冷泉天皇 皇后 岩倉陵
昌子内親王は朱雀天皇の皇女であるが、大雲寺の観音を深く信仰され、永観3年(985)この地に金色の六観音を安置した講堂をはじめ、五大堂・灌頂堂・法華堂・阿弥陀堂・真言堂の六堂宇を備えた壮大な観音院を建立された。長保元年(999)12月、55歳で崩御の後は法華堂に埋葬された。因って世に観音院太后と称する。
観音院はその後の大雲寺を代表する主要伽藍となったが、中世以降は寺運は衰微し、法華堂跡には新羅明神が祀られるに至った。これがために御陵は久しく不明になっていたが、明治17年(1894)に至って治定された。はじめ観音院陵と称し、のちに西坂本陵と改め、明治27年(1894)さらに現在の陵名に改められた。
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