黒古一夫BLOG

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「民意」の行方

2012-12-27 09:45:46 | 近況
 昨日、第二次安倍内閣が成立した。マスコミは「再チャレンジ内閣」だとか「重厚内閣」とか「安倍カラー(保守色の濃い)内閣」だtか、様々に言挙げしていたが、たしかに5年前の「失敗」に懲りたのか、それとも年を重ねて「狡猾」になったのか、今度の安倍内閣は閉塞感をどう突破するかという国民の「希求」を上手にすくい上げ、選挙中の公約に上げた「憲法改正→国防軍の設置・集団的自衛権の行使容認」などと言った「タカ派」色を後背に退けながら(しかし、今回の内閣の布陣を見ると、本音は右傾化をいっそう進めたいと思っているは間違いないだろう)、来年の参議院選挙を射程に、「景気回復」などという誰もが反対できないような政策を全面に掲げて出発したように見える。
 しかし、後背に退いたとは言え、「憲法改正→国防軍の設置・集団的自衛権の行使容認」といった「保守」と言うより「ネオ・ナショナリズム(新国粋主義)」に凝り固まった思想が、「日本国憲法」の中核を形成する「平和主義」と「民主主義」に対する挑戦であり、そのような思想がこの国の中心になるようなことは断固阻止しなければならないと思うが、それとは別に、今度の内閣が前民主党政権が経済界との暗闘の末に打ち出した「2030年までに原発ゼロ」政策を根本から否定し、「政権交代」以前の原発推進・容認路線に転換することに対して、このような「刹那主義」「金儲け主義」は絶対認めないと言う態度を、僕らは今から明確に示していかなければならないのではないか、と思う。
 つまり、「フクシマ」を蔑ろにする安倍第二次内閣に対して、具体的には来年夏の参議院選挙で明確に「ノー」を突きつける必要があるのではないか、ということである。そのためには「反・脱原発派」が分裂を乗り越え「大同団結=統一」する必要があるが、そのような戦術は今措くとして、僕らはもう一度「フクシマ」(とそれ以前のスリーマイル島やチュエルノブイリ、JCOなどの原発事故)から得た「核(原発及び核兵器)と人類は共存できない」という教訓=思想を確認し、原発の再稼働や新増設を認めるような言動を決して許さないといった態度を明らかにすることが肝要なのではないか、と思う。
 マスコミは「フクシマ」の「風化」を問題にしているが(党のマスコミがその「風化」に手を貸しているという自覚がないことも、また深刻な問題だと思う)、まさにその「風化」が原発容認・推進派を勢いづかせていることについて、再確認する必要がある。
 折しも、原子力規制委員会が専門家に委託して調査していた下北半島の東通原発の敷地内に「活断層」が存在すること明らかになり、これは敦賀原発に続いて二例目で、自公時代(自民党時代)の原発政策がいかに「いい加減」で、電力会社・経産省(旧通産省)や御用学者などの言いなりになっていたかの証拠なのだが、たぶん今度の第二次安倍内閣は、「景気回復・経済優先」の路線を突っ走りながら(失敗する可能性も大)、原発問題(脱・反原発)を置き去りにするのではないか、と思えて仕方がない。原発の下に活断層が存在するということは、僕らは「フクシマ」が再び起こる可能性を常に意識しながら生きていくということを強いられているということであり、それはまた現在及び未来を生きざるを得ない僕らが皆「ヒバクシャ」になる可能性を意味しているということなのだが、原発推進・容認派はこんな「核」に対するイロハも分かろうとしないのではないか、と危惧する。
 彼ら(原発推進・容認派)が好きな「愛国心」とか「日本主義」だって、もう一度どこかで原発が爆発すればこの苦のそのものが粉々に砕け散ってしまうことを思えば、真にこの国を愛する人間は、必然的に「反・脱原発」にたどり着くことに思い至り、「愛国心」→反・脱原発こそを自分たちの思想にすべきなのに、現実はそうではない。そこに何か「からくり」があるのだろうが、やはり一人一人の「自覚」が必要なのかも知れない。
 だから、何でこんな「おかしなこと」が生じているのか、という僕の疑問は、実は一向に解消されていない。たぶん、その責任の一端は吉本隆明の「原発容認論=進化論的科学論(神話)」や、昨年年の夏にも批判したが、村上春樹の「反核スピーチ」に象徴される核認識にあるのではないか、と僕は思っているのだが……。この僕の考えについては、来年春頃には刊行される予定の『「核・フクシマ論」を論ず』(仮題)の中で詳しく論じるつもりだが、改めて言えば、原発問題こそ日本の、世界の喫緊の問題である、という認識が今最も求められていることなのではないか、ということである。

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