アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

平安宮016 石碑  大学寮跡 30 

2019年09月15日 06時26分56秒 | 平安宮

令和元年9月15日  画像追加

平成30年4月29日撮影

東方向を見る 左は二条城

北方向を見る


平成31年1月29日 

大学寮は,平安時代の高等教育機関で式部省の管轄下にあり,大学頭以下の事務官,博士以下の教官,学生から成り立っていた。最盛期は菅原・大江氏に代表される平安時代前期で,後期には漸次衰退し,治承元(1177)年の大火で焼失した。

此附近   大学寮址

大正四年十一月建之   京都市教育会

寄附者   柏木亀蔵

 

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平安宮032  平安宮

2019年02月08日 05時47分07秒 | 平安宮

 

下の図は平安宮を南方上空から見た復元イラストで、現在の地図上にその位置を復元すると右図のようになります。平安宮跡には、国指定史跡の平安宮豊楽殿跡・平安宮内裏内郭回廊跡のほか、京都市指定史跡の平安宮造酒司倉庫跡があり、発掘調査などで重要遺跡が見つかった場所には、それぞれ説明板などを設置しております。

①       JR二条駅・ここは朱雀大路の真ん中西寄りに当たり、西には穀倉院や、右京職などがありました。

②       朱雀門跡は約300m北の千本通東側にあります。

③       朝堂院(大極殿)跡は千本丸太町交差点の北寄りにあって歩道上に「大極殿跡」の標示があり、千本通歩道にも小安殿や昭慶門の位置を示す標示があります。

④       史跡平安宮豊楽殿跡は、基壇北西部分を保存、石柱や説明版があります。

⑤       平安宮造酒司倉庫跡は、京都アスニー中庭にあり、床面に掘立柱倉庫跡を標示。中庭に説明板、建物1階には出土遺物の展示コーナーがあり、外壁も出瓦文様のタイルが貼られています。

⑥       大極殿遺址の石碑は、千本丸太町交差点北西の内野児童公園内に、建都1100年を記念して建立されました。この石碑は、大極殿の北回廊の上に建っています。公園南方入口にある銀行南東角にも説明板があります。

⑦       中務省跡は丸太町通と美福通交差点北側のマンション前に説明板があります。

⑧       史跡平安宮内裏内郭回廊跡は、下立売通南側に説明板があり、それより東が天皇の住まいの内裏となります。

⑨       蔵人所町屋跡は、下立売通北側の食堂前に石碑があります。

⑩       発掘調査で見つかった内裏の正門である承明門跡には石柱と駒札があります。

⑪       内酒殿跡からは、平安宮内で初めて大規模な井戸跡が見つかり中から年号木簡が出土しました。デイサービスセンター前に説明板があります。

⑫       聚楽第跡は、平安宮跡の西北域を含む一帯には安土桃山時代に豊臣秀吉が造営。ハローワーク西陣の発掘では、南北堀跡が見つかり金箔瓦(重要文化財指定)が大量に出土しました。

⑬       一条戻り橋は、三善清行の死と蘇生に関わる話、安倍晴明の式神の話、渡辺綱と鬼女の話のほか、千利休の木像磔など、様々な伝説や物語の舞台となりました。現在も一条通には橋が架かり、近くに駒札もあります。

⑭       晴明神社は、平安中期の陰陽家で天文博士の安倍晴明を主神とする神社で、若者に人気があって、参詣する人も多く、観光スポットとなっています。

⑮       京都市考古資料館では、平安宮跡をはじめ市内発掘調査の成果を分かりやすく展示しています。入館無料・月曜休館

 

 

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平安京031 蔵人所町屋

2019年02月07日 17時25分32秒 | 平安宮

 

蔵人所町屋跡は、下立売通北側の食堂前に石碑があります

 

 

 

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平安宮030 内裏内郭回廊跡 国指定史跡

2019年02月07日 05時47分08秒 | 平安宮

 

 

      史跡平安宮内裏内郭回廊跡は、下立売通南側に説明板があり、それより東が天皇の住まいの内裏となります。

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平安宮029 平安宮

2019年02月06日 14時00分28秒 | 平安宮

 

 

 

 

平安宮豊楽殿跡出土緑釉軒先瓦

西暦794年、桓武天皇の命により長岡京から遷都された平安京は、京都盆地のほぼ中央に東西約4.5㎞、南北約5.2㎞の規模で建設され、現在の京都市の市街地の原型はこの時より形づくられていきました。

右図は、平安京を北方上方から南を見て復元したイラストで、上方右に廃都された長岡京が見えています。手前(下方)には、建都の際に測量の基準になったとみられる船岡山があり、平安宮北西(手前右)には、桓武天皇ゆかりの常住寺(野寺)が見えています。

平安京北方には北山や船岡山(玄武)がひかえ、東に鴨川(青龍)、西には桂川と西国への街道(白虎)が通り、遥か南方には巨椋池(朱雀)があります。いわゆる四神相応の地である平安京は千年以上にわたって我が国の首都として、政治・文化・経済の中心をなし、日本の歴史の舞台となりました。

平安京は、九条大路にあった正門の羅城門をくぐると幅80m以上もある朱雀大路が南北に通って、天皇の住居である内裏や、政治の中枢施設があった平安宮(大内裏)へ続いていました。

朱雀大路の左右には邸宅が並び、公設市場である東・西の市、外国からの賓客をもてなす東・西鴻臚館のほか、退位した天皇の後院である朱雀院や、広大な園地を有した神泉苑などがありました。

平安時代、この駅前付近は柳並木のある朱雀大路が南北に通り、すぐ北方には平安宮の正門である朱雀門が見え、天皇や貴族、庶民のほか外国使節など多くの人達が、輿やや牛車に乗り、あるいは徒歩でここを往来していたのです。

 

平安京の北方中央には、大内裏とも呼ばれる平安宮があり、天皇の住まいである内裏や、現在の国会議事堂に相当する朝堂院のほか饗宴場である豊楽院や二宮八省(神祇官・太政官・中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省)など、国家の重要な政治機構が集中した場所でした。

 その規模は、東西1.14㎞、南北1.35㎞で、北は現在の一条通(一条大路)、南は二条通(二条大路)、東は大宮通(大宮大路)、西は御前通(西大宮大路)となります。

平安宮の中央に位置する朝堂院は、八省院とも呼ばれ、その正殿が大極殿で、屋根は美しい緑釉瓦で縁取りされていました。ここでは天皇の即位式や、正月に天皇が出御して百官と共に祝う朝賀の儀式、外国使節の謁見など、国家の重要な行事が行われました。

この朝堂院は、東西約200m、南北約470mもある大規模なもので、正門が応天門、その内部には東西に朝集堂があり、さらに会昌門をくぐって南北に広い内廷に入ると、各官庁の官人の座が設けられた12の堂がありました。さらに、北方の一段高くなった龍尾壇の左右には華麗な楼閣が設けられ、最も奥には豪壮華麗な大極殿が聳えていました。右図

この大極殿跡は、ここより北方約850mの千本丸太町交差点の北寄りにあり、発掘調査で判明した場所のいくつかを明示し、また交差点北西の内野児童公園内には大極殿遺址の石碑があります。なえ、岡崎公園にある平安神宮は、明治28年に、この朝堂院の12堂部分を省略し、約8分の5で再現されたものです。

朝堂院(八省院)復元図

下方にある「伴大納言絵巻」で焼けた応天門は、この図にある朝堂院の正門です。


 

平安宮豊楽殿復元図

豊楽院は正殿を豊楽殿とし、朝堂院の西隣にありました。国家饗宴の場であり、各種年中行事もここで行われられました。1987年に豊楽殿北西部が発掘調査され、現在史跡に指定されています。発掘の結果、豊楽殿の屋根は緑釉瓦で縁取りされ、北廊は当初には無く後に設けられたことが判明しました。(東面の写真4)

 

 

 

平安京は大路・小路に画された1辺約120m四方の「町」に分割されていました。太線で示した整備対象区域には、右京三条一坊の一~八町・朱雀大路・西坊城小路・皇嘉門大路・二条大路・押小路・三条坊門小路・姉小路・三条大路などが含まれます

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平安宮028 豊楽殿跡

2019年02月06日 06時44分39秒 | 平安宮

 

 

平安宮豊楽殿復元図

豊楽院は正殿を豊楽殿とし、朝堂院の西隣にありました。国家饗宴の場であり、各種年中行事もここで行われられました。1987年に豊楽殿北西部が発掘調査され、現在史跡に指定されています。発掘の結果、豊楽殿の屋根は緑釉瓦で縁取りされ、北廊は当初には無く後に設けられたことが判明しました。(東面の写真4)

 

     史跡平安宮豊楽殿跡は、基壇北西部分を保存、石柱や説明版があります。

 

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平安宮027  六町の園地跡

2019年02月05日 12時01分38秒 | 平安宮

 

六町の園地跡

六町の調査では建物や園地などが検出され、平安時代前期の貴族の邸宅跡と考えられます。池からは蓮・菱・松・梅・桃・桜など庭園にうえられていたさまざまな植物の種・み、紀年銘が記された題箋などが出土しました。

 

池跡出土の題箋

題箋とは表題や年次を記した巻物の軸です。この題箋には表に「□正倉帳」、裏面には「斉衡4年三條」とその左に小さく「戊戌□」と書かれていました。斉衡4年は西暦856年で

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平安宮026 右京職の建物跡 墨書土器

2019年02月05日 06時05分40秒 | 平安宮

 

 

右京職の墨書土器

右京職の調査では「籍所」・「右籍所」・「記帳所」など京職の部署名が墨書された土器が多数出土しています。

籍所や右籍所は、文献や古図にも例が無く、当時の行政組織を知るための具体的な手がかりとなる貴重な史料です。

 

池跡出土の題箋

題箋とは表題や年次を記した巻物の軸です。

この題箋には表に「□正倉帳」、裏面には「斉衡4年三條」とその左に小さく「戊戌□」と書かれていました。

斉衡4年は西暦856年で

京職とは平安京の左右に置かれ、各京の司法・行政・治安を担当した役所です。

三町中央から西部にかけての調査では、東西に並んだ礎石建物が見つかりました。

規模や配置から右京職の主要施設と推定されます。

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平安宮025  西坊城小路と三条坊門小路

2019年02月04日 17時54分53秒 | 平安宮

 

 

    西坊城小路と三条坊門小路

三町の右京職北西隅の調査では、築地塀や三条坊門小路と西坊城小路の交差点が発見されました。また、この調査では右京職の北側にあった穀倉院の一部も見つかっています。

 

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平安宮023 伴大納言絵巻 応天門 朱雀門

2019年02月04日 05時58分42秒 | 平安宮

 

国宝「伴大納言絵巻」「応天門炎上部分」12世紀

伴大納言絵巻は、清和天皇の貞観8(866)に、大納言伴善男が政敵である左大臣源信をおとしいれるため、朝堂院の正門である応天門放火事件(応天門の変)を起こして後に真相が判明し、かえって伴善男が逮捕され、遠流に処せられた政治的な陰謀事件の顛末を描いたものです。

ここに掲げてある場面は、放火された応天門が紅蓮の炎に黒煙を上げて燃えさかるさま(左端)を見ようと、平安宮の正門である朱雀門をくぐって駆けつけた役人、庶民らの様々な動きや驚きの表情を詳細に表現しており、絵巻最大の見せ場でもあります。この絵巻物は、建物のほか、公家から庶民に至るまでの風俗や人々の表情まで詳細に描いた、わが国の絵画史上を代表する第1級の資料であります。

なお、この絵巻に描かれた朱雀門は、ここより北へ約300mほどの所にありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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平安宮022 中務省 復元図 安倍晴明が働いていたところ

2019年02月03日 08時05分36秒 | 平安宮

 

 

①       中務省跡は丸太町通と美福通交差点北側のマンション前に説明板があります。

平安宮中務省復元図

中務省は内裏の南方、大極殿の東にあって、天皇を補佐し、勅命を宣下する重要な役所でした。東寄りの一角には陰陽家で天文博士の安倍晴明が所属していた陰陽寮(図の右下方)がありました。

 

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平安宮017 朱雀門 17

2019年01月30日 21時45分04秒 | 平安宮

 

 

 

 

 

平安宮 朱雀門跡

朱雀門(すざくもん)は、平安宮(大内裏)の南面大垣中央に設けられた宮城門である。柱間は7(梁間2)、中央5間に扉が付く二階門で、宮城12門の中でも最も規模が大きい。

朱雀大路に面する平安宮の正門であり、南は平安京の朱雀大路南端にあった羅城門、北は宮城内の応天門や大極殿と一直線上に並んでいる。

平安時代の終わりころ頃に描かれた国宝『伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)』には、炎上する応天門へ急ぎ駆けつける群衆とともに朱雀門が描かれている。その姿は、壇上積基壇の上に建てられた壮大な瓦葺き朱塗りの門で、5間戸の全面には階段が敷設されている。

朱雀門の造営当初の具体的な規模や、その後の変遷については、発掘調査例がなく不明である。ただ、千本通りで実施した朱雀門跡推定地における立会調査で、平安時代の整地層が確認されている。

なお、朱雀門の前面は広い儀礼の場となっており、毎年恒例の6月と12月の大祓とともに、斎内親王(斎宮)の伊勢群行や大嘗祭などに伴う臨時の大祓などが朱雀門前で行われた。また、寛弘4(1007)の藤原道長による有名な金峯山参詣の折にも、土御門第から朱雀門大路に出て祓(身を清める神事)を行い、羅城門()から平安京を出立しており、朱雀門前の広さを物語るエピソードとして興味深い。

このように、平安宮の象徴的な門である朱雀門も、承元2(1208)9月に火災に遭い、翌年再建されたが、構造的欠陥からか建暦元年(1211)に自然倒壊し、以後は二度と再建されることはなかった。

 

 北方向を見る

 南方向を見る

 

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平安宮019  高陽院跡

2019年01月30日 15時59分40秒 | 平安宮

 

 

 

 

 

 

 

後一条天皇行幸の様子を描いた駒競行幸絵巻(重要文化財・和泉市久保惣記念美術館蔵)

 

『駒競行幸絵巻』に描かれた高陽院。関白の藤原頼通が自邸に甥の後一条天皇(正面に裾が見える)を迎えて催した際の宴の様子(万寿元年・1024)。右手に座っているのが東宮・敦良親王(後の後朱雀天皇)。簀子宴(すのこえん)には美しい模様の裾を高欄に懸けた公卿らが居並ぶ。池には奏楽を乗せた龍頭鷁首(りゅうとうげきす)が浮かび、当時の貴族の華麗な遊びがうかがえる。

 

 

高陽院(かやいん)の庭園

当所は、宇治の平等院鳳凰堂を建立したことで知られる摂関・藤原頼道が平安時代中頃(11世紀)に造営した邸宅、高陽院跡です。

高陽院の敷地は4町(250m四方)に及び、他の貴族の邸宅の4倍もある最大級のものでした。当時の高陽院は寝殿造の邸宅の四周に2つの池と四季の庭を配し、「駒競行幸絵巻」に万寿元年(1024)の後一条天皇行幸の様子が豪華絢爛に描かれ、池に船を浮かべています。また、後朱雀・後冷泉・後三条・白河天皇の里内裏(内裏以外での天皇の住まい)としても使用されました。昭和63年9月に石田大成社本社ビルの建設工事に先立ち、京都市埋蔵文化研究所が発掘調査を行い、庭園の一部が見つかりました。庭園は池を伴い、ゆるやかな曲線を描いた州浜があり、要所には景石が配され、絵図や文献でしかうかがえなかった貴重な遺構が発見されました。

発掘された景石を使って当ビル屋上に庭園の一部を復元、「この高陽院殿の有様、この世のことと見えず・・・」と『栄華物語』に記された華麗な様子を彷彿とさせています。平成23年5月5日

財団法人 京都市埋蔵文化財研究所  株式会社 石田大成社

 

 

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平安京 ⇒ 平安京ゆかりの地 66ヶ所

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平安宮018 平安宮造酒司倉庫跡 13  造酒司倉庫跡柱穴

2019年01月30日 10時40分24秒 | 平安宮

 

 

京都市指定史跡 平安宮造酒司跡(みきのつかさ)

平安時代、国家政治の中枢である平安宮にあった造酒司は、ミキノツカサ・ゾウシュンあるいはサケノツカサとも呼ばれる宮内省所属の官司で、天皇や中宮などに出す供御及び朝廷の諸節会・神事に用いられる酒・醴(あまざけ)・酢などを醸造していました。造酒司のあった場所は『宮城図』(陽明文庫蔵)などによると、広さは一町(120m)四方を占め、現在の中京区聚楽廻松下町の京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)付近と推定されています。

『続古事談』によると、造酒司には大きさの違う醸造用の大瓶が三口あり、それぞれ口の部分二尺程(60)を地表面に出して、下は土中に埋め込んで据えてあったことなどが記されています。

1978年の京都市社会教育総合センター(当時)の建設に伴う事前発掘調査では倉庫跡を検出しました。この建物跡は、掘立柱構造、規模は方3(東西6m、南北7.2m)で、柱の痕跡から柱径は40㎝前後に復元できます。構造が均等に柱を配置する総柱建物であることから、醸造用の米などを保管する高床式倉庫の遺構と考えられています。柱穴からは少量ですが、平安時代前期の土師器、須恵器、瓦が出土しており、この建物が平安京遷都後の比較的早い段階で建設されていたことが判明しています。平安宮跡ではこれまで数多くの発掘調査をしていますが、全体が市街地化しており、建物跡がまとまって検出した例は極めて少なく、本倉庫跡のように平安京創建時跡のように平安京創建期の建物一棟分の遺構が良好な状態で検出できたことは特筆すべことです

 

高床式倉庫の遺構 

 

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平安宮015 平安宮 式部省跡

2019年01月28日 06時03分14秒 | 平安宮

 

ここは京都府立朱雀高校

 

西側は 二条城

 

 

平安宮 式部省跡

式部省は平安宮(大内裏)の正門である朱雀門を入ったすぐ東側にあって、西側の対象位置には、武官の人事を担当する兵部省がある。

国家の重要な省庁である八省(中務・式部・治部・大蔵・刑部・宮内・兵部・民部の各省)1つで、政務や事務を担当する文官の人事を担当する重要な役所であった。文官の養成、勤務評価、賞罰のほか、朝廷内での儀式を監督することから、長官や次官には有力な貴族が就任した。

式部省跡内での調査例は少ないが、西辺築地跡付近の調査では、地表から50㎝の深さで、平安時代の土杭(どこう・遺物の入った穴)が見つかり、鬼瓦や軒平瓦を含む多量の瓦が出土しており、瓦葺の大型建物があったと推定できる。また、朱雀高校体育館建設に伴う発掘調査では、式部省南側に接して平安宮を囲む南辺大垣に葺かれた多量の瓦が出土した。出土瓦は京都近郊のほか兵庫県や香川県で生産された平安時代後期の瓦が大部分を占めており、保元2(1157)藤原道憲(みちのり・信西)による平安宮の修復・整備に伴うものと考えられる。

 

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       信西塚

      寺院左0532 峰定寺


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