和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

革心51/小説「新・人間革命」

2015年06月29日 15時54分39秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 6月29日(月)より転載】

【革心51】

 廖仲が国民党の右派によって暗殺された時、子息の廖承志は十六歳であった。仲の妻・何香凝は、自宅の門に「精神不死」(肉体は殺せても、精神を殺すことはできない)との横幕を掲げて抗議し、毅然として新中国の建設のために戦い抜いた。その彼女の闘争を、若き穎超は支え続けてきた。

 廖承志は、父の遺志を受け継ぎ、社会改革の道を歩み、長征にも加わった。しかし、なんと味方である紅軍からもスパイの嫌疑をかけられ、手枷をつけて行軍させられたこともあった。また、文化大革命では、理不尽な攻撃にさらされ、四年間の軟禁生活を送った。

 中国の要人たちの誰もが、激動の荒波にもまれ、苦渋の闘争を展開し、時に非道な裏切りにも遭い、肉親や同志を失っていた。

 革命の道は、あまりにも過酷であり、悲惨であった。そして、それを乗り越えて、新中国が誕生し、さらに、「四つの現代化」が開始されたのである。

 貧しさにあえぐ人民に幸せな生活を送らせたいというのが、廖仲、何香凝を活動に駆り立てた願いであったにちがいない。忘れてはならないのが、その革命の原点である。

 山本伸一たち訪中団一行は、「廖陵」で献花し、追悼の深い祈りを捧げた。

 伸一は、空を仰ぎながら、皆に語った。

 「ご両親の追善をさせていただいたことを聞けば、廖承志先生も、きっと喜んでくださるでしょう。

 私が、日中友好に全力を注ぐのは、こうした平和と人民の幸福を願った方々の志を無にしたくないからです。そのためには、経済的な利害や、政治的な駆け引きに翻弄されることのない、友誼と信頼の堅固な基盤を築かなくてはならないからです。

 どうか、その私の心を、永遠に忘れないでほしい。特に青年部、頼むよ」

 一行は、孫文の「中山陵」を訪れ、ここでも献花をし、冥福を祈り、題目を三唱した。

 そして、夕方には、空路、南京から最終訪問地の北京へ向かったのである。
                       

■ 小説『新・人間革命』の引用文献
 注1・2・3・4西園寺一晃著『頴超』潮出版社
 主な参考文献
 西園寺一晃著『頴超』潮出版社
  『人民の母ーー頴超』高橋強・水上弘子・周恩来 頴超研究会編著、白帝社
 ハン・スーイン著『長兄ーー周恩来の生涯』川口洋・美樹子訳、新潮社
 サンケイ新聞社著 『蒋介石秘録』 サンケイ出版
                          

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白鷺/今日の俳句 ≪第.1818号≫

2015年06月29日 06時21分11秒 | 今日の俳句


  癌の妻風の白鷺胸に飼ふ
       斉藤 玄


  白鷺や植ゑし水田の稲みどり
       門屋大樹


  白鷺の降りし青田のあらたまる
       柴田佐和子


  白鷺の深みへ行くを見詰めをり
       篠田純子


  白鷺のはるかな白に居りにけり
       不破 博




※ サギ科の白い羽毛に覆われている鳥の総称で、大鷺・中鷺・小鷺があり、前二種は渡り鳥。小鷺は留鳥。いずれも初夏から巣を営む。
 沼沢や水辺を渡り歩いて餌をあさる渉禽で、形は鶴に似ているが、小さい。浦和市の野田の鷺山は名高かったが、開発と農薬公害で一羽もいなくなった。
                                                                                      

【「俳句歳時記・第3巻/角川書店」より転載】






     ※今週のことば※


  女子部の希望の新出発。

  楽しく華のスクラムを!

  明るく陽光の励ましを!

  「心の財」を積みながら

  歓喜と充実の青春たれ。


        2015年6月29日





     ※☆*寸 鉄*※

大関西が総会。世界が仰ぐ常勝の英雄よ!新生の心意気で共々に快進撃を

       ◇

「大阪の戦い」を勝ち開いたのは20代の青年室長。後継ぐ青年の使命は燦然

       ◇

真の功徳は折伏を知らぬ者にはありえないー恩師。喜び勇んで仏縁を広げよ

       ◇

皆で活動体験語る充実の協議会を。「師弟の月」の勝利へ我が地区から出発

       ◇

熱中症に注意!屋内での発症も多く。水分・塩分補給、冷房の活用小まめに        
                         




     ※名字の言※


「僕には才能がありませんから」「力はございませんが……」。謙遜を美徳とする日本人が、言いがちなせりふである



思想家で、武道家でもある内田樹氏は、自分も若いころにはよくそう言ったが、教える立場になった時、それは禁句であることが分かったという



氏の同門に昔、いくら勧められても初段の審査を受けない人がいた。自分にはまだ黒帯の実力がない、と。そのうち後輩にもだんどん抜かれ、不思議なことに、10年以上稽古しても、さっぱり彼の技能は進歩しなかった。「何か」が能力の開花に「ロック」をかけていた(『街場の戦争論』ミシマ社)



「力がありません」という表白は、結果が首尾よくいかなかった時のための予防線である。この、心の隅に残った恐れの命が、成長を妨げる。ほかに「自分はやればできる」という言葉があるが、これも、時には「やらない」言い訳であり、臆病の表れかもしれない



だから、成長にはまず「勇気」が必要となる。牧口初代会長は青年に言った。「勇猛精進し給え!仏法は実行だよ。精進だよ。老齢にはなったが、私も実践しています」と。勇んで挑戦する。そのあとに力はついてくる。「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」(御書1361ページ)である。            (申)                   
                                                                       




【聖教新聞:2015年(平成27年)6月29日(月)付】



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