アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

まち歩き左1082 宝が池 国立京都国際会議場

2019年09月30日 06時45分35秒 | まち歩き

 

宝ヶ池公園

宝暦13年(1763)に灌漑用水池としてつくられた。池の周囲は1.8キロメートル、はじめ溜池または北浦溜池とよぶ小さな池であったが、その後2回の拡張工事を経て現在の大きさになり、明治の末期ごろに宝ヶ池と名付けられた。松ヶ崎村は水不足と干ばつによる稲作の不作は毎年大きな被害を蒙っていたが、この池の出現は正に宝にひとしい存在であったから、宝ヶ池と呼ばれるようになった。池は昭和6年(1931)松ヶ崎村の京都市編入によって、市の所有になった。

終戦の昭和24年池の周辺の風致を生かして多目的の公園を建設することになった。



国立京都国際会議場

昭和41年(1966)5月に開館されたわが国唯一の国立国際会議場である。地下1階、地上6階、日本古来の合掌造りを取り入れている。同時通訳を完備した会議室が7室。他に大小90室以上の部屋がある。

大会議室は収容人員2千人、1階から4階まで吹き抜けになっている。

まち歩き 前回の記事 ⇒ まち歩き北1081 西村家庭園 上賀茂神社 社家の庭園

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寺院北0638 浄福寺 西山浄土宗

2019年09月29日 07時38分43秒 | 寺院

 

 

 

寺院 前回の記事 ⇒ 寺院宇治田原0637  大道寺 信西入道ゆかりの寺

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まち歩き北1081 西村家庭園 上賀茂神社 社家の庭園

2019年09月28日 06時09分26秒 | 名園

 

 

 

西村家庭園

西村家庭園は、上賀茂神社の社家であった錦部(にしごり)家の旧宅の庭園であり、明神川から庭園内に水を導入し再び川に戻すというこの地域の社家庭園特有の水利用形式をとっている。もっとも、他の社家庭園では、導入した水を池とする例がほとんどであるが、この庭園では幅広い二筋の遣水としており、軽快な印象を受ける。また、庭園の一隅にある深さ1メートル余りの円形のくぼみは、水垢離(冷水を浴び身体のけがれを去ること)の場として用いられたものとみられ、この庭園の特色の1つとなっている。更に、上賀茂神社の御神体山である神山(こうやま)の降臨石をかたどったと伝えられる石組みも、社家の庭園らしい。

このように、西村家庭園は、上賀茂の社家庭園ならではの意匠を持つ貴重なものである。

西村家社家庭園は、上賀茂神社 18代目の神主(現在の宮司)である藤木重保が作庭したものと伝えられています。藤木重保とは、千載、新古今、玉葉、風雅などの勅撰和歌集にも作品が収録されているほどの歌人としても活躍した人物です。

 

 

まち歩き 前回の記事 ⇒ まち歩き久御山1080 燕の巣

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神社北0184 上賀茂神社

2019年09月27日 15時36分40秒 | 神社

 

 平成30年10月8日 撮影

 

 

上賀茂神社

京都市屈指の古社。正しくは賀茂別雷(わけいかづち)神社といい、下鴨にある賀茂御祖(みおや)神社を下鴨神社というのに対し、上賀茂神社という。別雷命を祭神とする賀茂氏の氏神であり、また賀茂郷の産土神で、その創祀はきわめて古い。別雷といい、火雷といい、雷神は農作に必要な水を給与する神として古代農民から崇敬された。この崇敬のこころを神話化したのが「賀茂伝説」である。

欽明天皇の御代にきすでに今の葵祭のはじまりである賀茂祭が存したといわれ、奈良時代には取り締まりを必要とするほどに栄えていたようです。平安遷都にあたって王城の守護神とあがめられ、伊勢神宮に次ぐ崇敬を得、嵯峨天皇の御代には、それまで賀茂氏の女が奉祀してきた忌子に代わり、皇女が斎王として奉祀されるなど、国家の祭祀にあづかるに至った。奉幣は歴代天皇ごとに行われ、ことに祈雨・止雨の奉幣は何回となくあった。また行幸は桓武天皇以来、60回ほどにおよび、御幸は白河上皇をはじめとしてしばしば行われた。

延喜の制には名神大社に列し、寛仁2年(1018)には神領として愛宕郡12郷のうち、4郷を除いた8郷を上下両社に寄進された。社運は隆盛を極めた。中世には山城国一ノ宮となり、明治初年には官幣大社に列し、全国の官国幣社の首位におかれた。しかし、第二次世界大戦後はかかる社格は廃止され、今は厄除開運・方除けの神として一般庶民の崇敬を得ている。

鎮座地は賀茂川の東畔、背後に御生(みあれ)山(神山 こうやま)があり、前に楢の小川のながれるところにある。神域内にはね桧皮葺の社殿が建ち並び、王朝時代さながらの景観を呈している。

社殿は21年目ごとに造営される習わしになっているが、今のは文久3年(1963)建造の本殿・権殿を除いて他は寛永5年(1628)の造替にかかわるものばかりで、およそ42棟ある。どれも、国宝や重要文化財に指定されている。

 

賀茂祭(葵祭)

賀茂競馬

烏相撲

他に多くの行事がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 神社 前回の記事 ⇒ 神社宇治田原0183 大道神社  

 

 

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まち歩き久御山1080 燕の巣

2019年09月26日 06時13分04秒 | まち歩き

平成30年8月25日 撮影

 

 

 

 

 

まち歩き 前回の記事 ⇒ まち歩き右1079 通行注意 自転車対面通行 ダメかも

 

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神社宇治田原0183 大道神社  

2019年09月25日 06時45分06秒 | 神社

 

菅原道真を祭神とする大道寺村の産土神で、由緒があきらかでない。

藤原時代初期の作と思われる束帯姿の神像一体が安置されている。

神社 前回の記事 ⇒ 神社八幡0182 石清水八幡宮 男山を離れた仏像と堂塔

 

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史跡宇治田原048  信西塚  平安時代・平清盛方

2019年09月24日 05時54分25秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

信西塚

塚は封土の上に石造宝篋印塔(江戸時代)を安置し、傍らに「信西入道塚」の石碑がある。

『平治物語』によれば、少納言信西入道(藤原通憲)は平清盛とむすんで権力をふるったため、これを恨んだ藤原信頼と源義朝は平治元年(1159)12月、清盛一族が熊野参詣の不在中をねらって兵を挙げた。いち早くこのことを知った信西は、京都を逃れて奈良にむかおうとした。

宇治から田原の奥、大道寺の所領地に至り、さらに東の信楽に行こうとした。しかし卜占の結果、天皇の危難は自分の身替りによって救われると判断し、死して君恩に報いようとして、ふたたび大道寺に引き返し、従者に命じて掘らせた穴に入り、大きな竹の節を上から差し込み、それを口にあてて死を待った。まもなく追撃してきた源光泰の軍勢に発見され、ついに首をはねられたという。

大道寺の領民はこの場所に塚を築いてその菩提を弔ったと言われている。大正5年8月に有志により供養塔が建てられ今に至る。


三宅安兵衛 建立の 道標 信西入道塚 

 

 

 大正5年に建てられた 石碑・供養塔

 

 

関連記事 ⇒  三宅安兵衛の道標

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡向日047  長岡宮 跡

 

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寺院宇治田原0637  大道寺 信西入道ゆかりの寺

2019年09月23日 05時48分12秒 | 寺院

 

 

 

大道寺

奈良時代に山岳修験の道場として開かれた金胎寺の北側登山口として、早くから開かれた地に天平勝宝8年(756)大納言三品湯原王(施基皇子の御子)の発願により、鷲峰山中興の越知泰澄大師が開基。大伽藍も配置されていたが、その後衰退していたのを嘉承元年(1106)11月、藤原忠実の帰依により再興し、それより大御堂と称したという。その後にその子頼長に伝領されたが保元の乱後、没宮領として田原庄など諸国の頼長領と共に後院領に入れられた。その後、平治の乱で殺された信西の所領となっていた。大道寺の南端にこの信西を供養した宝篋印塔が立つ。信西は俗名を藤原通憲と称し、「本朝世紀」「法曹類林」などが著した学者であったが、平清盛と結んで権勢を誇った。清盛の熊野参詣中、対立者の源義朝は兵を挙げ、信西は信楽に逃れようとして宇治田原まで来たが、この地で自害したと言われている。いわゆる平治の乱である。

「百錬抄」平治元年(1159)12月17日条に「少納言信西首、适尉於川原請取、渡大路懸西獄門前樹、件信西於志加良木山自害、前出雲守光保所尋出也」とある。「平治物語」古活字本には都を追われた折に「宇治路にかかり、田原が奥、大道寺といふ所領にぞゆきにける」と記されている。一説には、自害した屍は胴のみ近くの寺に納めて胴塚として祀られ、首は都でさられていたのを大道寺の領民がもらい受けて、この地に塚を築いたといわれ、近くに信西首洗いの池と称する小池もある。大道寺はその後も修験系の寺院として栄えたが、以後400年もの間興亡を繰り返し、ついに戦国末期に、永禄10年(1567)には織田信長による寺領没収に会って滅亡に近い寺院になったと伝えられる。とくに昭和28年の山城水害には裏山より土砂が崩れ落ち、寺は壊滅した。五体の仏像のみかろうじて難を逃れ、以前書庫とされていた御堂に安置されていたがその建物も近年老朽化はげしく、平成16年10月に現在の建物を新築し、本尊不動明王をはじめとする仏像を安置する。

寺院 前回の記事 ⇒ 寺院宇治田原0636 禅定寺 曹洞宗

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寺院宇治田原0636 禅定寺 曹洞宗

2019年09月22日 06時35分14秒 | 寺院

 

昭和2年3月 建立

 

 

 

 

 

 

 

浩宮殿下(現天皇陛下)参拝紀念

 

禅定寺

曹洞宗の寺で、多くの古文化財を有する当地方屈指の名刹。

当寺は正暦2年(991)、奈良東大寺の別当平崇(へいそ)上人が藤原兼家の帰依を得、11面観音像を安置し、補陀落山観音妙智院と号したのが起こりとつたえる。創建当初は本堂をはじめ三昧堂・毘沙門堂・舞殿など、多くの堂塔と寺領を有し、尊信をあつめたが、藤原氏の衰微と中世の兵火に罹災し、寺運は衰えた。延宝7年(1679)加賀国大乗寺の月舟和尚を迎え、加賀藩の家老本田長政の援助によって再興されたのが現在の建物はじめは東大寺末であったが、このとき曹洞宗にあらためたとつたえる。

境内は見晴らしがよい。茅葺の本堂は田舎風の素朴な建物であるが、平安時代の多くの古仏を安置する。昭和48年新造の収蔵庫に保管されている。

本尊11面観音立像・重文

日光・月光菩薩立像・重文

四天王立像・重文

文殊菩薩騎獅像・重文

大威徳明王像

地蔵菩薩半跏像・重文

禅定寺文書

美女石 禅定寺の本尊観世音菩薩はあるとき孤独な娘になり、貧しい村人に「ころ柿」の製法を伝授し、村の発展に導いた。この石は、その娘が立ち消えたところにあった石といい、のちに村人たちは観世音菩薩の出現地として崇敬するに至ったという。ちなみに「ころ柿」を「孤娘柿」としるすのは、この伝説によるものと伝わる。

五輪石塔(南北朝)

康永元年(1342)在銘の典型的な南北朝時代の五輪石塔である。

11面観世音尊像 禅定寺

昭和3年 三宅安兵衛 建立

人の背丈もある大きなわらじ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

五輪石塔(南北朝)

康永元年(1342)在銘の典型的な南北朝時代の五輪石塔である。

 

本堂

 

 

 

 

壁画がありました

 

 

 

壁画の原画

 

 

 

奉納絵馬

 

 

 

 

 

 

 

関連記事 ⇒  三宅安兵衛の道標

       京都府の重要文化財・国宝 建物

 寺院 前回の記事 ⇒ 寺院右0635 無量寺 浄土宗 

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源氏物語遺跡24 斎宮邸跡 

2019年09月21日 06時48分24秒 | 平安京

 

 

斎宮邸跡 平安京右京三条二坊十六町跡

斎宮は、天皇に代わって伊勢神宮に仕えた未婚の内親王または女王のことで、「いつきのみや」または「大御神(おおみかみ)の御杖代(みつえしろ)」とも呼ばれる。『日本書紀』によると、垂仁(すいにん)天皇の時代が始まりとされ、亀の甲羅を焼いて占う卜定(ぼくじょう)により斎宮が選ばれた。この制度が確立したのは天武朝以降で、南北朝時代の後醍醐朝をもって終わる。

2000年に行われた西京高校北側グラウンド発掘調査で、東西約15m、南北約40mの池跡や木枠を組んだ泉跡、池に張り出す建物跡など数多くの遺構が検出され、平安時代中期の邸宅跡と判明した。池跡から「齋宮」「齋雑所」と書かれた墨書土器が出土し、泉跡からは平安京跡出土の人形代(ひとかたしろ)では最大のものが出土した。また、池にたいせきした花粉分析の結果、庭にはマツ、カエデ、カキ、サクラなどが植栽され、この十六町跡が平安京内の斎宮の居所の1つと判明した。『源氏物語』 「賢木(さかき)」では、六条御息所は光源氏との恋愛に疲れ、斎宮に卜定された娘(後の秋好中宮)とともに伊勢へ赴くことを決意、光源氏は嵯峨野の野宮へ六条御息所を訪ねる。秋好中宮は母の死後、光源氏の養女となり、冷泉帝の妃となって斎宮女御と呼ばれた。当初は帝となじめなかったが、共通の趣味の絵を通して二人は親しくなっていった(「絵合」)。この六条御息所と秋好中宮の母娘は、歴史上実在の斎宮の母娘(徽子女王と規子内親王)に対比されている。

 

 

 

 

源氏物語ゆかりの地  ⇒ 源氏物語の遺跡 40ヶ所

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まち歩き右1079 通行注意 自転車対面通行 ダメかも

2019年09月20日 07時28分51秒 | まち歩き

 

 

 

まち歩き 前回の記事 ⇒ まち歩き右1078 自転車専用段差解消スロープ 通行注意です 

 


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まち歩き右1078 自転車専用段差解消スロープ 通行注意です 

2019年09月19日 05時50分45秒 | まち歩き

 

バイクで走行している人もあります

まち歩き 前回の記事 ⇒まち歩き中1077  ツツジがすばらしい

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石仏右034 石仏 台座があります ちょっと珍しい

2019年09月18日 07時27分50秒 | 石仏

 

 

 

 

 

石仏 前回の記事 ⇒ 石仏八幡033 法園寺 となりの石仏

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寺院右0635 無量寺 浄土宗 

2019年09月17日 06時48分27秒 | 寺院

 

前回の寺院記事 ⇒ 寺院右0634  福田寺(ふくでんじ) 浄土宗


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まち歩き中1077  ツツジがすばらしい

2019年09月16日 06時41分30秒 | まち歩き

平成30年4月29日 撮影

ずーっと遠くまで 咲いています

まち歩き前回の記事 ⇒ まち歩き右1076 道案内

  


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