残り少なくなった日々を心配してくれたのか、ベケッシュ教授が「知られざるスロベニア」を紹介してくれるというので、快晴の空の下、南部のクロアチア国境沿い(イストラ半島)に広がるカルスト台地を案内してくれた。最初に行ったのか、ユネスコの世界遺産にも登録されている(といっても、観光施設らしきものはほとんど無い)巨大な「穴」。何千万年もかけて削られた深い穴に、カルスト台地を流れる水量の多い川が吸い込まれていくような光景は、圧巻だった。がけの上に立つ教会の近くにも底なし穴と称される穴があり、上から覗いたのでは底が見えないほど深かった。ベケッシュ教授曰く「この近くでサッカーはできないね。穴にボールが落ちたら拾えないから」。確かに、垂直に落ち込んでいる穴の壁をはい上がるのは、大人だって無理、そんな穴の周りにも集落が存在するのだから、人間というのは不思議な生き物だと、改めて感心させられた。
次に行ったのは、日本で言う「河岸段丘」を何十倍にもしたような、石灰岩の崖が何段にもなっている場所、崖の途中には大きな穴が空いていたり、今にも落ちそうな岩が乗っていたり、そんな崖の斜面に広がるブドウ畑(ワイン用)と畑、そして集落、おまけに中世に建てられたという監視用の城、崖の真下から眺め、そして反対側の斜面から眺めると、その光景の圧巻さが倍増した。崖には割れ目があるようで、リュブリャーナ市とコペル市を結ぶ鉄道が、崖の途中を縫うようにはい上がっていくのが遠望できた。自然の営みの結果だということなのだろうが、何十キロも続くこの石灰岩の崖と周辺の風景は、見事としか言いようがなかった(アダプターを忘れたので、デジカメで撮った写真を見せられないのが残念だが、帰国したら適宜写真を入れて「再編集」したいと思うので、乞うご期待)。
三番目は、先の崖の反対側にある中世の城塞教会、教会の周りを5メートルほどの城塞(銃眼というか、弓を射る穴が所々に空いている)が囲む教会の中は一面聖書物語が壁画として描かれており、無名の画家が描いたというそれは、見事なものであった。城塞は、攻め込んできたトルコ軍と戦うために作られたと言うが、村人が籠城して敵と戦う様を想像すると、一気に頭の中は「中世」になっていた。
最後に訪れたのは、ピラン市の海沿いに広がる広大な塩田、である。塩田というとすでに消滅してしまった瀬戸内地方のもの、あるいは今も観光用として存在するのと地方の塩田を想起するが、そんなものではない。見渡す限り4画に仕切られたマスで天日干しして塩を作るという施設(その半分以上は今では使われておらず、現在は鳥の楽園としてラムサール条約に登録されている。そこの売店で売っている自然塩を買ってきたが、試食して全く味がちがうことを認識させられた。
帰参して夕食をした店で、全くの偶然で、柄谷行人にあったが、お互い初対面、昨年暮に彼の新刊「近代文学の終わり」を書評したことを思いましたが、お互い連れがあったので、そんなことも話さず、別れた。彼の「トランス・クリテーク」がクロアチア語とスロベニア語に訳されるという。ご同慶の至りである。
次に行ったのは、日本で言う「河岸段丘」を何十倍にもしたような、石灰岩の崖が何段にもなっている場所、崖の途中には大きな穴が空いていたり、今にも落ちそうな岩が乗っていたり、そんな崖の斜面に広がるブドウ畑(ワイン用)と畑、そして集落、おまけに中世に建てられたという監視用の城、崖の真下から眺め、そして反対側の斜面から眺めると、その光景の圧巻さが倍増した。崖には割れ目があるようで、リュブリャーナ市とコペル市を結ぶ鉄道が、崖の途中を縫うようにはい上がっていくのが遠望できた。自然の営みの結果だということなのだろうが、何十キロも続くこの石灰岩の崖と周辺の風景は、見事としか言いようがなかった(アダプターを忘れたので、デジカメで撮った写真を見せられないのが残念だが、帰国したら適宜写真を入れて「再編集」したいと思うので、乞うご期待)。
三番目は、先の崖の反対側にある中世の城塞教会、教会の周りを5メートルほどの城塞(銃眼というか、弓を射る穴が所々に空いている)が囲む教会の中は一面聖書物語が壁画として描かれており、無名の画家が描いたというそれは、見事なものであった。城塞は、攻め込んできたトルコ軍と戦うために作られたと言うが、村人が籠城して敵と戦う様を想像すると、一気に頭の中は「中世」になっていた。
最後に訪れたのは、ピラン市の海沿いに広がる広大な塩田、である。塩田というとすでに消滅してしまった瀬戸内地方のもの、あるいは今も観光用として存在するのと地方の塩田を想起するが、そんなものではない。見渡す限り4画に仕切られたマスで天日干しして塩を作るという施設(その半分以上は今では使われておらず、現在は鳥の楽園としてラムサール条約に登録されている。そこの売店で売っている自然塩を買ってきたが、試食して全く味がちがうことを認識させられた。
帰参して夕食をした店で、全くの偶然で、柄谷行人にあったが、お互い初対面、昨年暮に彼の新刊「近代文学の終わり」を書評したことを思いましたが、お互い連れがあったので、そんなことも話さず、別れた。彼の「トランス・クリテーク」がクロアチア語とスロベニア語に訳されるという。ご同慶の至りである。
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