これまでの流れから言えば、「閑話休題」的なものになるが、安倍自公「極右」政権の余りにもファッショ的な「安保法制」論議に「虚しさ」を感じつつ、「社会と文学の関係」を重視する一人の物書き(批評家)として、現在の状況を視野に入れながら、「文学」プロパーに関わる仕事をずっとしてきたつもりだが、先週2月から留づけてきた「戦争文学は語る」(全18回連載)の仕事――結局、大岡昇平の『野火』から立松和平の『軍曹かく戦わず』まで、終わってみたら全部で20作品を取り上げていた――が終わったので、購入したまま積んであった本の中から、索引を見たら何回か僕の名前が出てくる『江藤淳と大江健三郎』(小谷野敦著 2月25日 筑摩書房刊)を取り出し、気分転換も兼ねて読んだ。
著者の小谷野敦については、以前北海道新聞に頼まれて『谷崎潤一郎伝―堂々たる人生』(2006年刊)について書評したことがあり、その膨大な資料を駆使した「実証主義」に驚嘆した経験があったので、今回の本も帯文に「決定的ダブル伝記」とあったということもあり、期待して読んだのだが……。
率直に言うが、結果的には、「裏切られた」という思いを強く持たざるを得なかった。それは、読んでいる最中にも、また読了しても、湧き上がってくる何とも言えない「嫌な気持」と連動するものだと思うが、その「裏切られた』『嫌な思いがした」理由の最たるものは、相変わらず驚くべき一の「資料」を元にしているのだが、『谷崎潤一郎伝』にあった「実証主義」が影を潜めてしまい、文中の至る所に顔を出す「私」(の感想・評価・思いこみ)が、この書を読むことによって本来なら読者が「自由」に構築するはずの、江藤淳という一人の批評家、大江健三郎という一人の作家の「全体像」に<ゆがみ>を呈してしまったのではないか、と強く思ったからである。言い方を換えれば、この本は、「伝記」ではなく、「伝記」の風を装った小谷野敦という著者の批評家・江藤淳と作家大江健三郎に対する「私の感想」を積み重ねた本、という印象を免れていないということである。
それに、「嫌な気持」のするもう一つの大きな理由は、著者は意識していないのかも知れないが、本書の中には本筋とは関係ないと思える登場人物「の学歴」やら「家柄(出自)」が出てきて、最終学歴が「法政大学大学院(博士課程満期退学)」の僕の「ひがみ」と思われることを承知で言えば、うるさいほどに「東大の○○」とか「東大比較文学科の○○先生」(何故か、自分に関係ある教師には「○○先生」と付け、その他の文学者や研究者は呼び捨てにしているが、これもよく分からない)などという言い方が頻出していて、それが鼻につくということもある。
それと、帯文にも使われ、文中にも多用される「左翼」という言葉、本当に著者は「左翼」という言葉の意味が分かって使っているのか、大江健三郎を「左翼」と決めつける根拠は何であるのか、このような措辞は安易な「レッテル張り」なのではないか、と思わざるを得ず、今時は「左翼」という言葉がこのように使われるのか、徒感心させられると同時に、一人の作家をこのように簡単に「レッテル張り」して何かをいったつもりになると言うのは、「伝記」作者として「怠慢」の誹りを免れないのではにか、と思わざるを得なかった。
それと、僕のこれまでの大江健三郎文学との関わりから見て、詳しくは書けないが、「間違いなのではないか」「誤読ではないのか」と思われる箇所がいくつかあり、これもこの本を「伝記」として素直に受け取れない理由の一つにもなっていた。また、そのことに関して言えば、「実証」を重んじていたはずの著者が、随所で何の「証拠=事実」も挙げないで、推測を結論であるかのように記述しているが、このことはこの本が「伝記」と言うより、「私小説」を最上の表現(?)と考える小谷野敦という作家・評論家・比較文学者の「私的な江藤淳と大江健三郎体験」を綴った著作、との結論を導く。
そして、この本の「あとがき」を読んで思ったことは、すでに亡くなった江藤淳は別にして、反原発や「9条の会」で活動している大江が、そのような運動に対して「左翼」運動だとして否定(批判)的に言及し、また各所で大江の「家族」の在り方に触れている小谷野敦のこの本の論調に対して、どのような感想を持ったのだろうか、ということであった。小谷野敦が「あとがき」に「思いきって大江氏に直接問い合わせの手紙を出したらすぐに返事をいただいたのは望外の喜びだった」と書いていることと、本書の大江批判(否定)の論調とに、余りに開きがあると思ったからに他ならない。
最後に、本の内容とは別に気になったこと一つ、それはこれまでに大江に関して2冊の「作家論」を出している僕からすると、明らかに間違い(誤読)だと思われる箇所がいくつかあるこのような本に対して、版元の筑摩書房(の編集者)は、きちんとチェックしたのだろうか、ということである。
著者の小谷野敦については、以前北海道新聞に頼まれて『谷崎潤一郎伝―堂々たる人生』(2006年刊)について書評したことがあり、その膨大な資料を駆使した「実証主義」に驚嘆した経験があったので、今回の本も帯文に「決定的ダブル伝記」とあったということもあり、期待して読んだのだが……。
率直に言うが、結果的には、「裏切られた」という思いを強く持たざるを得なかった。それは、読んでいる最中にも、また読了しても、湧き上がってくる何とも言えない「嫌な気持」と連動するものだと思うが、その「裏切られた』『嫌な思いがした」理由の最たるものは、相変わらず驚くべき一の「資料」を元にしているのだが、『谷崎潤一郎伝』にあった「実証主義」が影を潜めてしまい、文中の至る所に顔を出す「私」(の感想・評価・思いこみ)が、この書を読むことによって本来なら読者が「自由」に構築するはずの、江藤淳という一人の批評家、大江健三郎という一人の作家の「全体像」に<ゆがみ>を呈してしまったのではないか、と強く思ったからである。言い方を換えれば、この本は、「伝記」ではなく、「伝記」の風を装った小谷野敦という著者の批評家・江藤淳と作家大江健三郎に対する「私の感想」を積み重ねた本、という印象を免れていないということである。
それに、「嫌な気持」のするもう一つの大きな理由は、著者は意識していないのかも知れないが、本書の中には本筋とは関係ないと思える登場人物「の学歴」やら「家柄(出自)」が出てきて、最終学歴が「法政大学大学院(博士課程満期退学)」の僕の「ひがみ」と思われることを承知で言えば、うるさいほどに「東大の○○」とか「東大比較文学科の○○先生」(何故か、自分に関係ある教師には「○○先生」と付け、その他の文学者や研究者は呼び捨てにしているが、これもよく分からない)などという言い方が頻出していて、それが鼻につくということもある。
それと、帯文にも使われ、文中にも多用される「左翼」という言葉、本当に著者は「左翼」という言葉の意味が分かって使っているのか、大江健三郎を「左翼」と決めつける根拠は何であるのか、このような措辞は安易な「レッテル張り」なのではないか、と思わざるを得ず、今時は「左翼」という言葉がこのように使われるのか、徒感心させられると同時に、一人の作家をこのように簡単に「レッテル張り」して何かをいったつもりになると言うのは、「伝記」作者として「怠慢」の誹りを免れないのではにか、と思わざるを得なかった。
それと、僕のこれまでの大江健三郎文学との関わりから見て、詳しくは書けないが、「間違いなのではないか」「誤読ではないのか」と思われる箇所がいくつかあり、これもこの本を「伝記」として素直に受け取れない理由の一つにもなっていた。また、そのことに関して言えば、「実証」を重んじていたはずの著者が、随所で何の「証拠=事実」も挙げないで、推測を結論であるかのように記述しているが、このことはこの本が「伝記」と言うより、「私小説」を最上の表現(?)と考える小谷野敦という作家・評論家・比較文学者の「私的な江藤淳と大江健三郎体験」を綴った著作、との結論を導く。
そして、この本の「あとがき」を読んで思ったことは、すでに亡くなった江藤淳は別にして、反原発や「9条の会」で活動している大江が、そのような運動に対して「左翼」運動だとして否定(批判)的に言及し、また各所で大江の「家族」の在り方に触れている小谷野敦のこの本の論調に対して、どのような感想を持ったのだろうか、ということであった。小谷野敦が「あとがき」に「思いきって大江氏に直接問い合わせの手紙を出したらすぐに返事をいただいたのは望外の喜びだった」と書いていることと、本書の大江批判(否定)の論調とに、余りに開きがあると思ったからに他ならない。
最後に、本の内容とは別に気になったこと一つ、それはこれまでに大江に関して2冊の「作家論」を出している僕からすると、明らかに間違い(誤読)だと思われる箇所がいくつかあるこのような本に対して、版元の筑摩書房(の編集者)は、きちんとチェックしたのだろうか、ということである。
ただ、実は最初の原稿ではいくつか具体例を挙げたのだが、そうすると余りにも長くなることが分かり、ただ「間違いがある」としか書けなかったのだが、これが「実証」を重んじる批評家としては、やるべきことではなかった、問いまでは反省している。
そこで、小谷野氏の著作『江藤淳と大江健三郎』における「間違い」の箇所だが、とりあえず、「3つ」挙げて措きたいと思う。
①P82も『大江は、『洪水はわが魂に及び』であさま山荘事件を予言し』と書かれているが、『洪水は~~』は1973年刊、『あさま山荘事件』が起こったのは1972年である。従って、『洪水は~~』はあさま山荘事件を「予言した』作品ではなく、「あさま山荘事件」にインスパイアーされて書かれたもの、徒考えのが自然である。
②P88に「大江の写真は、赤ん坊の頃のもののあと、この芦屋での時のものまでの間がない」とあるが、僕は大江の故郷(愛媛県内子町大瀬)に言ったとき、大江の担任だったという人から、大江が中学時代に所属していた野球部の部員たちと撮った写真や、松山東高校時代の写真も何枚か見たことがある。
③P120に「『文学界』は、現在はもとより、当時も、一見したところ、『新潮』『群像』『文藝』と並ぶ商業文藝雑誌だが、戦前、武田麟太郎、小林秀雄、川端康成らが始めた同人雑誌が前身だったため、同人誌扱いを受けていた」とあるが、確かに創刊は「同人誌」的な雑誌であったが、1938(昭和13年)に起こった「『マルスの歌』事件」で菊池寛の文藝春秋が発行を引き受けていこう、『商業文藝雑誌」として、社会的に認知されていたはずである。ましてや、大江が『飼育』で芥川賞を受賞した1958年当時は、世間の誰もが商業文藝雑誌とみていた。
まだ『?』の付く箇所が何カ所かあるが、ここまでにしておく。
ただ、最後に言っておきたいのは、「伝記」にしろ「作家論」にしろ、「完璧」なものはなく、著作に「間違い」は付きものだ、ということである。
まず、『洪水はわが魂に及び』についてですが、貴方も言うように、大江はこの長編を書いている最中に「あさま山荘事件」が起きたので書き直しました。その「証言(事実)は、『洪水は~~」が「あさま山荘事件を予言した」ものではなく、「あさま山荘事件」にインスパイヤーされて(影響を受けて)感性までこぎ着けたと言うことを物語っています。繰り返しますが、「予言したものではない」ということです。
②の大江の写真についてですが、今回貴方は「公開されている写真は、という意味で」十日機ですが、貴方の著作には「公開されている写真」という意味の言葉は書かれていません。もし貴方の言うような意味で「大江の写真は~~」という文章をお使いになるのでしたら、そのような「意味」であることを銘記すべきだった、と僕は思います。
③についても、今度の『江藤淳と大江健三郎』を読んだ人が全て貴方の別な著書『文学賞の光と影』を読んでいるというわけではないので(僕も読んでいません)、僕が先に指摘した『文學界』は同人雑誌ではないのではないか、という指摘についてのお答えになっていないと思います。この『文學界』云々は、大江が「職業作家」の登竜門である芥川賞を受賞した『飼育』が載った雑誌のことです。僕は、もっと手稲にに説明(記述)するべきだったと思います。
以上、貴方のご回答に納得できない理由について述べました。
なお、ついでなので、一つ(本当はもっとたくさんあるのだが)だけ質問させてください。
それは、P191に「(大江が)ノーベル賞を取ったあと、文化勲章を拒否したのは痛快な出来事だった」とあり、そのあとで、「その当時は私も九条護憲派だったのだが、こちらは、大学の二年から三年になるころ、やはりそれは現実的にムリだろうと考えるようになった」とありますが、年代的に整合しません。つまり、大江がノーベル賞を受賞し、文化勲章の授与を拒否したのは1994年で、一九六二年生まれの貴方は単純に引き算して32歳だったはずです。それが、『大学の二年か三年になるころ」というのは、どのような計算でそのようになったのか、教えて欲しいのです。
よろしくお願いします。
なお「ノーベル賞をとった時」は間にはさまったもので、私が九条護憲は無理だと思ったのは大学二、三年の時です。今でも天皇制には反対ですが。
「本著作」を「紅酢作」と誤変換する小谷野さんの方が酷い。一見して意味がわからない。