黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

常勝はない!

2008-08-10 06:48:38 | 近況
 中学高校と柔道をしていたので、柔道競技はテレビでよく見るスポーツの一つである。昨日も北京オリンピックの初日を飾る「女子48キロ級」と「男子60キロ級」の2種目を、仕事の合間合間に見た。
「男子60キロ級」の平岡選手は1回戦で早々と敗戦し、「女子48キロ級」の谷選手も準決勝で敗れ(3位争いで、結果的には銅メダルを獲得した)、見ている当方も何となく気落ちすること甚だしく、我が身に置き換えていろいろ考えてしまった。そこで得た結論は、勝負に「常勝」はない、という考えてみれば当たり前のことであった。特に、若い頃の技の切れ(背負い投げや大外刈りなどの大技による1本勝ちが多かった)を知っている身にしてみると、昨日の試合(だけでなく、実は最近の試合ではいつも)は何なんだ、という思いが強かった。あの強い谷選手の面影はどこにもなく、準決勝で敗退した後の3位決定戦で辛うじて「1本勝ち」をして面目躍如たる結果を得たように見えたが、その他はまるでダメ。特に準決勝でルーマニアの選手と対戦したとき、あれほど組み手を嫌えば、そのうち「指導」が出ると分かっていながら(たぶん、最終的には金メダルを取ったルーマニアの選手は、あのような戦い方をすればどちらかに「指導」が与えられるだろうと予測し、賭に出たのだと思う)、何の手も打てず、結局「戦う」ことなく敗退してしまった姿には、「哀れみ」さえ漂っていた。
 たぶん「常勝将軍」として女子柔道界をリードしてきた谷選手には「自信」も「プライド」も、また「日本」を背負っているという「矜持」も人一倍あったことだろう。しかし、相手の術中にはまって、為す術もなく「敗退」してしまった。理由は何だろうか。考えられることは、「自己過信」と「分析不足」である。僕は、文芸批評の仕事をするようになってから今に至るまで、常に「市井に賢人在り」という言葉を「自戒」しながら噛み締めることにしてきたが、自分より優れた者や能力のある者は、市井(社会・普通の生活)にたくさん存在しているという認識、及びそのことを自分の生き方の中に生かしていくことの難しさを嫌と言うほど思い知らされてきた。世界には、谷選手や平岡選手より「強い者」「優れた者」がたくさんいるということを、あるいは生まれ出てきていることを二人とも忘れてしまい、ただ国家(日本)を背負った重圧だけを感じたが故に「敗北」してしまったのかも知れない。
 教師というものは(研鑽と経験を積んで、他人から「優れ者」「先生」などと呼ばれる者も含む)、知らず知らずのうちに「高見」からものを言う癖がついてしまい、自分を「完璧無比」な人間だと思いがちである。経験的にそのように思う。しかし、そんな「虚像」など少しでも「研鑽」を怠ったら、すぐに化けの皮が剥がれ、無惨な「実像」をさらけ出す以外に為す術がない状態になってしまうのも、また厳然たる事実である。「墜ちた偶像」という言葉があるが、教師たる者、職場を離れていつまで「教師」であり得るか、そこのところが一番肝要なことだと思う。
 そんなことを思いつつ水泳や女子サッカー、男子体操などの競技を切れ切れに見ていたのだが、どの種目も「新興勢力」というか「無名」の人が優れた成績を収めていることを知って、「日本人選手」はマスコミをはじめとして「国民」からあれほどのプレッシャを受けているのだから、相当な精神的負担を強いられるのではないか、と思った。先に記した、男子柔道の平岡選手も女子柔道の谷選手も、もしかしたらその「重圧」に負けてしまったのではないか。二人とも、敗北の原因が技を掛けられてではなく、試合に「消極的」という理由で受けた「指導」であること、そのことを考えると、余計にそう思った。
 それにしても、本来は「楽しく」、心身をリラックスさせるはずのスポーツが日本ではいつから「苦行」になってしまったのか。これから北京オリンピックが終わるまで、「苦行」を感じさせない種目があれば、それを楽しみたいな、と思う。忙しくて、テレビなど見ている暇はないはずなのに……。
 それにしても、オリンピックの開幕に合わせるように黒海沿岸のグルジアで「内線」(というか、ロシアとグルジアの戦争)が勃発した。「平和」の裏側で「戦争」が始まる。早速アメリカは「主権国家グルジア」を攻撃したロシアを批判したが、イラクに侵略してイラク戦争を展開しているアメリカにロシアを批判する権利があるか。ロシアもアメリカも、「大国」をいいことに、やりたい放題、「平和の祭典・オリンピック」が色褪せて見えたのは、僕だけか?

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