和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

革心46/小説「新・人間革命」

2015年06月23日 07時06分19秒 | 新・人間革命


【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 6月23日(火)より転載】

【革心46】

 一九三一年(昭和六年)、中国共産党は、中央根拠地を江西省の瑞金に置き、中華ソビエト共和国臨時中央政府を樹立する。だが、国民党軍は、大軍をもって、この中央根拠地を包囲したのだ。周恩来も、穎超も、瑞金にあって苦闘を続けた。

 穎超は、髪を切り、共産党の革命軍である紅軍の帽子、軍服に身を固めた。食糧も満足にないなかで、皆を励ましながら、働き通した。しかも、冗談を絶やさず、苦労を笑いのめすかのように、いつも周囲に、明るい笑いの輪を広げた。

 なぜ、彼女は、あれほど明るいのか――皆は不思議でならなかった。

 穎超は、周恩来に、こう語っている。

 「私は根が楽天的なのよ。それに私たちが暗い顔をしていたら、みんなに伝染してしまうでしょう。今は苦しいけど、私たちの革命は先々光明に満ちているということを態度で示さなければいけないと思うの。みんなに勝利に対する確信を持ってもらいたいの」(注1)

 理想も、信念も、振る舞いに表れる。一つの微笑に、その人の思想、哲学の発光がある。

 国民党軍は、猛攻撃を開始し、拠点は次々と落とされていった。穎超は、砲弾のなか、物資の運搬や傷病兵らの看護に奔走し、皆を激励し続けた。彼女も、彼女に励まされた女性たちも、自分の着ている衣服を脱いで傷病兵を包み、配給されたわずかな食糧を戦死した兵士の子どもたちに与えた。

 穎超の体は、日ごとに痩せ細り、遂に大量に血を吐いて倒れ、高熱に浮かされた。立つこともできなかった。肺結核であった。当時は、「不治の病」とされていた。

 党は、中央根拠地の瑞金からの撤退を決めていた。母の楊振徳は、動けない傷病兵の看護のために残り、穎超は、死を覚悟で紅軍の撤退作戦に参加する。

 母は告げた。「最後まで生きなさい、革命はあなたを必要としている」「命あるかぎり戦いなさい」(注2)と。娘は、数歩歩いては倒れ、よろめきながら「長征」を開始する。



■ 小説『新・人間革命』の引用文献
 注1・2・3・4西園寺一晃著『頴超』潮出版社
 主な参考文献
 西園寺一晃著『頴超』潮出版社
  『人民の母ーー頴超』高橋強・水上弘子・周恩来 頴超研究会編著、白帝社
 ハン・スーイン著『長兄ーー周恩来の生涯』川口洋・美樹子訳、新潮社
 サンケイ新聞社著 『蒋介石秘録』 サンケイ出版


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鷭(ばん)/名字の言 ≪第.1812号≫

2015年06月23日 06時45分34秒 | 今日の俳句
  




  喪の帯を解く鷭の声かぞえつつ
       渋川京子


  立ち去るや沼風に来る鷭のこゑ
       及川 貞


  鷭鳴いて船堀の船寝飽きたり
       林 翔


  朝の日に潜り出る鷭黒光り
       飯島治蝶


  鷭飛びて利根こゝらより大河めく
       菅 裸馬




※ クイナ科で水鶏(くいな)よりやや肥満している。羽色は灰黒色。嘴の基部が赤い。尾を高く上げクルルーとかキュックと鳴きながら水面を巧みに泳ぐ。
 四~九月に、水辺の草の間に枯草を重ね皿形の巣を作り、五~十個の卵を産む。肉が美味で狩猟の対象とされる。同科に大鷭がいる。

【「俳句歳時記・第3巻/角川書店」より転載】

 




     ※わが友に贈る※


  家族のため地域のため

  奮闘する壮年部よ

  いつもありがとう!

  理想と誓いに生き抜く

  誉れの黄金柱たれ!


        2015年6月23日





     ※☆*寸 鉄*※



沖縄戦終結70年。語り継ぐ若人の使命大。不戦を誓い、人間共和の宝土を

       ◇

信とは不可能を否定する鍵ー喜劇王(チャップリン)。苦境の友よ強靭な楽観主義で扉開け

       ◇

人材育成の要諦は地道な個人指導。幹部(リーダー)は「抜苦与楽」の激励に駆け巡れ

       ◇

「人生は虚栄に生きるな。真実に生きよ」恩師。信心で練磨した心の財は不滅

       ◇

世界のテロ件数、前年比3割増と。暴力の根絶へ対話、対話の大波を断固






     ※名字の言※


沖縄県民を対象にした地方紙などの共同調査では、86%の人が、沖縄戦の記憶を次世代に伝えたいと意欲を示した。だが、県民の4人に1人の命が奪われた凄惨な沖縄戦は、体験者にとって、血の逆流するような、思い出したくない記憶だ。語るのを拒む人、悲しみを心にしまったまま亡くなった人も多い



沖縄市に、共に90歳になる夫婦がいる。戦後間もなく結婚し、70年近く連れ添ってきた。これまで、互いの沖縄戦の体験を聞くことは、一度もなかったという



70年という節目の今年、創価学会の青年部・未来部の聴き取り運動に参加しはひ孫と母親である孫に、戦争体験を聞かせてほしいと頼まれた。「話す気になれない」「もう、いいから」と夫婦は一度は断った



それでも、訪ねてきた孫とひ孫の顔を見て、2人は70年にして初めて、沖縄戦の惨劇を語り始めた。女子中等部員のひ孫は、想像を絶する内容に衝撃を受けつつも、平和への思いを心にともした。学校で、沖縄戦のこと、平和の尊さを友人と話すようになったという



戦争は命を奪い、生き残った命にも、一生消えない傷を残す。その痛みに耐えながら、勇気を振り絞って語り残してくれた人々に応えて、平和を誓う「沖縄慰霊の日」としたい。            (結)                                   




【聖教新聞:2015年(平成27年)6月23日(火)付】



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6月22日(月)のつぶやき

2015年06月23日 01時43分35秒 | 今日の俳句