和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

「勝利城」/名字の言

2013年01月21日 10時25分35秒 | 今日の俳句
 「勝利城」/名字の言

【聖教新聞・2013年 (平成25年)1月21日(月)より転載】        


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(1/21)
   師匠と共に戦い、自身の「勝利城」を築くこの一年。
それには、何ものにも負けない強い心が必要だ。
先日、ある壮年部が信仰体験を披露し、勝利の要諦は不屈の一念であることを語った



今は首都圏の教育者として尽力する壮年だが、大学卒業後、販売会社に就職。ところが仕事は予想外の内容。
営業成績も上がらず転職を考えた。教職だった



だが、そのままで終わりたくなかった。
目前の仕事をやりきり、業績を残してから辞めると決めた。
闘争心を燃やして挑戦し、結果を示して退職した



苦闘は、さらに続いた。
小学校教員を目指し数年。
経済的な援助を受けるため、不本意ながら実家に戻った。
最初の不合格の時はさすがにこたえた。
信心しているのに、なぜ勝てないと試練を嘆く心も湧いた。
が、創価大学などで、これまで師匠から学んだ負けじ魂を燃やして戦い、勝利した



池田名誉会長は随筆で、青年時代は思うようにいかないことも多いが、若い時の苦労は生涯の宝となると述べ、“だからこそ、真剣勝負で目の前の課題に、一つ一つ挑み、日々の努力を止めないでいただきたい”と望んでいる。
どんな状況でも諦めないことだ。
心が負けないことだ。
祈り抜き、力を尽くし抜く闘争で勝利の扉を開こう。
                (弓)


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法旗(四十)小説「新 ・人間革命」

2013年01月21日 09時36分43秒 | 今日の俳句
      小説「新・人間革命」

【「聖教新聞」 2013年 (平成25年)1月21日(月)より転載】


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法旗40(1/18)
 一九六三年(昭和三十八年)十一月、愛媛県初の会館として松山会館が完成し、会長・山本伸一が出席して、落成入仏式が行われた折のことである。

 その席で伸一は、学会の会館は、「人材をつくる城」であり、「民衆救済の城」であり、「慈悲の城」であると力説。

「どうか、皆さんは、“一切の民衆を救うのだ! この松山の広宣流布をするのだ!”との決意で立ち上がってください」と、訴えたのである。

 そして、帰り際には、参加者と握手を交わした。
そのなかに、入会一年の羽生直一もいた。伸一は、羽生の手を、強く握り締め、じっと目を見つめて言った。

 「松山を頼みます!」

 羽生は、ぎゅっと握り返しながら、無我夢中でこたえていた。

 「はい! 頑張ります」

 彼は、強く心に誓った。

 
 “俺は、山本先生に誓った。
人間と人間の約束をしたんだ。
あの言葉を、その場限りのものとして終わらせては、絶対にならない。
松山の広宣流布の責任をもつのだ!”

 それを、わが信念とし、努力に努力を重ねた。
妻のみさ子と共に、草創の地区部長、地区担当員や支部長、支部婦人部長などを歴任していった。
彼らは自分たちのことより、「広宣流布第一」「松山第一」と決めていた。
広布こそ、わが人生と決めた時、人生は開花する。

 地域に会場がなくて、皆が困っていることに気づくと、当時、呉服店の二階にあった自宅を会場に提供した。
会合に集ってくる人は、呉服店の玄関を使うことになる。

 ある時、店に税務署員が調査に来た。
ひっきりなしに客が出入りしていると聞き、“申告している以上の、莫大な儲けがあるのではないか”と思ったようだ。


 羽生直一が帳簿を見せようとすると、税務署員は、「いや、結構です」と言って帰っていった。
人の出入りは激しいが、皆、二階に上がり、帰る時も荷物が増えていない。
訪問者は、会合参加者とわかったのだ。


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冬菜/今日の俳句 ※No.1170※

2013年01月21日 06時06分42秒 | 今日の俳句
   冬菜/今日の俳句 ※No.1170※
 2013年(平成25年)1月21日(月)


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   ※今日の記念日※


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■ 久女忌。
 俳人・杉田久女の1946年の忌日。
※ [生涯 ]
高級官吏である赤堀廉蔵と妻・さよの三女として鹿児島県鹿児島市で生まれる。
父の転勤に伴い沖縄県那覇市、台湾嘉義県・台北市と移住する。
1908年(明治41年)東京女子高等師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)を卒業。
この間に一家が上京する。
 1909年(明治42年)旧制小倉中学(現・福岡県立小倉高等学校)の美術教師で画家の杉田宇内と結婚し、夫の任地である福岡県小倉市(現・北九州市)に移る。
 1911年(明治44年)長女・昌子(後に俳人・石昌子となる)誕生。
 1916年(大正5年)兄で俳人の赤堀月蟾が久女の家に寄宿する。
この時に兄より俳句の手ほどきを受ける。それまで久女は小説家を志していた。
『ホトトギス』に投句を始め、1917年(大正6年)ホトトギス1月号に初めて出句。
この年5月に飯島みさ子邸での句会で初めて高浜虚子に出会う。
1922年(大正11年)夫婦揃って洗礼を受けクリスチャンとなる。
1931年(昭和6年)帝国風景院賞金賞を受賞。
 1932年(昭和7年)女性だけの俳誌『花衣』を創刊し主宰となる。
しかし、5号で廃刊となった。1934年(昭和9年)中村汀女・竹下しづの女などとともにホトトギス同人となる。
 1936年(昭和11年)虚子よりホトトギス同人を除名される。
除名の理由は現在も明らかになっていない。
しかし除名後も虚子を私淑しホトトギスへの投句を続けた。
太平洋戦争後の食料難により栄養障害をおこす。
 1946年(昭和21年)1月21日、栄養障害に起因した腎臓病の悪化により福岡県筑紫郡太宰府町(現・太宰府市)の福岡県立筑紫保養院で死去、享年57。
愛知県西加茂郡小原村(現・豊田市松名町)にある杉田家墓地に葬られた。
 1957年(昭和32年)長野県松本市の赤堀家墓地に分骨される。
ここに記された「久女の墓」の墓碑銘は長女・昌子の依頼で虚子が筆を取った。
〈身にまとふショールも古りにけり・杉田久女〉

【「ウィキペディアフリー百科事典」より転載】


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   ■※今日の俳句※■


 月光に冬菜のみどり盛りあがる
      篠原梵


 人のかげ冬菜のかげとやはらかき
      桂信子


 地に置けば幸ある如し冬菜籠
      倉橋羊村


【季語解説】
 冬菜・冬菜畑・冬菜籠。
 9月ごろ種を蒔き、冬に収穫する菜類の総称。
 白菜・小松菜・水菜などがある。
 あたりが枯れ進むなかで、「冬菜」の緑はひときわ目を引く。

【「俳句歳時記/第四版増補・冬」(角川学芸出版=編)より転載】


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※わが友に贈る/寸鉄※
【「聖教新聞」2013年(平成25年)1月21日(月)より転載】


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    ※わが友に贈る※
        


 広宣流布は言論戦!


 「新聞長」の皆様こそ


 そのトップランナーだ。


 本当にありがとう!


 尊き人生に福徳あれ!



      ◇※1月21日※◇


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      ◇※寸 鉄※◇ 


学会は人間の可能性開く幸福の哲学を発信ー博士(アメリカ)。自他共に輝く未来へ前進



岡山・倉敷の友よ!痛快なる勝利の劇を!勇猛心で自身の限界を突き破れ



男女「地区リーダー」が大奮闘。広布の最前線で先駆の対話拡大を頼む。



偽説は真理に勝つことはできないー孫文。青年は破折精神で言論戦に勝て



「女性を大切にし、平和守る党は公明」作家。信頼に応え実績を積み上げよ



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