アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数4600 ミニ・テーマで京都をめぐります 随時記事更新中

寺院右0445  龍泉庵  妙心寺 塔頭

2018年04月20日 09時00分24秒 | 寺院

 

 

 

文明13年(1481)細川政元が景川和尚を開山として建立した塔頭の1つで、妙心寺4派本庵の1つである。

寺宝の長谷川等伯筆の紙本墨画「猿猴図」二幅(重文・桃山時代)は、ひょうきんな猿を活写した等伯画中の代表作といわれる。

寺伝によれば、本画はもと加賀国小松藩主前田利長の所有であったが、ある夜猿の所有であったが、ある夜、利寿が睡眠中、画中の猿が腕をのばしてその髪をつかもうとしたので、利寿は刀で猿の腕を斬ったという。それより、「腕切りの猿」と賞するに至ったという。

 

関連記事 ➡  まとめ024  妙心寺

寺院 前回の記事 ➡  寺院右0444 慈雲院  妙心寺 塔頭

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寺院右0444 慈雲院  妙心寺 塔頭

2018年04月19日 09時52分38秒 | 寺院

 

関連記事 ➡  まとめ024 妙心寺

寺院 前回の記事 ➡ 寺院右0443 妙心寺 三門

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寺院右0443 妙心寺 三門

2018年04月18日 18時08分21秒 | 寺院

 

重文・桃山時代は「山門」とも表す。三門・空門・夢相門・無作門。これを三解脱門といい、求道者が涅槃に入る三種の方法を象徴した門。禅宗寺院のシンボル。

人里から遠い山林中に営まれから、山門の名が生まれた。

五間三戸、重層、屋根は入母屋造り、本瓦葺。階下左右に山廊がある唐様建築で、慶長4年(1599)の建造である。上下のつり合いもよく、上の反りが強い。上層正面はすべて桟唐戸とし、儀式の時は開放される。6月18日と7月15日。

6月18日は観音懺法会

7月15日は山門施餓鬼が行われる

内部には中央須弥壇上に宝冠をつけた観音菩薩像をはじめ十六羅漢像を安置し、鏡天井や柱等には狩野権左衛門の筆で極彩色の雲竜や天人を描いている。

 

 関連記事 ➡  まとめ024 妙心寺

寺院 前回の記事 ➡ 寺院右0442 妙心寺 勅使門

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寺院右0442 妙心寺 勅使門

2018年04月17日 08時41分56秒 | 寺院

 

重文・桃山時代  下立売通に面して建つ 切妻造り、檜皮葺の四脚門で、慶長15年(1610)総門として建立された。蟇股には桃山時代の特色をあらわす雄大な彫刻がある。門前の石橋(桃山時代)は、同じく慶長15年対馬守藤原国久が総門橋として造った旨をしるした銅製擬宝珠がはめ込まれている

 

 寺院 前回の記事 ➡  寺院左0441 釈迦堂の境内 掲示物 釈尊

 

 関連記事 ➡  まとめ024 妙心寺

        まとめ008  京都の石橋

 

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寺院右0003  悟眞寺・應攀寺 (ごしんじ・おうきょでら) 浄土宗

2018年04月14日 15時24分14秒 | 寺院

2018年4月12日の記事

終南山 悟眞寺

 

幽霊画といえばすぐ連想するのが円山応挙だが、本命は想像画より自然を克明に写生する写実画で、梅花、鳥獣の中には現代でも傑作といわれるものが多い。

香川県金毘羅宮の障壁画などが有名。

応挙は享保18年(1733)5月、丹波国桑田郡穴太村(今の亀岡市曽我部)の農家に生まれた。幼名は岩次郎。幼少より画を好み、17歳のとき、絵の武者修行をこころざし放浪の旅に出た。その途中、兵庫県城崎郡香住町の名刹・大乗寺(俗称・応挙寺)の密英上人に頼まれ絵を描いた「君は画才はあるが、我流はダメだ。立派な師を見つけよ」とさとされ、京都に出て石田幽汀の門に入り、画法を学んだが、特に写実主義に傾倒し、三井寺円満院門主の知遇を得て、江戸時代後期の画壇に独自の写生画風を大成した。四条通に面した南側が応挙の宅址にあたる。若い頃近くの四条道場金蓮寺の境内に借家住まいをしていた。応挙は門人千名といわれ、呉春の四条派と京都画壇を二分する流派・円山派を成した。

画界ではトップクラスの彼も名誉と金銭には無欲で、性格もあけっぴろげ。家の戸も四六時中あけ放し、夏の夜など近所の人たちが応挙の家をたずね、酒杯をかわしている。

安永6年(1777)、祇園の八坂神社に奉納するついたての絵を頼まれ、ニワトリの雄と雌を描いた。奉納されると評判となり、大勢の人が見に来ていたが、その中でいなかの老百姓が「この画家はニワトリの季節を知らんようじゃ」とつぶやいたのを聞いた応挙はその老人にニワトリの羽毛が季節によって変化するもようを学んだ。ついたては今も八坂神社に保存されている。

曲亭馬琴の『著作堂一夕話』によれば、あるとき鞍馬の老翁が訪ね来て、応挙の描いた猪の寝姿の図をみて、病気の猪であることを指摘した。そこで先日写生した八瀬村を訪れて調べると、その猪は写生した翌日に病死していることがわかったので、改めて健康な猪に書き替えたという。

また応挙が若いとき、馬が草を食べている図を描いたが、一老翁がこれをみて「この馬は盲馬である」という。応挙が訳をきくと、馬は草を喰うときは、草で眼を傷つけるのを恐れて眼を閉じるものだ。この馬は鼻づらを草むらの中に入れ、しかも眼をあけている。これは明盲の馬だろう。」といったので、絵を描きなおしたという。

応挙は四条堺町に住んでいたが、寛政5年(1793)病にかかり、間もなく回復したが、その後は歩行の自由を欠き、視力も衰えた。それにも拘わらず、毎年伏見の梅溪(うめだに)(現伏見区桃山)に梅見に行くのを楽しみにしていた。亀山候依頼の名作「保津川図」を描いて間もなく、寛政7年(1795)7月17日、63歳で没した。遺骸を悟真寺に葬ったのは、応挙が以前に下宿していた先斗町の一文字徳右衛門の縁故によるものと思われる。法名「円誉無三一妙居士」 墓銘には「源応挙墓」と刻されている。子の応瑞、孫の応震らの墓もともに並んでいる。悟真寺はもともと四条大宮西入りにあったが、昭和26年太秦の地に移転し、応挙の墓も移された。また、横綱・谷風梶之助と競った画界と角界の腕くらべなどの話題がある。

出身の亀岡市曽我部町穴太の金剛寺は少年期を同寺で過ごした。

毎年文化の日に作品公開が行われている。

 

応挙の墓

明治の建立

 

左から

応誠、応震、応誉、応瑞、応立 の墓

円山応挙 誕生地 と書かれています

円山利一

明治44年7月

源応挙 相続人 

 

2015年2月26日の記事

円山応挙 一族の墓のある寺だが  ここは、幼稚園だ 入り口がわからない

悟眞寺はもともと四条大宮あたりにあったのだが、

昭和26年にこの地に移転した来ている

墓も一緒に移転したのだろう

 

兵庫県 香住町 大乗寺が 応挙の寺として作品などがあり 有名だ

 関連記事  ➡  まとめ023  円山応挙

前回寺院記事 ➡  寺院右0002  広隆寺 (こうりゅうじ)   「太子さん」とも言われている  

次回寺院記事 ➡  寺院右0004 西光寺 (さいこうじ)  門が茅葺だ  浄土宗  

 

 


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寺院左0441 釈迦堂の境内 掲示物 釈尊

2018年04月08日 06時21分52秒 | 寺院

 

1 太子誕生

今から2500年ほど前、ヒマラヤの麓のカピラ国の浄飯王と后摩耶夫人との間に誕生されました。その頃カビラ城近くに住むアシタ仙人は、太子誕生にまつわる数々の奇瑞に驚き、太子に拝謁を願いでて抱かれる太子を拝し、はらはらと涙します。「なぜ泣くのか」とたずねると、仙人は「この方は王位につけば仏陀となられる方です」と予言しました。

釈迦伝2 宮殿の生活

ご成婚後、太子は平和な生活を送られた。夏・冬・雨期の3つの宮殿がもうけられ、蓮の池には水をたたえ、庭園には青・赤・白と色とりどりの華が咲きほこり、入浴には4人の侍女がお世話をし、身には栴壇の香をぬり、新しい絹の衣裳をつけ、歌と舞と酒とご馳走の享楽をほしいままにしました。太子はこの栄華の生活に対し「この生活は自分にとってどんな意味を持つのであろうか・・・」と反省され、沈うつな日を重ねるようになってゆきます。

 

3 苦行

世の無常をまのあたりに見た太子は、周囲の人々の言も聞かず出家します。出家修行の旅に出た太子は、真の道が得られぬまま6年間の苦行の生活に入ります。風雨や雷にもめげず、毎日毎日黙々として善定をおさめます。体はみるみるやせ衰え、手足は枯れた葦のようになります。それでも苦行はすべて解脱への道ではないことを悟ります。太子は新たな道を求めるのでした。

釈迦伝4 降魔

太子の成道が近づきました。魔王はあらゆる手段で成道を邪魔します。薄い羽衣をつけた妖艶な魔女3人を近づけ、媚能の限りを尽くし、太子の心を乱そうと企みます。また悪鬼夜叉らがキバを出し、鉾をかざして迫ります。太子は毅然として説法します。たちまち魔女は老婆と化し、悪鬼夜叉は恐れ戦き逃げ去りました。

釈迦伝5 釈尊の成道

降魔の襲来をしりぞけた太子は、心の平和をとりかえし、平等の思いにひたります。過去の宿世を想い起こして、初めに第一の智慧を悟ります。次に生死の相を知る第二の智慧を体得します。次に煩悩を滅ぼし尽く解脱して、「なすべきことは終わった。再び迷いの生を受けることはない」と悟ります。この時、大地は歓喜に震え、神々は天華ら降らせ、天楽を奏でて讃歓します。こうして太子は、世界の人々の供養を受けるにふわしい人、正しい悟りを得た人、即ち仏陀となります。時に35歳、12月8日の明けの明星がきらめいていました。

尼連禅河のほとりの菩提樹の下で、太子は「正覚を得た人」になられたのです。今後太子を釈尊と呼びます。釈尊は千余の弟子をつれて王舎城に入り、その郊外に留まっていました。釈尊を修業中から崇拝していたマガタ国の頻婆娑羅王はこの噂を聞き、多くの従者をつれて訪れ訪れ、説法を聴き、この地に永く留まって化導されんことを願い、王は城外の閑静な場所竹林園に精舎(寺)を建てて寄進したいと申し出ます。これが仏教の最初の精舎で、教団の発展もこれから軌道にのってゆくことになります。

 

寺院 前回の記事 ➔ 寺院左0440 釈迦堂 境内の掲示物 法然上人

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寺院左0440 釈迦堂 境内の掲示物 法然上人

2018年04月07日 06時12分56秒 | 寺院

 

九条武子の歌碑より

夫の帰りを待つ心情を、ひな鳥に託した武子。

山の院連子の端ににせきれいの

巣あり雛三つ母待ちて鳴く

 

武子は九条良致と結婚し、ともに渡欧したが、わずか1年で1人で帰国し、その後も夫の外遊は10数年続いたわといいます。夫の留守中に本格的に始めた歌の数々には、当時のわびしい心情や宗教的情操を詠み込んだものが多く、武子の作品を女性らしい情感あふれるものにしています。山寺の連子窓の端にある巣のなかで、親鳥の帰りを鳴きながら待っているセキレイのひなに、武子は自らの姿を重ねあわせていたのでしょう。

九条武子(1887~1928) 大正期の歌人。西本願寺・大谷光尊の娘で男爵九条良致の夫人。佐佐木信綱に師事し、仏教信仰による各種慈善事業活動でも有名。才色兼備の歌人として知られた。代表作に歌集『金鈴』『薫染』『無憂華』など。

 

法然上人ご修行地 清龍寺

法然上人

①  出生と父の遺言

浄土宗を開かれた法然上人は長永2年(1133)4月7日、美作国(現在の岡山県)でお生まれになられた。幼名を勢至丸と名づけられ、父の漆間時国はこの地の豪族で、母は秦氏の出身であった。9歳の時、父に、隣村の源内武者定明が率いる手兵に夜討をかけられ、深手をうけて亡くなった。父は「敵を恨んではならない。仇を討てば、その恨みはいつまでもつづく、どうか出家してすべての人が救われる道を求めてほしい。」と勢至丸に遺言した。勢至丸は父の遺言を胸に、母の弟にあたる菩提寺の観覚得業のもとで、仏道の修行を始められた。

② 比叡山での出家

 勢至丸の非凡な資質と才能を見抜いた観覚得業は、将来の大成を期して、比叡山で学ぶことをすすめた。勢至丸は、母との別離に悲しみをこらえ郷里を旅立たれた。

そして観覚得業の「文殊菩薩のように智恵のすぐれた勢至丸を弟子入りさせてください」という紹介状をもって、西塔北谷の持宝房源光のもとをたずねられた。15歳を迎えられ剃髪し、東塔の戒壇院で戒をさずかり、文字どおりの出家者となられた。 さらに皇国阿闍梨のもとで天台宗の学問を深く学ばれ、将来は天台宗の座主となるような器であると嘱望された。

③ 求道の生活

 仏道を学ぶことは、生死の迷いを離れるためであり、単なる知識としてうけとることではない 18歳になられた時、天台宗の戒を正しく伝えられている西塔黒谷の叡空上人を師と仰ぎ、仏道を主体的に実践する修行に入られた。叡空上人は「年少であるのに出離の志をおこすことは、まことに法然道理のひじりである」と絶賛され、法然房という房号を与えさらに源光と叡空との1文字づつを取って源空という僧名をさずけられた。

叡空上人の指導のもとに法然上人は報恩蔵の一切経を読破し、さらに人を救うため道を求め、きびしい修行を続けられた。

④ 浄土開宗と二祖対面

 長い求道の末、人間のあるがままの姿で救われる仏の教えを探し求められた。ついに承安5年(1175)春、43歳の時、唐(中国)の善導大師の「観経疏」という書・の「いつでも どこでも だれでも みほとけの本願を信じただひたすらに南無阿弥陀仏とお・・れば。必ず救われるという教えを確信され、浄土宗が開かれた

 善導大師と法然上人は歴史上1500年のへだたりがあるが、夢の中に感応道交せられて、これが世に有名な二祖対面である。

⑤ 大衆救済

 お念仏のみ教えによって、人々を救い得ると確信された法然上人は、比叡山を下られまもなく東山の吉水の地(現在の知恩院)に庵をむすばれて、都の人々を導かれた。たやすく実践できしかも勝れた念仏のみ教えが、老若男女の区別なく多くの人々に受け入れられた。その教えは、鎮西聖光上人、良忠上人、源智上人、証空上人、金光上人、親鸞上人など多数のすぐれた門弟によって全国に広がった。法然上人の主著としては『選択本願念仏集』があり、またご遺訓「一枚起請文」を残され、建暦2年(1212)1月25日 

80歳の生涯を終え極楽へ往生された。

 

関連記事 ➔  まち歩き左0728  大原女  彫刻

           ポスター0073  九絛 武子

           ポスター0020 如月の華  九条武子ものがたり

           まとめ021 九条武子

           まとめ022 法然上人

寺院 前回の記事 ➔ 寺院左0439  釈迦堂 比叡山

 


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寺院左0439  釈迦堂 比叡山

2018年04月06日 17時28分30秒 | 寺院

 

延暦寺転法輪堂(釈迦堂)一棟 

転法輪堂は、桁行七間、梁間七間、一重、入母屋造、とち葺形銅板葺の建物で、織田信長の焼打ち後、文禄4年(1595)に豊臣秀吉の命により、貞和3年(1347)頃に建てられた園城寺弥勒堂(金堂)が移されたもので、比叡山では最古の建築です。

天台仏堂の特色である外陣の床張り、内陣の一段低い土間となっていて型どおりのものですが、正面の柱間がすべて戸口(入口)になっていて珍しいものです。また、側面は前より2間が戸口、他は連子窓が板壁になっており、縁も正面と側面の一部についているだけです。昭和34年(1959)の解体修理によって、全体的におだやかな美しい姿に復元されました。

明治33年(1900)4月に国の重要文化財に指定されました。

大津市教育委員会 平成5年(1993)10月1日

転法輪堂(釈迦堂) 【重文】

転法輪堂は現在の西塔の中心をなす大堂で、ご本尊に釈迦如来を祀ることから、釈迦堂の名で親しまれています。延暦寺に現存する最古のお堂で、元は園城寺(三井寺)の金堂であったものを豊臣秀吉の命により、文禄4年(1596)に山上に移築したもので、造営年代は園城寺の記録から南北朝の貞和3年(1347)と認められます。

細部様式もその頃をよく現しており、根本中堂と同じく天台様式の典型で、内陣は土間中央に本尊を安置する宮殿を壇の上に設けています。

 寺院 前回の 記事 ➔ 寺院左0438 比叡山 椿堂

五七五

わが息子組み体操のてっぺんに /菱木

京菓子

かしわ餅 江戸時代から、端午の節供に用いられる菓子。小豆と味噌の二種類の餡があり、餡を入れた餅を柏の葉で包んだもの。柏の葉は「譲り葉」といい、新芽が出るまで古い葉を落とさないため、子孫繁栄を願ううえで縁起がよい。また、柏餅を包む手つきが神前でかしわ手を打つ姿に似ているので、武運を祈願する端午の節供にふさわしいとされる。

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寺院左0438 比叡山 椿堂

2018年04月05日 11時10分23秒 | 寺院

 

              

昔、聖徳太子が比叡山に登られた時に使われた椿の杖を此の地にさして置かれたところ、その椿が芽を出して大きく育ったという因縁から、此のお堂が椿堂と名づけられました。お堂の傍に、それに因んだ椿の大木があります。御本尊には千手観世音菩薩をお祀りしています。

 寺院 前回の記事 ➔ 寺院左0437 浄土院 最澄の御廟

五七五

長男の写真が少し多すぎる /小出

京の野菜

紫ずきん  黒大豆の枝豆が「紫ずきん」。大粒でこくと甘味があるのが特徴で、頭巾のようなかたちと、豆の薄皮が紫色をしていることからこの名がつけられた。平成7年に京のブランド産品としてデビューした。

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寺院左0437 浄土院 最澄の御廟

2018年04月03日 22時31分13秒 | 寺院

 階段を下りて行きます

 

伝教大師の御廟 ここき比叡山の開祖、伝教大師最澄上人のご廟所で、比叡山中で最も清浄な聖域です。

大師は一生を大乗戒坦院の独立に捧げられ、弘仁13年(822)6月4日中道院に於いて、56歳で入寂されました。弟子の慈覚大師円仁が、仁寿4年(854)7月この地に中国五合山竹林院を模してご廟所を建立し、大師の御遺骸を祀り、以来ご廟を守る僧侶を侍眞といい、一生山を降りない覚悟で昼夜を分かたず、厳しい戒律のもとに身心を清浄にして、生身の大師に仕えるように、今も霊前のお給仕に明け暮れしています。

またご廟前玉垣の辺りには、沙羅双樹と菩提樹が植えられ、極楽浄土の雰囲気がかもし出されています。

侍眞は、早暁より薄暮まで勤行と掃除勉学修行に励んで、12年間山を降りない籠山修行の内規に則って、生活しています。

 

別当 光定大師御廟 是ヨリ 一丁

関連記事 ➔  まとめ019 最澄 

寺院 前回の記事 ➔  寺院左0436 山王院堂 智証大師・円珍

五七五

躊躇なく白旗揚げる次男坊 /糸永

京の野菜

聖護院きゅうり 春きゅうりの一種で早生種。江戸後期、愛宕郡聖護院村(現在左京区聖護院)で促成栽培が広まった。香りが高く、味がよいので人々に好まれたが、明治以後は琵琶湖疏水工事で聖護院の耕地が荒廃し、一乗寺地区に移った。そこで改良が進み、改良型聖護院きゅうりと呼ばれて普及したが、昭和30年代に絶滅。近年、保存されていた種が見つかり、京の伝統野菜として新たに認定された。

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寺院左0436 山王院堂 智証大師・円珍

2018年04月01日 17時59分22秒 | 寺院

 

千手堂ともいい、智証大師円珍の住房址とつたえ、堂内には千手観音像を安置されている。

詳しくは法華鎮護山王院といい、第6祖智証大師円珍の住房で後唐院ともいった。千手観音を祀るので千手堂とか千手院の名でも知られるが、円珍座主の滅後百年、円珍派と慈覚大師派の学僧の間に紛争が起こり、円珍派はここから智証大師円珍の木像を背負うて大津三井寺(園城寺)へ移住したといわれる。このお堂は歴史上きわめて重要なお堂です。

関連記事 ➔ 墓所滋006 智証大師 廟所

       石仏山009  泉水町の三尊石仏

       寺院山0200  法厳寺 牛尾観音

       寺院西0156  三鈷寺 西山宗

       曼殊院 

 前回の 寺院 の記事 ➔ 寺院下0435  法順寺  真宗大谷派

五七五

子には子の人生だけど口を出す /久保

 

京の野菜

すぐき 紡錘形のおおきなかぶで、上賀茂を中心に洛北で広く栽培されている。三百年近い栽培の歴史を有し、糖度の高いかぶは天秤押し、室入れという特殊な技法で乳酸発酵により、調味料を使わず塩のみで京漬物「すぐき漬」となる。

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寺院下0435  法順寺  真宗大谷派

2018年03月20日 20時08分46秒 | 寺院

2017年4月 撮影

2015年10月 撮影

真宗大谷派   修復中 です

 寺院 前回の記事 ➡ 寺院北0434 招善寺 浄土宗

五七五

切りましょう医者はカルテを斜め読み /平田

京の味

普茶料理 350年ほど前に、宇治の黄檗山萬福寺を開いた明僧隠元禅師によって中国からもたされた。普茶料理は中国風を保っており、材料も他の精進料理と異なり、野菜や山菜の他に豚肉や鯉、牛乳などが用いられることもある。数人で卓を囲むスタイルも、中国料理の形式を残している。

 

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寺院北0434 招善寺 浄土宗

2018年03月11日 19時39分18秒 | 寺院

浄土宗 招善寺

 

三階建ての木造建築だ

寺院 前回の記事 ➡ 寺院右0433 智勝院  斎藤利三の墓がある

 

五七五

財布には電子マネーとはずれ券  /木口

 

京ことば ヤツス めかす。「エローヤツシて、どこへ」

おしゃれをする人をヤツシという。

 

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寺院右0433 智勝院  斎藤利三の墓がある

2018年03月05日 21時44分22秒 | 寺院

平成29年4月1日

 

妙心寺内 記事 ➡  まとめ024 妙心寺

関連記事 ➡  神社伏0118  稲葉神社

  娘の菩提寺は隣の塔頭に   妙心寺塔頭 麟祥院 は 春日局の菩提寺

          六条河原  昔は処刑場だった

寺院前回の記事 ➡  寺院右0432 妙心寺 境内図

五七五

百均で小さな夢を膨らます /内田

 

京ことば ハル 尊敬の意を表す。「もう会社へ行かハル

     「ご飯食べハルか」

      他に親愛の意もある。「ワンワン通らハル

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寺院右0432 妙心寺 境内図

2018年03月05日 12時38分28秒 | 寺院

 

 南門入って北を見る

 妙心寺内 記事 ➡  まとめ024 妙心寺

寺院 前回の記事 ➡ 寺院下0431  延寿寺  西山浄土宗

五七五

蝋梅に会いたくなって回り道 /岡本

京ことば ネブル(舐る) なめる。「あの猫、皿ネブルワ

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