工房八重の部屋

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アドリア海感動紀行10日間を終えて、サラエボから空路イスタンブールを経て帰路につく

2014年06月17日 | Weblog
今回の旅行は今ヨーロッパでも人気の観光国のクロアチアに中心にスロべキアやボスニア、アドリア海を中心に回ったツアーでした。

クロアチアでは5つの世界遺産を訪ね、アドリア海の美しい景色が印象に残っています。

今回観光した国々は日本よりも遠く、その歴史も詳しくありません。

20年前に終了した紛争の爪あとを見て、その紛争の悲惨さを感じる旅でした。

有名なカリスマ的指導者チトーがドイツ降伏後にユーゴスラビア連邦を再建しますが、1980年のチトー死後、

連邦の大統領は連邦を構成する6カ国と2自治州の代表による1年ごとの持ち回りとしたのですが、任期が僅か1年では

民族がモザイク状に入り組んでいるユーゴスラビアにおいて、特定地域における民族主義を基にした独立運動の高まりは、

必然的に同じ地域の別民族の反発を招き、それがまた他の地域における民族対立を煽り、と言う悪循環に突入してしまいます。

1991年のスロベニア・クロアチアの独立宣言からユーゴスラビアは凄惨な内戦に突入してしまい、内戦はボスニア、コソボへと飛び火して

ユーゴスラビア連邦は解体します。

1992年3月にボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言。当時、同国には約430万人が住んでいたが、そのうち44%がボシュニャク人(ムスリム人)、

33%がセルビア人、17%がクロアチア人と異なる民族が混在していたので、ボシュニャク人とクロアチア人が独立を推進したのに対し、

セルビア人はこれに反対し分離を目指したため、両者間の対立はしだいに深刻化。独立宣言の翌月には軍事衝突に発展しました。

およそ3年半以上にわたり全土で戦闘が繰り広げられた結果、死者20万、難民・避難民200万が発生しました。

今回のサッカーのワールドカップでボスニア・ヘルツェゴビナは初出場しました。

16日のアルゼンチンとの試合では負けましたが、紛争終結から20年たち、復興は進んでいます。

今回の旅行は美しい景色や世界遺産に感動する旅でしたが、歴史を考えさせられる旅でもありました。


ドブログニク旧市街でのコーラス