勉強がんばってますね?私も高校時代は夜更かしして深夜放送を聞きながら勉強するのが好きでした。しかし、それはそれとして、朝寝坊していいということではなく、太陽が出ている間はちゃんと起きて活動・勉強しましょう。
今日もZ会『テーマ史』の「豆ちしき」を参考に。
現世で栄耀栄華を極めた藤原道長は、死後の世界でも極楽往生を願いました。『往生要集』を愛読した彼は、法成寺に念仏の場として阿弥陀堂を建立しました。そして1027(万寿4)年、62歳で臨終を迎えた道長は、金色九体の阿弥陀仏の手と結ばれた五色の糸を握りしめ、数多の僧侶が唱える荘重な念仏に包まれながら往生しました。これ以後、上流貴族の間では、荘厳な阿弥陀堂を建立することが流行するようになったとのことです。
2年生の授業の時にも話しました。平安貴族の食事は栄養も偏っていたので、道長も、糖尿病であったらしいということ。それで、あまり長生きもできませんでした。道長のビデオも、時間数の関係で見せられないクラスもあったように思いますが、見た人達は、道長が、晩年には死ぬのが恐くなって、『御堂関白記』に、「念仏十四万辺」などと書いてあるというのを覚えていると思います。一日は86,400秒だから1秒に1回でも十四万回は無理、という話もしました。
道長が死んでから阿弥陀堂建立が流行するようになったとのこと。道長の息子の頼通が平等院鳳凰堂を完成させたのは1053年、末法元年(1052年)の翌年でした。道長が死んで26年、だいぶ経ってからのことですね。1051年には奥州で前九年合戦が起きています。
都の貴族たちも末法思想や現世の戦や疫病などに不安を感じていたために、阿弥陀仏信仰にすがったのでしょう。
この浄土教信仰が地方に広がって阿弥陀堂が地方で見られるようになるのが院政期ですね。
今日もZ会『テーマ史』の「豆ちしき」を参考に。
現世で栄耀栄華を極めた藤原道長は、死後の世界でも極楽往生を願いました。『往生要集』を愛読した彼は、法成寺に念仏の場として阿弥陀堂を建立しました。そして1027(万寿4)年、62歳で臨終を迎えた道長は、金色九体の阿弥陀仏の手と結ばれた五色の糸を握りしめ、数多の僧侶が唱える荘重な念仏に包まれながら往生しました。これ以後、上流貴族の間では、荘厳な阿弥陀堂を建立することが流行するようになったとのことです。
2年生の授業の時にも話しました。平安貴族の食事は栄養も偏っていたので、道長も、糖尿病であったらしいということ。それで、あまり長生きもできませんでした。道長のビデオも、時間数の関係で見せられないクラスもあったように思いますが、見た人達は、道長が、晩年には死ぬのが恐くなって、『御堂関白記』に、「念仏十四万辺」などと書いてあるというのを覚えていると思います。一日は86,400秒だから1秒に1回でも十四万回は無理、という話もしました。
道長が死んでから阿弥陀堂建立が流行するようになったとのこと。道長の息子の頼通が平等院鳳凰堂を完成させたのは1053年、末法元年(1052年)の翌年でした。道長が死んで26年、だいぶ経ってからのことですね。1051年には奥州で前九年合戦が起きています。
都の貴族たちも末法思想や現世の戦や疫病などに不安を感じていたために、阿弥陀仏信仰にすがったのでしょう。
この浄土教信仰が地方に広がって阿弥陀堂が地方で見られるようになるのが院政期ですね。