今週末は好きなことに時間が使える自由が確保でき、2週間前の大学スクーリングで刺激を受けたこともあり、今日は、とある遺跡の現地説明会に足を運びました。明日も一つ行きたかった遺跡に行って来ようかと思いましたが、飛ばしすぎて風邪でも引いたらなんだし、自重しようかなとも思っています。
今日は、まだ昨年の話題をアップします。12月に参加した講演会、白石太一郎先生の「前方後円墳終焉の意味するもの」についてです。
ちょうど、1月15日に明日香村の小山田遺跡で飛鳥時代の最大級の古墳(方墳)が発見されたというニュースも大きく取り上げられたところです。「最大」という言葉が紛らわしくて、話が大きくなっている感じもあるのですが、仁徳天皇陵(大仙陵古墳)より大きい古墳が発見されたわけではないですから・・・「飛鳥時代」の中で、ということですよね。
以前、千葉県の龍角寺古墳群について書きました。
ここにある岩屋古墳も方墳で、同じく7世紀のもので、一辺は78m。それに対して今回の小山田遺跡の方墳は50m弱くらい。千葉の岩屋古墳の方が大きいようなのですが・・・飛鳥地域で一番大きいということですかね。
まあとにかく、この「方墳」という墳形についても、この講演会のお話の中で出て来ますので、この後で紹介します。
12月10日の講演会は、「奈良歴史地理の会関東支部」が主催していて、年に何回か、「さいたま市民会館うらわ」を会場として行われているようです。「奈良歴史地理の会」は、奈良大学の同窓会的な組織らしいです。以前、ここにも紹介しましたように、白石太一郎先生(現在は近つ飛鳥博物館館長、かつて奈良大学教授)のお話がナマで聴ける(資料代1000円)という貴重な機会なので、行ってみたというわけです。
参加者はどのくらいなのかなと思いながら会場に着くと、400~500人くらいはいたのでは?やはり、ほとんどが年配の方々でした。しかし、平日の昼間によくこれだけの人が集まるなあと感心しました。こういう講座のニーズって、結構あるんですね。
私がこうしてここにアップするのも、聴きっぱなしだといただいた資料もどこか行ってしまったり、聴いてきたことも忘れてしまうから、自分の覚え用としての意味合いが大きいのです。
白石先生は、ご著書は何冊か読ませていただいていましたが、初めてナマで拝見しました。落ち着いた語り口でした。
すでに、1ヵ月以上が経過して、忘れているところも多いので、メモから思い出せる所中心になってしまいます。
前方後円墳は、ご存知のように、初期の最大のものとしては卑弥呼の墓か?といわれている奈良の箸墓古墳があります。
箸墓古墳は3世紀前半?といわれ、かなり早いですが、高校の日本史教科書的には、古墳時代の古墳の特徴は、一般的に、前期(4世紀)、中期(5世紀)、後期(6~7世紀)と大きく三つに区分されます。中期で前方後円墳も巨大化し、後期には小規模の群集墳が増えていき、前方後円墳も作られなくなっていきます。
(以上は私の解説です)
この前方後円墳が作られなくなったこと=前方後円墳終焉、の意味を、白石先生が語ってくださったというわけです。
以下は、白石先生のお言葉を中心に書かせていただきます。
前方後円墳はなくなっても、古墳は作られている時期を「終末期」といいます。
畿内の終末期大型方墳としては、桜井市赤阪天王山古墳があります。明日香村石舞台古墳も方墳です。白石先生によると、方墳は、蘇我系の大王の墓であると考えられているとのことです。太子町山田高塚古墳は現在の推古陵、太子町春日向山古墳は現在の用明陵、としてレジュメに図版があります。(※そして最近のニュースによると、明日香村で発見された小山田遺跡の方墳は、舒明天皇の初葬地ではないかと言われていますね。どの天皇も蘇我氏と確かに関係が深いですね。)
一方で、畿内の終末期大型円墳をみると、白石先生のお話によると、円墳は、非蘇我系・反蘇我系が作った墓だとのことです。「連系」の人達の墓が多いとのこと。例えば、天理市杣之内古墳群は物部氏と関係が深い。天理市峰塚古墳の例もレジュメにありました。
今度は東国に目を向けると、前方後円墳終焉の時期の代表的なものとして、群馬県前橋市の総社古墳群があります。その中で、総社二子山古墳は、6世紀末の最後の前方後円墳です。この古墳群の中の、総社愛宕山古墳、宝塔山古墳などは方墳です。ここ上毛野(群馬県 上野)は、6世紀の後期大型前方後円墳が多数分布しており、有力豪族が割拠していた様子がうかがわれます。
現在の前橋市にある総社古墳群では、7世紀になっても古墳が作られ、のちに国府ができます。
千葉県で有名なのは上にも書いたとおり龍角寺古墳群です。大きな方墳、岩屋古墳があります。
この古墳の被葬者は誰かということについて、従来は印旛(印波)郡の郡司(国造?)、丈部(はせつかべ)氏の墓とも考えられてきましたが、ここはかつては印旛郡ではなく、埴生郡(先生が「はにゅう郡」とおっしゃったようで私もひらがなでそうメモを取りましたが、埴生と書いて「はぶ」と読むらしく、昔、この古墳のある地域は下埴生郡と言ったようです。)であると先生はおっしゃいました。
そして、まず、印旛郡司が丈部直(あたい)であったことの根拠として、二つの史料を挙げました。
天平十年(738)の『駿河国正税帳』の
「下総国印旛郡采女丈部直広成」
という記事。この采女は郡司の娘であると。
そしてもう一つは、
『続日本紀』天応元年(781)正月条
「下総国印旛郡大領正六位上丈部直牛養」
という記事。
さらに、もう一つの史料を挙げ、
平城京左京二条大路北側溝出土木簡に
「左兵衛下総国埴生郡大生直野上養布十段」
とあり、これは「おおみぶべのあたい」を指し、大君家直属の直(あたい)だったそうです。
以上のことを踏まえて、岩屋古墳は、従来、丈部氏の墓と思われていたが、大壬生部直(おおみぶべのあたい)の墓と思われる、とのことでした。
栃木県の例として、壬生町壬生車塚古墳や壬生町桃花原古墳といった円墳がレジュメに載っています。
最後に、前方後円墳終焉が意味するものは、ということで、先生が語っておられたことをメモにもとづいてだいたいまとめますと以下のようになります。
近畿の前方後円墳の停止は、3世紀以降の首長連合(ヤマト政権)からの決別である。(←古くさい)
中国の情勢をみると、隋が3世紀ぶりに統一国家を建設した(589年)。
これに対抗して強い中央集権国家をつくるために、古い前方後円墳体制と決別した。
関東では7世紀初頭に前方後円墳が終了し、国造などの豪族だけが方墳を造るようになった。
前方後円墳の終了は、関東では国造制の成立に対応する。
大方墳などの被葬者は国造の勢力である。
古墳時代と飛鳥時代の線を引くのは推古朝。
戦後、文献批判によって『日本書紀』の推古朝の事蹟が疑わしい(大化改新も)という説が唱えられた。『日本書紀』がすべて正しいわけではないが、大きな道筋はそのとおりであったと考えるべきではないか。
考古学な研究成果は戦後の文献史学の変更を迫っている。
おおよそ以上です。
私は文献史学をやっていましたし、壬申の乱以降の天武・持統朝に比べ、大化改新や天智朝の事蹟については私自身も確かに否定的ですので、最後の結論は、ちょっと耳が痛かったです。推古朝については何とも思っていませんでしたが。
確かに推古朝に、前方後円墳体制の画期(終焉)があると思われます。そういう見方は、さすがに考古学的視点ですね。前方後円墳が古くさいからというのもあるのかもしれませんが、仏教が伝来し、浸透していく過程で、埋葬方法も変化して行ったのだろうと思います。持統天皇の頃から火葬が行われるようになったということですから、その頃になればさらにそうですね。
会場までの道の途中に、おもむきのある立派なお寺がありました。玉蔵院(ぎょくぞういん)といい、平安時代に創建された、真言宗豊山派のお寺です。歩きながらさっと撮ったのですが、後でネットで調べると、写真の左手に見えるのが、樹齢100年以上のしだれ桜のようです。桜の季節に訪れたいものですね。
この浦和会場の講座は、今後、3~4月に寺崎保広先生(奈良大)、5月8日に東野治之先生(奈良大)、6~7月に坂井秀弥先生(奈良大)の講演が予定されているようです。
それでは今日はこのへんで。
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今日は、まだ昨年の話題をアップします。12月に参加した講演会、白石太一郎先生の「前方後円墳終焉の意味するもの」についてです。
ちょうど、1月15日に明日香村の小山田遺跡で飛鳥時代の最大級の古墳(方墳)が発見されたというニュースも大きく取り上げられたところです。「最大」という言葉が紛らわしくて、話が大きくなっている感じもあるのですが、仁徳天皇陵(大仙陵古墳)より大きい古墳が発見されたわけではないですから・・・「飛鳥時代」の中で、ということですよね。
以前、千葉県の龍角寺古墳群について書きました。
ここにある岩屋古墳も方墳で、同じく7世紀のもので、一辺は78m。それに対して今回の小山田遺跡の方墳は50m弱くらい。千葉の岩屋古墳の方が大きいようなのですが・・・飛鳥地域で一番大きいということですかね。
まあとにかく、この「方墳」という墳形についても、この講演会のお話の中で出て来ますので、この後で紹介します。
12月10日の講演会は、「奈良歴史地理の会関東支部」が主催していて、年に何回か、「さいたま市民会館うらわ」を会場として行われているようです。「奈良歴史地理の会」は、奈良大学の同窓会的な組織らしいです。以前、ここにも紹介しましたように、白石太一郎先生(現在は近つ飛鳥博物館館長、かつて奈良大学教授)のお話がナマで聴ける(資料代1000円)という貴重な機会なので、行ってみたというわけです。
参加者はどのくらいなのかなと思いながら会場に着くと、400~500人くらいはいたのでは?やはり、ほとんどが年配の方々でした。しかし、平日の昼間によくこれだけの人が集まるなあと感心しました。こういう講座のニーズって、結構あるんですね。
私がこうしてここにアップするのも、聴きっぱなしだといただいた資料もどこか行ってしまったり、聴いてきたことも忘れてしまうから、自分の覚え用としての意味合いが大きいのです。
白石先生は、ご著書は何冊か読ませていただいていましたが、初めてナマで拝見しました。落ち着いた語り口でした。
すでに、1ヵ月以上が経過して、忘れているところも多いので、メモから思い出せる所中心になってしまいます。
前方後円墳は、ご存知のように、初期の最大のものとしては卑弥呼の墓か?といわれている奈良の箸墓古墳があります。
箸墓古墳は3世紀前半?といわれ、かなり早いですが、高校の日本史教科書的には、古墳時代の古墳の特徴は、一般的に、前期(4世紀)、中期(5世紀)、後期(6~7世紀)と大きく三つに区分されます。中期で前方後円墳も巨大化し、後期には小規模の群集墳が増えていき、前方後円墳も作られなくなっていきます。
(以上は私の解説です)
この前方後円墳が作られなくなったこと=前方後円墳終焉、の意味を、白石先生が語ってくださったというわけです。
以下は、白石先生のお言葉を中心に書かせていただきます。
前方後円墳はなくなっても、古墳は作られている時期を「終末期」といいます。
畿内の終末期大型方墳としては、桜井市赤阪天王山古墳があります。明日香村石舞台古墳も方墳です。白石先生によると、方墳は、蘇我系の大王の墓であると考えられているとのことです。太子町山田高塚古墳は現在の推古陵、太子町春日向山古墳は現在の用明陵、としてレジュメに図版があります。(※そして最近のニュースによると、明日香村で発見された小山田遺跡の方墳は、舒明天皇の初葬地ではないかと言われていますね。どの天皇も蘇我氏と確かに関係が深いですね。)
一方で、畿内の終末期大型円墳をみると、白石先生のお話によると、円墳は、非蘇我系・反蘇我系が作った墓だとのことです。「連系」の人達の墓が多いとのこと。例えば、天理市杣之内古墳群は物部氏と関係が深い。天理市峰塚古墳の例もレジュメにありました。
今度は東国に目を向けると、前方後円墳終焉の時期の代表的なものとして、群馬県前橋市の総社古墳群があります。その中で、総社二子山古墳は、6世紀末の最後の前方後円墳です。この古墳群の中の、総社愛宕山古墳、宝塔山古墳などは方墳です。ここ上毛野(群馬県 上野)は、6世紀の後期大型前方後円墳が多数分布しており、有力豪族が割拠していた様子がうかがわれます。
現在の前橋市にある総社古墳群では、7世紀になっても古墳が作られ、のちに国府ができます。
千葉県で有名なのは上にも書いたとおり龍角寺古墳群です。大きな方墳、岩屋古墳があります。
この古墳の被葬者は誰かということについて、従来は印旛(印波)郡の郡司(国造?)、丈部(はせつかべ)氏の墓とも考えられてきましたが、ここはかつては印旛郡ではなく、埴生郡(先生が「はにゅう郡」とおっしゃったようで私もひらがなでそうメモを取りましたが、埴生と書いて「はぶ」と読むらしく、昔、この古墳のある地域は下埴生郡と言ったようです。)であると先生はおっしゃいました。
そして、まず、印旛郡司が丈部直(あたい)であったことの根拠として、二つの史料を挙げました。
天平十年(738)の『駿河国正税帳』の
「下総国印旛郡采女丈部直広成」
という記事。この采女は郡司の娘であると。
そしてもう一つは、
『続日本紀』天応元年(781)正月条
「下総国印旛郡大領正六位上丈部直牛養」
という記事。
さらに、もう一つの史料を挙げ、
平城京左京二条大路北側溝出土木簡に
「左兵衛下総国埴生郡大生直野上養布十段」
とあり、これは「おおみぶべのあたい」を指し、大君家直属の直(あたい)だったそうです。
以上のことを踏まえて、岩屋古墳は、従来、丈部氏の墓と思われていたが、大壬生部直(おおみぶべのあたい)の墓と思われる、とのことでした。
栃木県の例として、壬生町壬生車塚古墳や壬生町桃花原古墳といった円墳がレジュメに載っています。
最後に、前方後円墳終焉が意味するものは、ということで、先生が語っておられたことをメモにもとづいてだいたいまとめますと以下のようになります。
近畿の前方後円墳の停止は、3世紀以降の首長連合(ヤマト政権)からの決別である。(←古くさい)
中国の情勢をみると、隋が3世紀ぶりに統一国家を建設した(589年)。
これに対抗して強い中央集権国家をつくるために、古い前方後円墳体制と決別した。
関東では7世紀初頭に前方後円墳が終了し、国造などの豪族だけが方墳を造るようになった。
前方後円墳の終了は、関東では国造制の成立に対応する。
大方墳などの被葬者は国造の勢力である。
古墳時代と飛鳥時代の線を引くのは推古朝。
戦後、文献批判によって『日本書紀』の推古朝の事蹟が疑わしい(大化改新も)という説が唱えられた。『日本書紀』がすべて正しいわけではないが、大きな道筋はそのとおりであったと考えるべきではないか。
考古学な研究成果は戦後の文献史学の変更を迫っている。
おおよそ以上です。
私は文献史学をやっていましたし、壬申の乱以降の天武・持統朝に比べ、大化改新や天智朝の事蹟については私自身も確かに否定的ですので、最後の結論は、ちょっと耳が痛かったです。推古朝については何とも思っていませんでしたが。
確かに推古朝に、前方後円墳体制の画期(終焉)があると思われます。そういう見方は、さすがに考古学的視点ですね。前方後円墳が古くさいからというのもあるのかもしれませんが、仏教が伝来し、浸透していく過程で、埋葬方法も変化して行ったのだろうと思います。持統天皇の頃から火葬が行われるようになったということですから、その頃になればさらにそうですね。
会場までの道の途中に、おもむきのある立派なお寺がありました。玉蔵院(ぎょくぞういん)といい、平安時代に創建された、真言宗豊山派のお寺です。歩きながらさっと撮ったのですが、後でネットで調べると、写真の左手に見えるのが、樹齢100年以上のしだれ桜のようです。桜の季節に訪れたいものですね。
この浦和会場の講座は、今後、3~4月に寺崎保広先生(奈良大)、5月8日に東野治之先生(奈良大)、6~7月に坂井秀弥先生(奈良大)の講演が予定されているようです。
それでは今日はこのへんで。
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