整理を行なっているのだから、その一つ一つに誠実にお答えいただきたいが、「社会性」を重んじると標榜されている先生であるならば、特に「4」の問いには回答する義務があろうと思う。

自己の信ずる「社会性」と他者の信ずる「社会性」の葛藤をどのように引き受けるのか。

一面的な「社会性」への意志がファシズムやスターリニズムにストレートにつながってゆく危険をどのように倫理的に引き受けるのか。

そしてそのような倫理的な構えは文学の問題とどのように関係しているのか。

新浜氏の問、特に「4」の問はそのような問題を真面目に提起しているのだと思う。そのことに少しでも思いが至るならば、「あくまで自分の文学観で、他者に強制するつもりはない」などという回答ですますなどということは、あり得ないことだと思う。強制するつもりのない個人的な文学観が「社会性」を標榜した時に不可避的に孕んでしまう他者への強制の問題について、「4」は問うているのだから。

私としては、「他者に強制するつもりはない」などとうそぶく黒古氏ではなく、全体主義の危険をも自身の痛みとして引き受けた上で、自身の正義の正当性を地道な論理で説得を試みる黒古氏を見たいと思う。「声をあげることしかできない」ことへの痛みより、「声を上げることの痛み」を倫理的に引き受けた上で「声を上げる」黒古氏を見たいと思うのだ。
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