黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

暑いねー。

2008-08-04 09:08:20 | 文学
 夕立がないせいなのか、夜になっても「熱帯夜」となる暑い日が続いています。余りクーラーが好きではない僕も、さすが耐えきれず、昨日から書斎にクーラーを入れて仕事をしている。夏休みに入って続けて時間が取れるせいかもしれないが、懸案の「村上龍論」が順調に滑り出し、この分では9月中に原稿を版元に渡せるのではないかという見通しが立ってきた。
 奇をてらわず、「作品論」を中心にオーソドックスな「作家論」として書こうと思っている今回の「村上龍論」、前(発表当時)に読んだ作品の場合、ストーリーとその時考えた主題などについては覚えているが、細部については忘れているということがあり、読み直すと「新たな発見」や重要箇所の変更、などといった「読み」に関わる原理を何度も経験したが、そのような「第一次読み」と「第二次読み」の間に生じた「違い」や昔も今度も変わらない「読み」をを楽しみながら、ノルマと課した「1日10~15枚」というペースを今のところ守ることができている。お盆に人が来るのでこのペースは乱れるだろうが、2年ぶりの「書き下ろし」に自分でも驚くほど緊張して取り組んでいるのも、村上龍という現代作家が、「限りなく透明に近いブルー」を皮切りに、発表の時々に作品を読んで感じてきたこと以上に、この時代や社会の在り方に対して「危機感」を持って創作活動に当たっている、と感じているからに他ならない。
 その詳細については、もちろんできあがった「作家論」を読んでもらうしかないのであるが、例えば彼がドラッグや異常性愛(SMなど)についてこれでもかこれでもかと書き継いでいるのは、当然「読者」(編集者)の要求があってということでもあるのだろうが、それ以上に村上龍がそのような世界こそこの時代や社会が集約されていると思っているからである。そのことについては、慧眼の士はもうすでに気が付いていたのだろうと思うが、正直言って僕は今回まとめて読み直すことによってそのことに気付いた、ということである。
 昔(1994年頃)、大江健三郎がノーベル賞を受賞した頃に、「燃えあがる緑の木」の宣伝を兼ねて前橋で講演をした際に、お知り合いなのだから主催者から一緒に夕食を、と誘われた際に大江さんと同行していた新潮社の担当編集者が、話がたまたま発行部数のことに及んだとき、大江さんはそのころ数万であったが、村上龍はその10倍であることを知らされ驚いたことがある。僕も村上龍の本は買っていたが、初版で20万部とか30万部というのは、驚くべき部数で、当時では村上春樹や吉本ばなな(現よしもとばなな)と同クラスで、誰が読むのだろうと当時は訝しく思っていたが、今回作品を読み直して、たぶん若い人が皮膚感覚で感じているこの社会や時代を生きる「危機意識」を村上龍は、丸ごと作品の中に描いている結果がそのような部数に結びついているということが、わかった。
 その意味では、僕の「村上龍論」は、そのような若い感性が受け取った「危機」意識をいかに捕まえるか、それを現代の問題としてどのようにクロスさせていくか、に成功か否かがかかっていると思っているのだが、果たしてどうなることだろうか。乞うご期待、と言いたいところだが……。
 なお、いろいろな人から「そんなに忙しいのなら、ネット小僧たちをまともに相手にしない方がいいのでは?」といった主旨のご忠告を頂いたが、次から次へと攻撃してくるネット小僧たちへの対応もまた「面白い」と思っているので、当面は対応していくつもりです。ご忠告、ありがとうございました。

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