【「聖教新聞」 2015年(平成27年) 6月4日(木)より転載】
【革心31】
九月十四日、山本伸一ら訪中団一行は、刺しゅう研究所を訪れ、千年の歴史をもつという、蘇州の刺しゅうができあがる工程を見学した。
最初に案内された部屋には、高さ二メートルの六面のびょうぶがあった。梅、山茶花、竹に鳥を配した、美事な構図と鮮やかな色彩に、一行は目を奪われた。驚いたことに、びょうぶの裏面も同一の絵柄の刺しゅうになっていた。
伸一が、精緻な技術に感嘆しながら、作業を見ていると、担当者が語り始めた。
「蘇州の刺しゅうは、伝統的に家内手芸として伝えられてきました。しかし、中華人民共和国が建国されてからは、研究所をつくって、技術の向上や後継者の育成に力を注いでいくようになりました。
その結果、糸は千種類を数え、刺繍のさし方も、十八種類から、五十種類に増えました。
また、文化大革命の時代は、デザインも画一化され、労働の姿を強調する作品が中心でしたが、今は、さまざまなものが描けるようになりました。万里の長城などの景色や、花鳥魚虫の類いにも取り組んでいます」
文革の時代が終わり、自由の風が吹き始めたことを、心から喜んでいる様子であった。
自由なくして人間の幸福はない。しかし、自由を手に入れ、幸福を確立するためには、一人ひとりが、自身を律し、向上させていくことが不可欠である。いわば、人間革命の哲学が求められよう。伸一は、それこそが今後の大きなテーマになるであろうと思った。
刺しゅう研究所に続いて、一行は、蘇州市内の北西部にある景勝地「虎丘」を訪ねた。
虎丘は、二千五百年前、春秋時代の呉王・闔閭が埋葬されて三日、白い虎が蹲っていたという伝説から、「虎丘」と名づけられたとされる。
三十メートルほどの丘の頂には、八角七層のレンガ造りの虎丘塔(雲岩寺塔)がそびえ立つ。塔の高さは四十七、八メートルほどあり、完成は西暦九六一年である。塔は、地盤沈下によって約三度傾き、「東洋の斜塔」といわれているとのことであった。
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九月十四日、山本伸一ら訪中団一行は、刺しゅう研究所を訪れ、千年の歴史をもつという、蘇州の刺しゅうができあがる工程を見学した。
最初に案内された部屋には、高さ二メートルの六面のびょうぶがあった。梅、山茶花、竹に鳥を配した、美事な構図と鮮やかな色彩に、一行は目を奪われた。驚いたことに、びょうぶの裏面も同一の絵柄の刺しゅうになっていた。
伸一が、精緻な技術に感嘆しながら、作業を見ていると、担当者が語り始めた。
「蘇州の刺しゅうは、伝統的に家内手芸として伝えられてきました。しかし、中華人民共和国が建国されてからは、研究所をつくって、技術の向上や後継者の育成に力を注いでいくようになりました。
その結果、糸は千種類を数え、刺繍のさし方も、十八種類から、五十種類に増えました。
また、文化大革命の時代は、デザインも画一化され、労働の姿を強調する作品が中心でしたが、今は、さまざまなものが描けるようになりました。万里の長城などの景色や、花鳥魚虫の類いにも取り組んでいます」
文革の時代が終わり、自由の風が吹き始めたことを、心から喜んでいる様子であった。
自由なくして人間の幸福はない。しかし、自由を手に入れ、幸福を確立するためには、一人ひとりが、自身を律し、向上させていくことが不可欠である。いわば、人間革命の哲学が求められよう。伸一は、それこそが今後の大きなテーマになるであろうと思った。
刺しゅう研究所に続いて、一行は、蘇州市内の北西部にある景勝地「虎丘」を訪ねた。
虎丘は、二千五百年前、春秋時代の呉王・闔閭が埋葬されて三日、白い虎が蹲っていたという伝説から、「虎丘」と名づけられたとされる。
三十メートルほどの丘の頂には、八角七層のレンガ造りの虎丘塔(雲岩寺塔)がそびえ立つ。塔の高さは四十七、八メートルほどあり、完成は西暦九六一年である。塔は、地盤沈下によって約三度傾き、「東洋の斜塔」といわれているとのことであった。
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