アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

寺院滋賀0211  等正寺  蓮如上人御舊跡  堅田源兵衛の首

2016年10月31日 20時21分48秒 | 寺院

 

等正寺は三井寺別院の1つであったが、蓮如上人の旧跡で、堅田源兵衛の首が安置されていることで知られている。堅田の漁師源兵衛は、浄土真宗中興の祖蓮如が法難を受けた際に、三井寺に宗祖親鸞の真影(木像)を預けられた。返却を請うと、三井寺は引き換えに生首を2つ持って来れば返すと言った。熱心な浄土真宗門徒であった源兵衛は取り戻すため、自らの首を父親に刎ねさせ差し出したという。源兵衛の首は今も祀られている。源兵衛の首は、小関町の等正寺、本堅田の光徳寺、三井寺町の両願寺に今も祀られている。光徳寺の境内には、親子の銅像もある。

 

蓮如上人 御舊跡

 

三井寺・・・所  等正寺

 

関連記事  ➡  寺院滋賀0208  両願寺  三井寺南別所

寺院前回の記事  ➡  寺院滋賀0210  新光寺  天台真盛宗  霊雲山

今日の川柳

主治医から老化と言われほっとする  /芦田

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神社伏0076-6 御香宮神社6  北参道入口 ・ 末社など

2016年10月31日 06時09分19秒 | 神社

 

神馬

菊姫

弁財天

 

 

義経の母として知られる常盤御前。彼女は、源氏の頭領・源義朝の目に留まり、牛若(後の義経)を含む3人の子をもうけました。以外にも、常盤に関する文献はほとんど残っていませんが、常盤に関するこの伏見には2つあります。

 

その1つが「常盤井」 平治の乱で義朝が敗れると、常盤は3人の子を連れて京を後にします。一説によると、その途中で足を休めたと言われる井戸が「常盤井」で、大和街道沿いの常盤町にありました。いつしか井筒の石のみが残されていましたが、昭和初期に由緒あるものとして御香宮神社に寄進されました。そして、昭和36年、神社の整備工事に伴い、神社内の弁天社前の石橋に転用されることとなりました。

 

 

御大典記念   鳥居  参道  改築 

 

松尾社

 

 

東照宮

 

安政5年(1857)

 

北門

 

 

ユニークな書体だ 

 

明治14年6月9日 

前回の記事  ➡  神社伏0076-5 御香宮神社5  拝殿  名水・御香水

次回の記事  ➡  御香宮7

 


まち歩き滋賀0215  小関越  滋賀~峠~藤尾

2016年10月30日 19時05分00秒 | まち歩き

峠に さしかかりました

 

急ではないが 上り坂が続きます

 

結構 車両の通行が多いと感じます

 

峠付近 案内板

 

峠を越えて 京都側に下ってきたところ

まち歩き 前回の記事 ➡  まち歩き滋賀0214  琵琶湖疏水 鹿関橋 

今日の川柳

検査結果今日の運勢まず読んで /堀尾

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寺院滋賀0210  新光寺  天台真盛宗  霊雲山

2016年10月30日 09時25分55秒 | 寺院

 

天台真盛宗  霊雲山

寺院 前回の記事 ➡  寺院滋賀0209  三井寺 境内図  西国第14番

 

今日の川柳

生き方は下手だが笑顔ある暮らし /石神

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道標滋賀0071  小関越道標 ・ かたヽげんべゑのくび

2016年10月30日 07時58分24秒 | 道標

 

 

 

北国海道(西近江路)から別れて藤尾で東海道に合流する約5キロメートルの道は、かつて東海道の間道として利用され、小関越と呼ばれていました。この道標が立つのは、小関越から園城寺(三井寺)へ向かう道の分岐点にあたります。江戸時代中頃の建立で、高さは95センチメートルあります。

三面には「左り三井寺 是より半町」

「右小関越 三条五条いまく満 京道」 

「右三井寺」と刻まれています。

三井寺は西国三十三所観音寺巡礼の第十四番札所として多くの参詣者がありました。刻銘の「いまく満」は第十五番札所の京都今熊野観音寺のことで、この道が巡礼道であったことを示す資料ともなっています。昭和五十年(1975)1月、大津市の有形民俗文化財に指定されました。

大津市教育委員会 平成16年(2004)8月

 

右小関越 三条五条いまく満 京道

 

左り三井寺 是より半町

 

右三井寺

 

かたヽげんべゑのくび

吉崎御下向蓮如上人お泊り 4月17日

本願寺御抱所 別所山 等正寺

 

蓮如上人御舊跡  等正寺

 

かたヽげんべゑのくび

 

 

 

大正元年9月30日建設

 

道標 前回の記事  ➡  道標滋賀0070  三井寺観音道

 


神社伏0076-5 御香宮神社5  拝殿  名水・御香水

2016年10月30日 06時54分17秒 | 神社

 

拝殿

寛永2年(1625)徳川頼宜(紀伊藩祖)が石鳥居とともに寄進したと伝わる。中央の一間をひらいて通路とする割拝殿で、正面の唐破風下には太閤桐をあらわした蟇股があり、軒廻りの蟇股にもさまざまな花鳥を彫刻している。伏見城の車寄を移したといわれるが、一説にもと古御香にあったのを移したともいわれている。

 

 

 

 

 

向こうに見えるのが

本殿

慶長10年(1605)徳川家康の再建と伝わる。合計九柱の神を祀る。

 

 

御香水

 

 

 

御香水

今から1100年前、平安時代の貞観4年(863)9月9日、境内から水が湧き出しよい香りが四方に漂い、この水を飲むと病気がたちまち癒りました。この奇瑞により、清和天皇から「御香宮」の名を賜りました。井戸は明治時代に環境の変化により、涸れてしまいましたが、昭和57年の春に復元、昭和60年には、歴史と由緒があり地場産業である酒造りと結びつきが深く、水量も豊富で保存管理がよいことから、環境省「名水百選」に認定されました。

汲みに来る人が多い。

 

石庭

元和9年7月(1622)小堀遠州が伏見奉行になり庁舎の移転新築を命ぜられた。そこで遠州は得意の造園の腕を揮ひ、数奇を凝らし風雅を盡した立派な庭園を造った。寛永11年上洛した三代将軍家光ここに迎へた時、そのあまりにも立派なのに感嘆して禄高五千石を加増され、茲に一躍大名に出世した。

明治維新になり奉行所が廃止されその跡に工兵隊が出来た時、庁舎は勿論その庭園も取りつぶされて、僅かに小さい池と築山だけが残っていた。それが終戦後国道24号線に依り取り拂われることになったので、その庭石の拂い下げを受けて、ここに新たに造園したのである。その中に文明9年(1477)の銘のある珍しい見事な手水鉢がある。又、後水尾上皇から「所からの藤」と仰せられた銘木とその由緒を誌した石の碑も共にここに移した。

この石庭は遠州流の手法を現代的に生かした枯山水で中根造園研究所長 中根金作氏の作庭にかかる。

 

 小堀遠州  ➡   人物006  小堀遠州 

前回の記事  ➡  神社伏0076-4 御香宮神社4 明治維新碑  

 次回の記事  ➡  御香宮6

   神社 前回の記事  ➡  神社山0075  蝉丸神社

今日の川柳

達筆で読めない文字が悩ましい  /岡本


石鳥居240基  明治26年建立  灯籠に 天満宮とありました  滋賀

2016年10月29日 08時41分48秒 | 石鳥居

 

拝殿 本殿は すぐ近くになさそうです

 

灯籠に 天満宮 らしき 文字が見える

 

明治26年5月 建立

石鳥居 前回の記事  ➡  石鳥居239基   京都大神宮


神社伏0076-4 御香宮神社4 明治維新碑  

2016年10月29日 06時12分28秒 | 神社

 

 

明治378 戦没記念碑

 

明治378年戦役 伏見町 堀内村 向島村 深草村 字大亀谷 忠死軍人紀念 姓名表

 

 

 

 

拝殿を見る  右は手水舎

 

 

 

武運長久  と書かれた 石燈籠 

 

 

 

明治維新 伏見の戦跡  内閣総理大臣 佐藤栄作 書

慶應3年12月9日 王政復古が渙発せられるや、京洛の内外は物情騒然として朝幕の間に一触即発の険悪な空気が漲ったところが7日の明け方当社の表門に徳川氏陣営と書いた大きな木札が掲げられた祠官三木善郷は早速社人を遺して御所へ注進すると翌日薩摩藩の吉井孝助(吉井勇の祖父)が来てこの札を外しここに部隊を置いたやがて年が明けて慶應4年正月2日徳川慶喜は大軍を率いて大阪より上洛せんとし、その先鋒は翌3日の午後伏見京橋に着いた。

そこでこれでこれを阻止せんとする薩摩藩との間に小ぜり合いが起こった。その折しも鳥羽方面から砲聲が聞こえてきたので、これをきっかけに当社の東側台地に砲兵陣地を布いていた大山弥助(後の元帥大山巌)の指揮により御香宮と大手筋を挟んで目と鼻の先にある伏見奉行所(現在桃陵団地)の幕軍に対し砲撃を開始した。これに対し土方歳三の率ゐる新選組は砲撃の火蓋を切って應戦し、一方久保田備中守の率ゐる伝習隊は官軍の前衛部隊を攻撃して奇効を奏し官軍を墨染まで撃退した然し翌4日官軍総裁に任じられた仁和寺宮嘉彰親王は錦の御旗を翻して陣頭に立たれたので官軍の士気大いに振ひそのため幕軍は淀に敗退した。一方鳥羽方面の官軍も一時苦戦に陥ったが錦の御旗に志気を盛り返し幕軍を淀から更に橋本に撃退し、遂に幕軍は大阪に敗走した。

かくて明治維新の大業はこの一戦に決せられたのである。即ち我国が近代国家に進むか進まぬかは一に繋ってこの一戦にあったのである。この意味において鳥羽伏見の戦は我が国史上否世界史上まことに重大な意義を持つわけである。

 

 

大政奉還の後,大坂城に待機した徳川慶喜(1837~1913)は反撃ため上洛を決意し,慶応4(1868)年正月3日,鳥羽と伏見の二方向に分かれてに京都に進軍した。伏見の守備は薩摩藩将兵800人がこの地御香宮を中心に固め,幕府軍は会津藩を主とした1500人が伏見奉行所等に入り対峙した。この石標は,翌年まで続く戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見戦の跡を示すものである。

明治百年記念

奉納   御祭神壱千七百年祭奉賛会

 

 

 

大正11年  建立

 

 明和9年(1771)

 

拝殿

寛永2年(1625)徳川頼宜(紀伊藩祖)が石鳥居とともに寄進したと伝わる。中央の一間をひらいて通路とする割拝殿で、正面の唐破風下には太閤桐をあらわした蟇股があり、軒廻りの蟇股にもさまざまな花鳥を彫刻している。伏見城の車寄を移したといわれるが、一説にもと古御香にあったのを移したともいわれている。

前回の記事  ➡   神社伏0076-3 御香宮神社3  道標 車石 東参道

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 神社 前回の記事  ➡  神社山0075  蝉丸神社

 

 

今日の川柳

 

その口はサヨナラを言うつもりだわ  /西川

 

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寺院滋賀0209  三井寺 境内図  西国第14番

2016年10月28日 10時41分08秒 | 寺院

 

 

 

寺院 前回の記事  ➡ 寺院滋賀0208  両願寺  三井寺南別所

 

今日の川柳

ストレスも一緒にむしる草むしり  /神野

 

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まち歩き滋賀0214  琵琶湖疏水 鹿関橋 

2016年10月28日 08時15分40秒 | まち歩き

疏水の文字

 

 

昭和3年10月

 

  

旧鹿関町

その昔、三尾神社の祭神である伊弉諾尊が、この辺りに天より降臨した時、一匹の鹿がその先導を務めたところから、「鹿先来」の地名は起こりのち鹿関と改めたと伝えられます。

 

かせきはし  のつもりですが  

かせきこ  と読める

 

 

 

凝った造りの橋です

疏水 前回の記事  ➡  まち歩き滋賀0213  琵琶湖疏水 第1トンネル 東口  伊藤博文の扁額 

まち歩き 前回の記事  ➡  まち歩き滋賀0213  琵琶湖疏水 第1トンネル 東口  伊藤博文の扁額 

 

今日の川柳

いつ見ても絵になる男わが夫  /小倉

 

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神社伏0076-3 御香宮神社3  道標 車石 東参道

2016年10月28日 06時54分33秒 | 神社

伏見城残石 

 

道標

南   右   上醍醐黄檗道  

左   大坂舟のり場

 

東 右   京大津道

 左   奈良宇治   

 

 

 発起

    山城屋弥兵衛

 

弘化四丁未年八月 (1846年)

 

竹田街道の車石・車道

この石列は、京都旧東塩小路村の竹田口から竹田村を経て伏見を結ぶ竹田街道(竹田車道)の棒鼻付近に敷き詰められた石の一部で、車石(輪型石・輪石)と呼ばれている。

車石は、竹田街道以外に、京都~大津間の京津街道や京都~下鳥羽の鳥羽街道(大阪街道)に敷設されていた。絵図Ⅰのように二列に敷かれた車石の上を、米や薪、炭、材木をはじめ多くの物資を積んだ牛車が京の市中へ運んだ。

車石は、東洞院通七条から、延々と伏見町内まで敷設されており、単線のため、午前中は上り、午後は下りと一方通行になっていた。

この区間は、京都市中の小河川が集まる低湿地帯で、雨でも降れば土道である街道はぬかるみ、牛車の車輪がぬかるみに取られてスムーズに通ることができなかった。そこで、車輪の通るところに、板を敷いたり石を敷いたりして、牛車を通りやすくした。その後、規格化された敷石(車石)をレールのように二列に敷き並べた。車道は、通行人の安全確保から、人や馬の通る道より一段低いところに設けられていた。梅雨や台風の時期になると、川の水があふれ、車道に水が流れ込み、絵図2に見られるように小川のようになることが多く、竹田街道の風物詩となった。

鴨川を横切る所では、重量のかさむ牛車は橋を通ることができず川中を通った。車石に残る深い轍の跡は、往時の牛車の交通の激しさを物語っている。(なお、車石の溝のでき方については、車の通行によってできたとする説、初めから浅く彫ったとする説がある。車石敷設の時期や、伏見の町に入ってからの車道のルートやどこまで敷設されていたかのか、ついては諸説あり、まだまだ研究の余地がある。)

(車石は、今も竹田街道、鳥羽街道沿いの民家に残されており、江戸時代の交通の様子を知る貴重な文化財となっている) (石材は、竹田、鳥羽街道は、摂津芦屋あたりの六甲花崗岩と山城笠置あたりの柳生花崗岩が使用されている。下の車石は、六甲花崗岩製である。)

これらの車石は、小谷一夫氏(伏見区)から寄贈されたものである。(資料提供 車石・車道研究会)

平成20年 10月吉日 御香宮

 

※ 絵図2 竹田の分かれ道  文久元年(1861)

※ 絵図1  竹田街道(旧塩小路付近、想像図 車石・車道研究会) 安政年間正行院額絵を参考に作図、車道・車石が分かるように作成した想像図

 

絵図 竹田河道・竹田の分かれ道 淀川両岸一覧  文久元年(1861)

 

車道 

 

 

 

東参道 入口

 

 

 

 

昭和34年4月10日

皇太子殿下御成婚 奉祝記念

奉納 伏見 西浜  樋口利三郎

 

 

文化13年(1815)

 

 

車石 ⇒ まとめ005 車石 のあるところ

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  神社 前回の記事  ➡  神社山0075  蝉丸神社

今日の川柳

飛びついて来るわが友は一年生  /亀谷

 


寺院滋賀0208  両願寺  三井寺南別所  

2016年10月27日 08時21分25秒 | 寺院

三井寺南別所

ひらかなは 何と書いてあるのでしょうか

か た  げ  ん  べ  ゑ  く び て ら

 

殉教者 堅田源兵衛の首が安置されている。堅田の漁師源兵衛は、浄土真宗中興の祖蓮如が法難を受けた際に、三井寺に宗祖親鸞の真影(木像)を預けられた。返却を請うと、三井寺は引き換えに生首を2つ持って来れば返すと言った。熱心な浄土真宗門徒であった源兵衛は取り戻すため、自らの首を父親に刎ねさせ差し出したという。源兵衛の首は今も祀られている。

 

 

 関連記事  ➡  寺院滋賀0211

寺院 前回の記事 ➡  寺院東0207  金剛寺 浄土宗

 

今日の川柳

彼女とは友達のまま鰊そば  /桒原

 

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まち歩き滋賀0213  琵琶湖疏水 第1トンネル 東口  伊藤博文の扁額 

2016年10月27日 06時20分13秒 | まち歩き

 

第1トンネル東口

琵琶湖疏水は、大津市三保が関で取水し、三井寺の山下を通り、京都市蹴上へと流れる人工の水路です。延長約9キロメートル。京都市の飲料水、発電、物資輸送、農業用水など多目的利用のために立案されました。

第1疎水は明治18年(1885)、青年技師田邉朔朗の指導のもとに着工、同23年に開通。第2疎水は明治45年(1912)に完成。工事が国家的レベルの事業であったことを示すように、隧道の各洞門には伊藤博文を始めとする著名人が揮毫した扁額が掲げられています。桜シーズンに見られる水と桜による美しい風景が評判です。

 

第1トンネル入口部の扁額

文字 氣象萬千(きしょうばんせん)

揮毫者 伊藤博文

意味  様々に変化する風光はすばらしい

扁額の上部には゛SAKURO TANABE DR ENG ENGINEER-IN-CHIEF WORK COMMENCED AUGUST  1885 COMPLETED APRIL 1890゛(主任技師の田邉朔朗工学博士によって、1885年8月~1890年4月の工事で完成したものである)の文字が刻まれています。

琵琶湖疏水は、明治維新で東京に都が移り、活気を失っていた京都の復興を目指して、明治18年(1885)に建設を始め、明治23年(1890)に第1疎水が完成しました。

疎水の水は、水車動力、舟運、灌漑、防火などに使われ、さらに日本初の事業用水力発電に用いられました。生み出された電力によって、工業が発達し、日本初の電気鉄道が走るなど、京都はにぎやかさを取り戻していきました。琵琶湖の豊かな水を引いたことは、京都の発展をもたらしたのです。

多くの恵みを京都にもたらした琵琶湖疏水は、今も水道や発電などの水として、市民の生活を支える源となっています。

建設当初3つのトンネルがあり、各出入口には明治の元勲が文字をかいた扁額が掲げられています。

前回の 琵琶湖疏水  ➡  まち歩き滋賀0212  琵琶湖疏水 大津閘門

まち歩き 前回の記事  ➡ まち歩き滋賀0212  琵琶湖疏水 大津閘門

 

今日の川柳

友来るおいしい酒をぶら下げて  /成田

 

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