アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数4700 ミニ・テーマで京都をめぐります 随時記事更新中

まとめ028 鞍馬寺

2018年05月24日 08時03分45秒 | テーマ数々

 

霊宝殿

鞍馬山博物館。1階は自然科学博物苑で、鞍馬山中に棲息するモモンガ・ムササビ等の珍獣奇鳥をはじめ昆虫・岩石・植物等の資料、標本、模型等を展示している。

2階は寺宝展示室。経塚石造宝塔(国宝・藤原時代)は、本堂背後の崖上に営まれていた経塚の標識として建立されていたもので、高さ84㎝、松香石製、古さに於いては石造宝塔中、わが国最古になる。

また、銅灯籠(重文・鎌倉時代)は高さ2.31m、ただし円筒形の火袋だけが正嘉2年(1258)の作で、表面に毘沙門天そのたの仏像を陽刻し、周辺に女性をまじえた多くの助成者の名が刻まれている。笠以下は元禄時代の補修による鉄製である。

坂上田村麻呂所用とつたえる黒漆剣(重文・平安時代)や戦国時代の武将の祈願文、書状等が展示されている。別室の与謝野記念室には与謝野寛・晶子夫妻の文箱・机・書籍・歌稿等が展示されている。旅を好んだ夫妻は、先代住職信楽香雲管長が同門であったよしみから、鞍馬もよく訪れた。昭和51年(1976)には東京荻窪にあった晶子の書斎「冬柏亭」が寄贈され、霊宝館前に移築されている。

3階の宝物収蔵庫には、鞍馬寺にとって最重要な仏像3体が安置されている。

毘沙門天および脇侍吉祥天・善膩師童子立像(国宝・平安時代)は一木彫、瞳に墨、唇に朱をさすほかは、彩色しない白木のままとしている。中尊の毘沙門天は等身、右手に鉾をもち、左手を目の上にかざして、鞍馬山から南の京都を望見する姿は、いかにも王城鎮護・北方守護の精神を具象化したものというべく、仏像彫刻中、傑作。

兜跋毘沙門天立像(重文・平安時代) 高さ1.67m、一木彫の彩色像、太り気味の体に山形の宝冠をかぶり、外套のような長い鎧に身をかため、腕は海老籠手をはめ、二鬼を従えた地天の差し出す掌上に立っている。兜跋毘沙門天とは唐の玄宗皇帝の頃、敵軍に包囲された安西城の楼門にあらわれ、敵を追っ払ったといわれ、これに因んで平安京造営に際しては、羅城門の楼上に安置された。鞍馬寺を創建した藤原伊勢人は造東寺長官をつとめていた関係上、羅城門上のまねて、北方の守護神として当寺に安置したもの。

観音菩薩立像(重文・鎌倉時代)高さ1.76m、寄木造り、玉眼入の彩色像で、頭は髻をたかく結い上げ、両手は胸の中央で蓮華を捧げ、知的なまなざしで前方をみつめる長身の姿は、憂いをこめた女性的な感じがする。藤原伊勢人がはじめ念願していた観音像とは、これであった。足ほぞに嘉禄2年(1226)大仏師肥後別当定慶作の墨書銘があるので、旧像の破損後、鎌倉時代になって模刻したものとみられる。

 

1    寺院左0468  仁王門 鞍馬寺

2  寺院左0469  参道の 町石  鞍馬寺

3  神社左0136 由岐神社

4  墓所左008  源 義経

5  寺院左0471  中門  鞍馬寺

6  史跡左034 貞明皇后御休息所

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まとめ027  三条大橋

2018年05月13日 05時54分06秒 | テーマ数々

 

まち歩き中0797 三条大橋

まち歩き東0615  こんなところに橋脚がある 鴨川べりの歩道の脇 

まち歩き東0614  三条大橋 と 鴨川

まち歩き下0442  四条大橋

三条大橋の高山彦九郎の銅像

京都国立博物館 野外展示 石造物の12点  十三重石塔を追加

道標中0010 京都市道路元標 

 

 


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まとめ026 嵐電

2018年05月09日 16時26分29秒 | テーマ数々

 嵐電のいろいろな風景をまとめました。

 

 1   夏越祓 茅の輪くぐり 嵐電沿線で

2   桜右017  嵐電 桜の街道  H28.4.2 

3   まち歩き右0004 嵐電・嵐山駅のモニュメント

4   道標 と 嵐電(らんでん)

5   右書き看板38  驛室御

6  石鳥居・車折神社・北第1  20基

7  嵐電山ノ内駅 ホームはスリルがあり過ぎ 動いたらだめ

8  昔ここに 嵐電の駅 「小松原」 があったのを知っていますか 

9  桜右028  散るのが早い 嵐電桜街道 

10  道標右0041 暲子内親王・文徳天皇陵  参道

11  桜右012  嵐電、桜街道を走る  H27.4.2

12  半分埋没した 愛宕灯篭 それでも残っている 民家の前  

13  寺院右0002  広隆寺 (こうりゅうじ)   「太子さん」とも言われている

14  まち歩き中0597 嵐電の通過

 15   寺院右0465 広隆寺 門前


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まとめ024 妙心寺

2018年04月25日 20時20分56秒 | テーマ数々

 

  

     寺院右0461 鐘楼(浴鐘)   妙心寺内 東

     寺院右0460 通玄院 妙心寺塔頭

      寺院右0459 玉龍院 妙心寺塔頭

    寺院右0458 大龍院  妙心寺塔頭 

    寺院右0457 徳雲院  妙心寺塔頭

    寺院右0456  霊雲院  妙心寺塔頭  西田幾多郎墓所

    寺院右0455  鐘楼 北西にある  妙心寺内 日本最古・国宝

    道標右0167 佐久間象山 墓道

    寺院右0454  聖澤院 妙心寺塔頭

    寺院右0453 鐘楼(南西にある) 妙心寺内

    寺院右0452 法堂 妙心寺内  雲龍図の天井図

      寺院右0451 天授院 妙心寺塔頭

     寺院右0450  井戸  妙心寺内

       寺院右0449 経蔵  妙心寺内

   寺院右0448 仏殿 妙心寺内 

   石碑右0165   名勝 史蹟    妙心寺庭園

    寺院右0446  明智風呂  浴室 妙心寺内

   寺院右0445  龍泉庵  妙心寺 塔頭

   寺院右0444 慈雲院  妙心寺 塔頭  

   寺院右0432 妙心寺 境内図

   寺院右0442 妙心寺 勅使門

   寺院右0433 智勝院  斎藤利三の墓がある

   妙心寺塔頭 麟祥院 は 春日局の菩提寺

   ポスター0093  白隠禅師 250年遠忌 妙心寺

   退蔵院 

   愛宕灯籠  妙心寺北門前にあり

   寺院右0443 妙心寺 三門 

   ポスター0009  妙心寺 三門 

   衣笠山の頂に到着 衣笠山をめざして7

   妙心寺 南総門 

   お精霊送り  8月16日  妙心寺

  

  

方500m四方におよぶ広大な寺域に多数の伽藍がある。禅宗寺院で、正法山と号し、妙心寺派の大本山。当寺は花園天皇がこの地にあった離宮(萩原殿)を禅寺に改められたのが起こり、その創建年月については諸説があるが、およそ南北朝時代の康永元年(1342)頃とみられる。

 

開山は大徳寺の大灯国師妙超のすすめにより、その高弟関山慧玄が招かれてより、上皇もまた傍らに玉鳳院を建てて塔所とし、間もなく崩御された。開山の関山慧玄は無相大師といわれるごとく、形式的な読経や規式にこだわらず、堂宇の壮厳にも心をとめず、ひたすら人材の養成のみにつとめられたから、創立当初は規模も小さく、大徳寺の末寺として位置づけられた。

 

さらに応永6年(1399)、大内義弘が足利義満に叛旗をひるがえしたとき、義弘がときの住持拙堂宗朴(六世)と親しく、また妙心寺の壇越でもあったため、寺は義満によってその寺領を没収され、寺名もまた竜雲寺と改称し、一時は廃絶の憂き目にあった。

 

 

 

しかし、永享4年(1432)以降、寺領の一部が返還され始め、さらに日峰宗舜が7世住持となるにおよんで、細川持之、・勝元の支援を得て、伽藍の復興もようやく軌道にのるに至った。

 

応仁の乱の兵火によって焼失したが細川勝元・政元父子の援助によってふたたび復興され、大徳寺の支配を脱して独立寺院となるに至った。その頃、9世住持雪江宗舜の高弟に景川・悟溪・特芳・東陽の4傑が現れ、それぞれ竜泉・東海・霊雲・聖澤のいわゆる本四庵を山内にかまえ、この本四庵を中心として関山禅の浸透につとめたから、五山禅の衰退をよそに妙心寺禅は臨済宗の主流の地位を占めるに至った。

 

 

 

とくに戦国武将の帰依をうけ、多くの敷地の寄進をうけた。なかでも永正6年(1509)美濃国・加納の城主斎藤利国の室利貞尼は、御室仁和寺真乗院の領地を買収し、永代供養にと妙心寺に寄進した。これが妙心寺が現在の広大な境内地を占めるに至った。

 

江戸時代には将軍や諸侯の帰依するもの多く、塔頭子院90余宇のうち、武将の建立するものは38宇におよんだ。今日につたわる三門や諸堂宇もあいついで建立され、白隠禅師ら多くの名僧の輩出によって、寺運は隆昌になった。

 

明治以降も臨済9派の随一としてさかえ、今、末寺は全国に3500寺の多きを有している。

 

   

 


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まとめ025 広隆寺

2018年04月24日 19時46分39秒 | テーマ数々

 

 

    寺院右0465 広隆寺 門前

    寺院右0466 広隆寺 境内

  道標右0166  別格本山 広隆寺西門  三宅安兵衛建立

  寺院右0002  広隆寺 (こうりゅうじ)   「太子さん」とも言われている 

 

蜂岡山と号し真言宗御室派。当寺は推古天皇11年(603)秦河勝が聖徳太子より一体の仏像を賜ったが、推古天皇30年(622)太子の死後、その菩提を弔うために仏堂を建立したのが起こり。はじめ北野白梅町付近にあったが、天智天皇のときに現在の地に移された。また、桓武天皇の平安京造営に際して転出したとの説がある。

創建当初は秦氏の氏寺として崇められ、秦公寺と称したが、葛野寺、蜂岡寺、桂林寺・三槻寺ともいった。聖徳太子有縁の寺院として栄えた。

弘仁9年(818)に全焼の役に厄に会い、承和の頃に秦氏出身の道昌僧都を中心として復興されたが、久安6年(1150)再び全焼し、永万元年(1165)に至って復興した。

現講堂はこの時の再建である。

平安時代以降は本尊薬師如来に対する信仰があつく、多くの人が参籠した。

歌人の周防内侍もそのうちの1人。彼女は病気平癒祈願ょ参籠した。

その後、薬師信仰から太子信仰が盛んになると、境内に桂宮院の八角円堂を建立し、太子の故宮として顕彰され、また太子像を祀った上宮王院を以て本堂とする等、近世以降は聖徳太子の寺として信仰をあつめた。広隆寺を「太秦の太子さん」とよばれる。

「太子道」と通り名もある。

 

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まとめ023  円山応挙

2018年04月14日 15時25分04秒 | テーマ数々

 

関連記事 

   悟眞寺・應攀寺

   円山応挙地蔵尊

   寺院中0182 休務寺 浄土宗西山禅林寺派 画家 石田幽汀 墓

  

 


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まとめ022 法然上人

2018年04月07日 06時25分57秒 | テーマ数々

 

石の唐櫃に納められて知恩院勢至堂の門内右手に埋められたのだが、比叡山の荒法師たちによって遺骸が掘り出されようとしたので、一時嵯峨の二尊院に移したものの、ここも天台僧によって危険になったので、今度は太秦のの大藪の中(今日の西光寺)に隠し、さらに西山粟野の光明寺へと移してここで荼毘にふしたという。激しい宗派の動きの中で、死後もつねに荒波の中に立った法然であった。

大谷本廟とともに光明寺にも廟堂があるのは、そのためであって、また、知恩院の古門前参道の白川橋にかかる石の太鼓橋は、「忠臣蔵」の天川屋儀兵衛とよく混同されやすい大阪の豪商・天野屋利兵衛の寄進による江戸初期の石像美術品だが、そこを少し入った所の華頂幼稚園前にある幼児の合掌姿の銅像は幼児の法然上人を現した「勢至丸」の像である。

法然上人は美作国久米の時国の子で、幼名は勢至丸といったのである。伝説によると、長承2年(1133)4月7日、母は剃刀を飲み込んだ夢を見て懐妊したといい、父は勢至丸9歳のとき源内武者定明の夜襲を受け、暗殺されたという。そしてその臨終に際して「復讐など毛頭考えてはならぬ。ただ衆生の往生極楽をはかれ」と遺言したといい、しばらくは付近の菩提寺へ弟子入りしたが、その年から勢至丸は比叡山に登ったという。著に『選択本願念仏集』などがある。

なお、後年配流の原因となる過失を犯した門弟というのは住蓮、安楽のことで、鹿ケ谷にある法然院は、その門弟の庵を大文字山の麓から移したもの。延宝8年(1680)知恩院の万無が、これを寺として構えたものである。

なお、東山渋谷通り上馬町の小松谷の俗称で通っている正林寺は、平重盛の灯籠供養をしたとして知られ、その碑を残しているが、また法然上人が流刑の際は、ここから出発したといわれ、本堂には上人の像を安置している。

遺跡は比叡山、八瀬の青竜寺、黒谷の金戒光明寺、知恩寺、嵯峨の清凉寺、東山の知恩院、粟生の光明寺、相国寺の法然水の井桁、西光寺(太秦)、などたくさんある。

 浄土宗の開祖。かくし名は源空、比叡山の源光と皇円に天台宗を学び、のちに、黒谷の叡空について諸宗の奥義を極め、43歳の年、専修念仏にて浄土の法門を開いた。

東山に吉水(よしみず)園があるが、草庵を結んだ地として知られ、また大原の勝林院で南都・北嶺の僧徒と会って法門を論じた大原談義と話題を多くまいたが、門弟の過ちの責を負って一時讃岐(香川県)ら流された。建暦元年(1211)11月17日、許されて京に帰った際、前記の如く慈円和尚に迎えられて、今の知恩院の前身となった大谷の禅房に入り、翌年1月25日、80歳で大往生をとげた。円光大師は後の贈号である。

 関連記事 ➔  寺院左0440 釈迦堂 境内の掲示物 法然上人

           寺院長0170 光明寺 西山浄土宗  法然上人 蓮生上人

           寺院右0004 西光寺 (さいこうじ)  門が茅葺だ  浄土宗  

           


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まとめ021 九条武子

2018年04月07日 06時23分38秒 | テーマ数々

 

 まち歩き左0728  大原女  彫刻

 ポスター0073  九絛 武子

 ポスター0020 如月の華  九条武子ものがたり

 寺院左0440 釈迦堂 境内の掲示物 法然上人

 


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まとめ019 最澄 

2018年04月03日 19時49分58秒 | テーマ数々

唐で仏教を学び、天台宗をつたえた平安時代の僧

空海(弘法大師)と並び称される平安初期の高僧で、天台宗の開祖。清和天皇の貞観8年(866)贈られた「伝教大師」の諡(おくりな)は、わが国最初の大師号である。767年、近江国滋賀郡の人で、俗称は三津首(みつのおびと)広野。ほくろがく首の左に1つ、左ひじの上に1つあったという。三津首家は、当時の村長クラスの家柄で祖先は中国からの帰化人とされる。

12歳で近江国分寺へ入り、19歳で東大寺で受戒、その直後比叡山に入る。12年間一人で修業した。延暦7年(788)比叡山根本中堂を建立し、30歳、宮中の仏事に奉仕する内供奉十禅師の一人に選ばれる。延暦23年勅を奉じて入唐、天台山に学んだ。空海も同年入唐して長安に学び、大同元年(806)帰国しているが、最澄は1年間の滞在で帰国し天台宗をひろめた。『守護国界章』『顕戒論』などの著があるが、弘仁13年(821)比叡山中の中道院で入寂したとき56歳であった。比叡山と切っても切れないので、比叡大師、根本大師などともいうが、その遺骸は弟子の円仁(慈覚大師)によって石棺に入れられ浄土院に納められた。

 伝教大師 関連  ➡  寺院東0362  金剛寺 八坂庚申堂

        寺院西0149  勝持寺・花の寺  表参道  

        寺院西0128   石の寺  正法寺 真言宗東寺派  

        寺院西0125  勝持寺・花の寺  天台宗  西行 

        松ヶ崎大黒天  日蓮宗  

        廬山寺  圓浄宗  紫式部邸宅址  

        寺院中0241 善想寺 浄土宗  泥足地蔵   石仏

        寺院右0221  念佛寺  1200年前、母がこの地で亡くなる

        寺院長0171 乙訓寺 真言宗 最澄と空海が初めて出会った寺 ぼたん寺

        曼殊院  


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まとめ018  元三大師 (慈恵大師)

2018年03月30日 17時02分52秒 | テーマ数々

 

元三大師良源( 慈恵)

良源延喜12年(912)9月3日、近江国(滋賀県)浅井郡虎姫で生まれる。父は饗場重頼、母は物部憲興の娘月子といい、幼名を日吉丸あるいは観音丸という。延長元年(923)12歳の時仏門に入り理仙大徳に師事する。

良源は得度し、正式の僧となる時期目前に来て、師理仙の突然の死に遭遇し、後に伊勢国朝明ぐんの郡領船木良見の尽力により得度を許されたため良見の一字を得て僧名を良源し名乗り、修行を重ねる。

良源55歳で第18世天台座主となり叡山の諸堂を復興し、山侶2700人に及び中興の祖と号せられる。その間累進して僧正に任ぜられ、つづいて行基以来の大僧正に任ぜられる。名声は高く当時並ぶ者がなかったといわれる。

 

慈恵大師(912~985)は第18世天台座主良源の号で、正月3日に死んだことから元三大師ともいわれる。尊意や相応など当時の天台の高僧の指導を受け、学業の誉高く、承平年間(931~938)の興福寺維摩会で南都の義昭を論破し、応和3年(963)の清涼殿法華会で法相宗の法蔵を説伏するなど、弁才人にすぐれていた。

また、承平5年(935)、および康保3年(966)の火災で荒廃した叡山を復興した功績も大きく、天台宗中興の祖とあおがれている。それとともに、鎌倉時代には慈恵大師に対する特殊な信仰がおこっていきた。

それは33体、66体、99体という多数の慈恵大師像をつくることで、曼殊院の像の銘文によると、33という数は三十三観音をあらわすらしく、この像をつくった目的は、現在もおこなわれている大師の像を印刷した護符を家々の門にはるのと同様、これによって怨霊鬼霊のなす災いからまぬがれようとしたのであった。

この民間信仰的な大師像制作の動機は、鎌倉時代において、大師信仰がひろく民間に普及していたことを物語っている。

 

後世元三大師という俗称が一般的であるが、摩滅大師(豆大師)、角大師、鬼大師で知られ、また「おみくじ」の創始者として広く知り渡、信仰され親しまれている

 

関連記事 ➡  寺院東0367  尊勝院  庚申堂

          廬山寺  圓浄宗  紫式部邸宅址

           道標東0111  元三大師

           上善寺   忠臣蔵 ・軽女の墓 がある 

           左0155 横川 元三大師 近道


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まとめ017 道元禅師

2018年03月29日 19時46分10秒 | テーマ数々

 

1200年 京都に生まれる 宇治市木幡で生まれたと推定される。

3歳  父(内大臣、久我通親)亡くなる

8歳  母(藤原基房の娘)亡くなる。母は死を前に「仏門にはいれ」と諭している。

13歳  比叡山に登る。

18歳  建仁寺に入る 栄西禅師の門をたたく。

24歳  中国へ渡る。

26歳  中国で天童山 如浄和尚と会い、やがて如浄和尚のもとで大悟する。

28歳  中国から帰る。

31歳 深草安養院(現 欣浄寺)に閑居。ここで「正法眼蔵」を書き始める。

34歳 深草興聖寺を開く。いま日蓮宗の宝塔寺がある深草宝塔寺山町は道元が本格的な弘法救生活動に乗り出すため建てた深草興聖寺がかつて建っていたところと伝わる。

36歳 宇治に興聖寺僧堂を建立。

44歳 京都を去って福井へ。越前の武将 波多野義重の招きに応じる。 永平寺を創建した。

     名利に捉われず、理論を捨てて体験による行の宗教を強く主張した鎌倉時代の偉僧

54歳 夏病をえて療養のため京都へ帰る。結核のようだった。

   8月28日 下京区高辻通西洞院西入ルの俗弟子の家で死去。「東山の赤辻」にて荼毘。

           円山の西行庵の真南裏を複雑に入り込んだ所にある

  遺骨は永平寺に埋葬された。

 

関連記事 ➡  史跡下007  道元が亡くなった所

          寺院伏0324  栄春寺  曹洞宗  総門は伏見城の遺構  長沼宗敬澹斎の墓所 

          寺院伏0225 欣浄寺 曹洞宗  小野小町  道元禅師  伏見の大仏さん

          まち歩き長0510  おとくにの竹

 


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まとめ014 ラジオ塔 京都で8基

2018年03月23日 13時17分45秒 | テーマ数々

 

1  復活 ラジオ塔  船岡山公園

2  まち歩き北0013  ラジオ塔を知っていますか 紀元2600年記念を兼ねています

3  ラジオ塔 紀元2600年記念を兼ねています  小松原公園

4   橘公園のラジオ塔 現存は京都が一番多い

5  ラジオ塔  萩児童公園

  まち歩き左0730  ラジオ塔 八瀬で  

 

 

 

 京を含め28基が残る。 昭和初期には、全国で460ケ所以上設置された。横浜市、静岡市、大阪市、岡山にも残る。京都市は比較的多く残っていて、8基あるという

 

京都=円山船岡山、御射山(みさやま)、小松原、紫野柳(むらさきのやなぎ)、萩の各公園、叡山ケーブル八瀬駅近く

 

 


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まとめ0014 葵祭

2018年03月22日 21時17分41秒 | テーマ数々

1  葵祭  昔の写真  葵橋で

2  神社上0071 櫟谷七野神社  葵祭・斎王代も訪れる

3  まち歩き上0140 アーユーレディー 、OKです 葵祭り

4  ポスター0095 葵祭

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まとめ013 離宮八幡宮

2018年03月22日 15時30分42秒 | テーマ数々

その1  神社府0129 離宮八幡宮 3の1

その2    神社府0130 離宮八幡宮  その3の2

その3  神社府0131 離宮八幡宮  その3の3

 

 


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まとめ020 彫刻

2018年03月22日 13時46分23秒 | テーマ数々

 

1  まち歩き山0254  野外彫刻  出会うとき  谷口淳一

2  まち歩き左0728  大原女  彫刻

3  彫刻  OKIBARI YASU BY MASAYUKI NAGARE 1989

4  流 政之 作品「こんちき」

 


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