アートプラス京めぐり

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京で燃える女性たち 

2015年10月13日 17時28分05秒 | 京で燃える女性たち

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1  瀬戸内 寂聴

2  丹という女性・赤穂浪士 夫人

3  太田垣 蓮月

4  美福門院・鳥羽天皇 夫人


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身内をすべて失った女性 太田垣蓮月 美人で陶器・「蓮月焼」が人気になった

2015年10月07日 20時06分49秒 | 京で燃える女性たち

ここにこの歌碑があるのかはわからないのですが

太田垣蓮月という人は

太田垣蓮月

誠子は寛政3年(1791)の正月、鴨川の西、東三本木にいた某女と伊賀上野の城主藤堂金七郎

との間に生まれたといわれ、洛東知恩院の寺侍太田垣伴衛門光古(みつひさ)の養女になった。

太田垣家では4児を失い、仙之助という男の子だけというさびしい家庭で、

ぜひ女の子がほしいと思っていたときだったからであろう。

だが、義兄の仙之助は、元服して間もなく病死、嘆きの義母もまた仙之助を追ってこの世を去り、

誠子は義父光古と二人きりになった。光古47歳、誠子13歳のときである。

18歳の春、誠子は養子を迎えた。この男無類の遊び好きで誠子を顧みない。

そのうえ、愛児が生後20日で亡くなり、義父のすすめで離婚してしまう。

それから5年目文政2年(1819)29歳で彦根藩家中の石川重二郎と再婚した。

平和な生活が続いたが、33歳の時、夫が病死した。誠子はここでも二児を失っている。

 

文政6年(1823)義父と誠子は知恩院で頭をまるめ親子とともに仏門に入る。

その後、42歳の時、知恩院の真葛庵で義父と死別した。そして出会ったのが粟田焼である。

40歳をこえていた。

1つ1つの作品に自作の歌を彫り付けた独自な作品は「蓮月焼」の名でもてはやされた

美人の尼で、歌詠み・・蓮月の人気は洛中洛外に高まり、訪問者がひきも切らず

蓮月は人嫌いな蓮月になった。住居は、岡崎、大仏、北白川、岡崎、聖護院と転々とした。

蓮月は70歳をすんでからも、美人だといわれていた。

1つは彼女が勤王の志士に多くの交友をもっていたため、幕吏の目をくらます策だったともいわれる。

 

慶応2年76歳に神光院のお茶所に移り住み、ここの清閑さを楽しんだ。

明治8年12月10日静かに世を去った。85歳だった

墓は神光院にある。墓銘は蓮月尼に育てられた富岡鉄斎が書いている。

岡崎在住以来、蓮月に養われ、

埴細工の土運び等をしながら学問をしていた少年がのちの富岡鉄斎である。

関連記事 ➡  富岡鉄斎旧宅  関連0014  富岡鉄斎 


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京女性001 美福門院

2015年03月17日 06時33分26秒 | 京で燃える女性たち

美福門院 得子(びふくもんいん なりこ)

須賀神社を訪ねたときに由緒書に出てきた女性です

 藤原 得子(ふじわら  なりこ、(1117年~1160年)、父は藤原長実。美福門院(びふくもんいん)は鳥羽天皇の譲位後の皇后。近衛天皇の生母。近衛天皇は17歳で死去。若くして亡くなっている。

美福門院は鳥羽天皇の間に 女、女、男、女 の順に子供を産んでいる この第3子の男の子が 近衛天皇である。2番目の女の子は八条院 

鳥羽天皇には美福門院より先に待賢門院(1101年~1145年)という皇后がいた待賢門院には7人(5男2女)の子供がいたから話が複雑になってくる。美福門院は16歳も若い

 

鳥羽天皇は美福門院に気を移したので美福門院の権勢が強くなっていった

 ここらあたりは日本の歴史に関わる話になってきます。

1141年待賢門院の息子・長男が天皇(崇徳天皇)であったが美福門院の息子が天皇(近衛天皇)になった スムーズにはいかなかったのだろう

事件が起こったり、うわさが流れた

美福門院24歳  待賢門院 40歳

美福門院この頃から息子が亡くなるまでは絶頂期だったのだろう

墓所は 高野山

関連記事  ➡  娘  子内親王 陵

           息子 近衛天皇火葬塚

           二条天皇   二條天皇香隆寺陵 23歳で亡くなる  

 

 

  


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瀬戸内寂聴  現在活躍中

2015年03月15日 02時44分51秒 | 京で燃える女性たち

京で活躍している人物・京で燃えた人物を取り上げていきましょう  女性中心

第1番手は この人 現代人です 瀬戸内寂聴  現在活躍中 

 

 


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