黒古一夫BLOG

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この国は、どこへ行こうとしているのか?

2011-11-03 05:03:36 | 近況
 群馬の方言で「きぶっせい」というのがある。「きぶさい」(気鬱ぎ)がなまってそのような言い方をするようになったのだろうが、このところ「きぶっせい」気持に襲われることが多くなった。本を読んでいても、原稿を書いていても、畑仕事をしていても、ふと気が付くと「きぶっせい」としか言えない気持になっているのである。
 理由は、わかっている。「フクシマ」である。いつ「収束」するか分からないというのも、「きぶっせい」気持になる理由の一つなのだが、それ以上に政府のフクシマに対する「無策」ぶりや「無知」としか言いようがない状況や「風評被害」の現状に苛立ちが収まらないのである。例えば、放射能汚染された土や木々、あるいは建造物の処理に関して、世界のどこにも最終処分場が内という状況を放置したまま、「中間貯蔵施設」を福島県に造って30年間そこに置いておく、という政府の案、どこか「無責任」な臭いがしてならない。じゃあ、福島県以外のどこにそのような「中間貯蔵施設」を造ればがいいのかと言われれば、実は最終処分場がこの地球上のどこにもないということを踏まえて、とりあえず電力会社や政府が「安全」と言い続けて54基も造った原子力発電所の地所に、原発を止めて(廃炉への工程を視野に入れて)、そこを最終処分場にする心積もりで、放射能汚染物質や核廃棄物の「中間貯蔵施設」及び「最終処分場」を建設する以外に方法はないのではないか、と思う。
 酷なことを言うようだが、あるいは当該地区に住む人からはきつくお叱りを受けるかも知れないが、「カネ」のために原発を受け入れた原発立地自治体は、フクシマが出来した責任の一端は自分たちにもあるという自覚の下で、そのような施設を受け入れてもらうしかないのではないか(おそらく、そのような「核廃棄物」の中間貯蔵施設や最終処分場の建設を受け入れれば、また「大量のカネ」が該当自治体に下りるのではないか、と思う)。もちろん、原発からの電力で「豊か」で「文化的」な生活を享受してきた僕らは、「税金」あるいは「負担金」という形で、こんどこそ事故が起きない核廃棄物(放射能汚染物質)の中間貯蔵施設及び最終処分場の建設に協力しなければならない。
 最近、いろいろなメディアが「25年経った」チェルノブイリとフクシマとを比較して「核被害」の現実を比較するようになったが、僕らがここで忘れてならないのは、チェルノブイリは広大な旧ソ連(現ウクライナ)で起こった原発事故(だからといって、被害が少なかったと言いたいのではない)で、フクシマは人口密集地をすぐ近くに控えたこの狭い日本で起こった事故だ、ということである。人口1000万人を超える東京からフクシマまで100数十キロ、放射能汚染の高い数値を示す「ホットスポット」が首都圏の各地で見られることを考えれば、フクシマがいかに過酷な状況下にあるかが分かるだろう。日本の原発建設・維持が、例えば九電の「やらせメール」事件に象徴されるように「札束で頬をたたく」ようなやり方で進められてきたことを考えると、いかに「安全性」を軽視(ないしは「無視」)してきたか、そもそも「安全性」など問題とせず「経済=カネ」を優先してきた結果がフクシマであることを、僕らは肝に銘じる必要があるのではないか。
 にもかかわらず、野田政権は、曰く付きの九電玄海第4原発の「再稼働」を早々に決め、ベトナムやインドへの原発輸出を計画通り(フクシマが起こる前の状態で)粛々と進めるという。どうなっているのか。何のために僕らは自民党と違う(はずの)民主党政権を選んだのか。結局この2年間あまりで分かったことは、野田首相を初めとするその構成員を見れば分かるように、民主党という政党が、自民党より「ちょっといいだけ」の第2自民党でしかなかったということであり、「権力」の暴走を食い止めることができない政党だということである。
 実は、TPPに関しても同じことが言えるのだが、この国は一体どこへ行こうとしているのだろうか、果たして大丈夫なのだろうか。「きぶっせい」毎日が続く。

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