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寺院八幡0579 神応寺 曹洞宗  重要文化財

2019年12月11日 12時01分47秒 | 寺院

 

 

 

 

神応寺

石清水八幡宮を創った行教律師が、貞観2年(860)応神天皇の牌所として一宇を建立し、応神寺と号したが、のちに天皇にはばかり、神応寺と改めたと伝わる。はじめは四宗兼学の道場であったが、中世に禅宗となり、今は曹洞宗になっている。

文禄年間(159296)朝鮮出兵にあたって秀吉は神功皇后の三韓侵略にあやかって石清水八幡宮に詣うで、軍の先鋒にと八幡宮の神官の参加をのぞんだが、神社側はおそれをなして命に服さなかった。秀吉は大いに機嫌を損じたが、神応寺の住職が「出兵の首途にはまず応神天皇の御寺に参詣されるべきである」ことを進言したので秀吉の機嫌がなおったといわれ、このとき秀吉は寺領200石を寄進したとつたえる。

 

また、京阪八幡市駅近く、石清水八幡宮の門前に、絲杉山神応寺という寺があります。

 

860年、石清水八幡宮を勧請し建立した奈良大安寺の僧行教により、応神天皇の霊を祀る寺として建てられました。

 

この寺の12世弓箴善僵(きゅうしんぜんきょう)は、豊臣秀吉に命ぜられて神応寺の住職になりました。秀吉とは同郷とのことです。この住職と秀吉との間にこんな話が残っています。

 

1592年、秀吉が朝鮮出兵に際し、石清水八幡宮に参詣し、神官に従軍を求めました。ところが戦場に行くことをおそれて応ずる者がなく、秀吉の怒りをかいました。

 

このとき、神応寺の住職の気転で、神功皇后の三韓征伐にあやかるのであれば、応神天皇をまつる神応寺に参詣するのがよかろうと進言。秀吉はきげんをなおして寺領120石を寄進したとのことです。この石高は江戸時代になっても続けられました。住職は、秀吉の朝鮮出兵に際して、九州の名護屋までお供したことが寺の記録に残されています。


本堂・堂内には本尊薬師如来と日光・月光像を安置し、傍らに秀吉の束帯像を安置する。

開山堂・行教律師座像(重文・平安時代)はもと石清水八幡宮にあったのを明治になって移したものと言われる。

書院・伏見城の遺構とつたえ、狩野山雪の筆とつたえる障壁画がある。

境内の墓地には江戸初期の大阪の豪商 淀屋の墓、淀屋辰五郎の墓がある。

平成29年(2017)12月9日 撮影

 

 

徳川家の位牌

智慧 文殊菩薩

本尊 薬師三尊佛


開山 行教律師之像

 

行教(ぎょうきょう)

 

奈良にある大安寺の僧で、平安時代男山に八幡神を移し石清水八幡宮創建に力を尽くしました。

 

859年(貞観元年)、聖和天皇の時代に、宇佐八幡宮にお参りした行教は、「都の近くに移り国を護る」とのお告げを受けました。そして都へ向かう途中、八幡神の意志にしたがい男山山頂に神をまつることにしました。

 

神応寺には行教の像が安置され、国の重要文化財に指定されています。



豊臣秀吉の像

淀君 茶室の庭石

 本堂には 衣冠束帯姿の秀吉の像がある


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