アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数4800 ミニ・テーマで京都をめぐります 随時記事更新中

神社西0054  樫本神社

2018年11月18日 06時54分24秒 | 神社

平成29年4月12日 撮影

改築されていました

 

2016年7月1日  前回の記事

  修理・改築中のようです

 

社号標  昭和55年 建立

 

仁徳天皇

 

樫本神社

当神社は仁徳天皇ょおまつりする神社で、大原野神社が古くから神事を担い、氏子の皆様に護られ今日に至っていますが、老朽化著しく、平成25年に行われた伊勢神宮式年遷宮の新しい社殿竣工による古殿社撤去材(桧材)無償で頂くことができました。このことは二度とない名誉なことであります。この度、この材を用いて新しい社殿を建設し、次の世代に立派に引き継ぎ、地域の文化財として守っていきたいと存じます。・・・

 

 

 

安永3年(1774) 大原野村・・

 

 

神社 前回の記事 ➡  神社西0053  千丈天満宮  


神社北0140  氷室神社

2018年09月30日 06時06分24秒 | 神社

 

 

歴史

山主神を祀っており、中世以降、代々主水正を世襲し、宮中で使われる氷のことにたずさわった清原家が氷室や氷池の守護神として勧請したと伝えています。創建年代や沿革に関する詳しい資料はありませんが、

江戸時代の氷室神社や村の様子は「都名所図会拾遺」に描かれています。

境内の主な構成は本殿、拝殿、摂社からなりますが、このうち拝殿は方一間の柿葺きで、寛永13年(1636)に後水尾天皇の第2皇女が近衛家に降下した時に造営された御殿内に建っていたものとつたえられるものです。

氷室は、氷を保存した所で、冬に氷池でできた氷を保存し、

夏に宮中で使用されていました。

『日本書紀』仁徳62年条にみえる氷室が文献による初見で、額田大中彦皇子が大和国闘鶏に仮に出た際、山中で氷室を発見し、氷を天皇に献上したことが記載されています。

この氷室の地は、「延喜式」主水司に記載された山城国愛宕郡の5か所の氷室のうち「栗栖野氷室」にあたり、

本神社の北西方向、ここから杉坂に至る道の北側に現在3基の氷室址が残っています。

氷室神社の詳しい成立年代や、現存する氷室の時期などについて、不明な点が多いものの、氷室の遺構と氷室に関係する神社が現存する貴重な史跡であり、地域の歴史上特に価値の高いものです。

平成6年4月1日 京都市

 

氷室神社

祭神は氷を造った額田大中彦皇子に奉った稲置大山主神を祀る。本殿の前にある拝殿(重美江戸)は東福門院の寄進とつたえ、桧皮葺前後に唐風屋根をかけ両側側面に三角の千鳥破風を作った珍しい構造で蟇股には桃山風の花鳥彫刻をほどこしている。

これは元和年間、後水尾天皇の内裏小御所の庭にあった釣殿の遺構と伝える。

氷室・氷池・氷室神社と三者そろって現存する遺跡は京都市に於いてはここだけである。当社は古来痘瘡の神として信仰され例祭6月15日は昔宮中に氷を献上した日にあたる。前日には、菓子の「水無月」を氷に見立てて本殿に供え、甘酒が振る舞われる。

9月15日には、氏子総出で境内のヒノキ林の整備を行う。

゛夏ながら秋風たちぬ氷室山

ここにぞ冬を残すと思へば゛  定家 (拾遺愚草)

 

 

昔の書物に記載されている

 

氷室神社の周辺

 

本殿

 

 

拝殿

 

本殿

 

拝殿

 

拝殿の蟇股

 

本殿

関連記事 ➡  まち歩き左0201  水車の竹中みち  と  もっこ橋

           まち歩き北0866 京都トレイル 北山西部コース  64  氷室

神社 前回の記事 ➡  神社左0139  東 守谷神社  西 冨士神社

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます


神社左0139  東 守谷神社  西 冨士神社

2018年09月09日 20時03分37秒 | 神社

 

神社 前回の記事 ➡  神社東0138  三島神社  平家ゆかりの地 安産祈願  義経伝説

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます


神社北0137  大田神社

2018年07月09日 06時26分53秒 | 神社

 

当神社は延喜式神名帳に記載されている古社で、一名に恩多社とも云われる。鎮座年代は不詳なれど賀茂に於ける最古の社であり、賀茂県主族の移住以前より農民から長寿福徳の神として信仰が寄せられていたようである。ご祭神の天鈿女命(あめのうずめのみこと)は、天岩戸の前でお神楽をされた神で、その御神徳を慕って芸能上達を願い参拝される方が多い。

また、寿命長久、病気平癒、縁結びの信仰がある。上賀茂神社の境外摂社となり、上賀茂八摂社の1つに数えられる。寛永5年(1628)には本殿と割拝殿が造替された。

 また、境内東側の沢池を大田の沢(おおたのさわ)といい、野生のカキツバタが美しい。藤原俊成(しゅんぜい)卿の古歌に「神山や 太田の沢のかきつばた ふかきたのみは 色にみゆらむ」と詠われ、平安時代からこの地にカキツバタが咲き乱れて、すでに名勝となっていたようである。今日でも5月中旬頃には、濃紫、鮮紫の花が美しく沢一面に咲く。このカキツバタの群落は昭和14年に国の天然記念物に指定されている。

例祭は4月10日と11月10日である。

毎月10日に御神楽が奉納されていたが、現在では2月24日の「サンヤレ祭」がこの社の行事となっている。

  京都市

紀元2600年記念の灯籠

 

まとめ検索 ➡   紀元2600年石碑・献木・奉納額

神社 前回の記事 ➡ 神社左0137 貴船神社


神社左0137 貴船神社

2018年06月12日 05時48分20秒 | 神社

 

 

水徳神高龗神を祀る旧官幣中社で、社名は古くは木船、貴布祢とも書かれたが、明治4年(1871)以降「貴船」と改められた。平安時代延喜の制には、名神大社という最も高い格式に列し、日照りや長雨が続いたとき、また国家有事の際には必ず勅使が差し向けられ、祈念がこめられた。弘仁9年(818)以来の暦朝の奉幣、祈願では、もっぱら祈雨、止雨の神として崇められ、祈雨には黒馬、祈晴には白馬又は赤馬が献ぜられるのが例であった。平安時代末期には賀茂別雷神社(上賀茂神社)の摂社とされたが、明治以降独立した。

かつて社殿は貴船川に沿って上がったところにある現在の奥宮の地にあったが、天喜3年(1055)、現在地に移転された。

本殿、拝殿、権殿等から成り、本殿は文久3年(1863)及び平成17年(2005)に改修された。また、境内には祈雨の行事を行った雨乞の滝、奥宮本殿の西には船形石と呼ばれる船の形に積んだ石塁がある。和泉式部がお詣りし、不和となっていた夫との願いがかなって復縁した話はよく知られている。

京都市

絵馬発祥の社

先人にならい絵馬を奉納してご祈願下さい。

古来より雨乞いの社として名高い当社には畏くも歴代天皇様より旱天には黒馬、霖雨には白馬又は赤馬をその都度献げて御祈願される例になっていました。しかし、時には生馬に換えて『板立馬』を奉納したと、平安時代の文献である『類聚符宣抄』は伝えています。この「板立馬」こそは今日の絵馬の原形といわれています。当宮ではこの故事に倣い、かつて和泉式部が復縁し、平實重が蔵人昇任を、大宮人が加茂競馬の必勝を、そして源義経が源氏再興を、それぞれ大神様に祈ったようにも皆様方の心の願いを1枚の絵馬に託して御祈願なさいますようお勧めいたします。

本宮 所願成就  結社 えんむすび  奥宮 心願成就

 

 

桂(御神木) 貴船は古くは「気生嶺」「気生根」とも書かれていた。大地のエネルギー「気」が生ずる山、「気」の生ずる根源という意味。

神道では、体内の気が衰えることを「気枯(けが)れ」といい。古来当社に参拝する者皆、御神気に触れ、気力の充実することから運気発祥(開運)の信仰が篤い。この桂は、樹齢400年。樹高30m。根元からいくつもの枝が天に向かって伸び、上の方で八方に広がる。これは御神気が龍の如く大地から勢いよく立ち昇っている姿に似て、当社の御神徳を象徴し、まさに御神木と仰がれる由縁である。上流の結社さらに奥の奥宮の境内にもこれより大きな桂がある。

由緒

御祭神は高龗神。水の供給を司る神。創建年代は明らかでないが、第18代反正天皇の御世に奥宮の水の湧き出すところに社殿を建てたという御鎮座伝説がある古社。対岸鞍馬山の鞍馬寺は、平安初期の延暦15年(796)藤原伊勢人が貴船明神の夢のお告げで建立したと諸書に出ているので、その当時すでに貴船の神は大きな力を具えていたことがうかがえる。永承元年(1046)7月の水害で奥宮が被災、天喜3年(1055)4月この地に本社を移築した。

京都に都が開かれて当社は国の重要な神社となり、事ある毎に勅使(天皇のお遣い)が差し向けられた。特に当社には、日照りの時には黒馬を、長雨の時には白馬を献じて「雨乞い」「雨止み」の祈願がこめられた。「その数数百度に及ぶ」とある。平安時代の勅願社22社の1社で、延喜式名神大社。庶民の崇敬も篤く全国に2000社を数える分社がある。

古くは「貴布禰」と記したが「黄船」「木生嶺」「気生根」などの表記もみられる。明治4年官幣中となり、以後「貴船」の表記で統一された。例祭 6月1日

貴船神社中宮 結社(ゆいのやしろ)

貴船神社中宮 結社(ゆいのやしろ)

相生の杉(御神木)

同じ根から生えた二本の杉。樹齢1000年 

相生は「相老」に通じ、夫婦ともに長生きの意味

 

思ひ川

夫の愛を取り戻そうと思い悩んでいた和泉式部は、貴布禰詣でを思い立ちました。当時は奥宮で本社で参拝者はこの谷川で手を洗い口をすすぎ、みを清めてから参拝しました。

この谷は禊(みそぎ)の川、物忌(ものいみ)の川だったのです。和泉式部もここで身を清めて恋の成就を祈ったのでしょう。

禊の川だった「おものいみ川」が、和泉式部の恋の話と重なり、いつの頃からか「思ひ川」と呼ばれるようになりました。

遅桜なほもたづねて奥宮

思ひ川渡ればまたも花の雨  虚子

 

貴船名石

つつみケ岩

連理の杉(御神木)

 

拝殿

貴船と「鉄輪」の伝説

当社は古来より水ノ神として崇敬され祭神として高龗神を祀り、心願成就信仰としての「丑の刻詣」で知られている。

むかし宇治の橋姫が丑の刻(午前2時)詣りをして男に呪いをかけた伝説があり、これをもとにつくられたのが謡曲「鉄輪」で、橋姫が頭にのせた鉄輪を置いた鉄輪掛石が叡山電鉄・木船口駅の傍らにある。丑ノ刻詣りは祭神が国土豊潤のため、丑年丑月丑日丑刻に降臨されたと伝える故事によるもので、人々のあらゆる心願成就に霊験あらたかな事を示すもので、単にのろいにのみとどめるべきものではない。

謡曲史跡保存会

貴船神社 奥宮

当地は、貴船神社が当初創建されたところで、当社の祭神も本宮と同様、水や雨を司る神「高龗神」である。社伝によれば、「反正天皇の時代(5世紀初頭)に、玉依姫命(神武天皇の母)が黄船に乗って浪速(大阪)から淀川、鴨川、貴船川をさかのぼって当地に上陸し、そこに祠を営んで水神を祀ったのが当宮の起こりである」とのことで、地名及び社名の起源をこの「黄船」にもとめる説もある。

境内の本殿横には、この伝説にまつわる「船形石」があり、これを積み囲んだ小石を持ち帰ると航海安全に御利益があるとされた。

また、本殿下には巨大な龍穴があり、文久年間(1861~1863)の本殿修理の際、大工があやまってノ      ノミをこの中へ落としたところ、一天にわかにかき曇り、突風が起こり、ノミを空中へ吹き上げたという。この他、宇治の橋姫伝説や和泉式部の恋愛成就など、当社にまつわる逸話か数多い。

なお、当社境内周辺には、昭和60年(1985)6月に京都市指定天然記念物に指定されたカツラをはじめ、高木が多く見られ、自然遺産の宝庫でもある。京都市

 

 神社 前回の記事 ➡ 神社左0136 由岐神社

 関連記事  ➡  人物019 和泉式部

            祠左041  貴船神社・第一鳥居   楫取社

貴船神社

結社

奥宮


神社左0136 由岐神社

2018年05月21日 13時45分06秒 | 神社

 

 

由岐神社

大己貴命と少彦名命を祀る。天変地異が続く都を鎮めるため、天慶3年(940)、御所内に祀られていた祭神を此の地に勧請したのが当社の始めとされ、天皇のご病気や世上騒擾のとき、社前に靭(ゆぎ・矢を入れる器具)を奉納して平安を祈ったため靭社の名がつき、後に現在の社名となったとも伝えられている。重要文化財の拝殿は、慶長12年(1607)、豊臣秀頼によって再建されたもので、中央に通路(石階段)をとって二室に分けた割拝殿という珍しい桃山建築で、前方は鞍馬山の斜面に沿って建てられた舞台造(懸造)となっている。このほか、本殿脇の石造の狛犬一対も重要文化財に指定されている。

京都三大奇祭の1つとして有名な「鞍馬の火祭」は当社の例祭で、毎年10月22日夜に行われる。祭神勧請の際、篝火を焚いてお迎えしたという故事にちなんで、氏子らが大小様々の松明をかついで鞍馬街道から参詣するため、一面火の海となって壮観を極める。京都市

 

 

御由緒

御祭神 大己貴命、少彦名命

相殿  八所大明神

御鎮座 当社は王城の北方の鎮めとして、天慶3年(940)9月9日 靭大明神(後改め由伎更に改め由岐)と奉祀し大己貴命、少彦名命二坐を鎮奉し、古来天皇の御病気や世上騒動の時社殿前に靭をかけて平安を祈った為靭社となづけられた。

御神徳

御祭神は国を治め、人民の生活の道を教えになり、特に医薬の道をお授けになった医薬の祖神であります。

二柱共に、天上神である皇孫に国土の統治権を献上された、国譲りの大業をなしとげられたところから、事業の守護神と仰ぎ、苦境に至ったとき、勇気と進取の進助を授け給い、また国土経営の神であるところから、会社経営の隆昌を祈念し、衣、食、住、の守護、諸災解除、病気平癒、商売繁盛、家内安全、厄除開運、交通安全、家運隆昌、無病息災、旅行安全、学業上達、縁談成就、安産の神として、特に火の神として御神徳は広大無辺、事物の根元を明らかにし、清、明、正、誠心のもとに、祈念すれば霊験神助を授かる信仰は昔も今も

同じであります。

御神階  後陽成天皇の天正17年正一位の宣下

末社 三宝荒神社、岩上社、白長弁財天社、冠者社、

願かけ杉、八幡宮社、石寄大明神社

文化財 拝殿 豊臣秀頼再建 慶長15年(1610) 重要文化財 、狛犬 一対 重要文化財

例祭  10月22日(火祭)

 

鳥居は平成10年4月 建立

 

由岐神社  社号標

昭和3年10月  山本伍三郎

 

拝殿の階段

由岐神社の拝殿(重要文化財・桃山時代)桁行6間、梁間2間、単層、屋根は入母屋造り、桧皮葺き、中央1間を通路とした割拝殿で、屋根中央に唐破風を付し、崖にのぞんで舞台造りとなっている。通路は石段、地形を利用して中央より左へ片寄っている。慶長15年(1610)豊臣秀頼が建部内匠頭光重を奉行として再建した旨が、擬宝珠の刻銘に記されている。本殿前石段の左右には慶長20年(1615)在銘の四角型石灯籠(桃山時代)一対がある。本殿扉の左右に石造狛犬(重文・鎌倉時代)一対が安置されている。

 

岩上社

 

冠者社

 

大杉社

京都市天然記念物 願掛け杉 樹齢800年 樹高 53メートル  

古くより「大杉さん」と呼ばれ、一心に願えば願いが叶うとされている。

 

拝殿を見る

 

おみくじ

 

鞍馬の火祭り

鞍馬の火祭は毎年10月22日の夜半に行われる由岐神社と八所明神社の例祭。太秦広隆寺の「牛祭」、今宮神社の「やすらい祭」とならんで京都の三奇祭といわれる。この火祭は天慶3年(940)9月9日の夜、御所内に祀られていた祭神を此の地に勧請するとき、葦のかがり火をたいて迎えた故事にかたどったといわれる。この夜、里人のかざす大小さまざまのかがり火をたいて迎えた火の中を二基の神輿が旅所に渡御し、壮観。この祭礼の特徴は、神輿の渡御に女性が参加することである。

 

 

鞍馬寺  検索 ➡ まとめ028 鞍馬寺

神社 前回の記事 ➡  神社左0135 八幡宮

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます


神社左0135 八幡宮

2018年05月18日 12時38分42秒 | 神社

 

神社 前回の 記事 ➡ 神社左0134 静原神社

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます


神社左0134 静原神社

2018年05月14日 17時18分09秒 | 神社

 

鳥居

 

大きな 杉の木

 

拝殿

 

狛犬

社伝によれば、成務天12年3月午日に山城国愛宕郡志津原に鎮座す。伊弉諾尊(いざなぎ)が高天原に坐し。瓊瓊杵尊(ににぎ)が日向の高千穂に天降り、はじめは静原樽小川の上流「河合谷意美和良川」鎮められた。

古来、御本社に伊弉諾尊、奥御前に瓊瓊杵尊をまつったが、そのため合わせて「二宮社」と呼ばれる。

また、天武天皇が逆徒に襲われ此所に臨幸され、玉体安らかに御心も静にあそばされた為、静原と称す。そして、刀・弓・矛等を奉納されたため江州浅井郡の地330石を御寄附され、和銅4年3月3日より祭祀を始める。

現在地を「真路山」、御旅所を「天皇社山」と称す。天正検地で330石没収されるも、秀吉公より下鴨社領として30石が定められ明治に至る。そのため、静原沙汰人と称して、下鴨社の御蔭祭に奉仕する例が現在も続いている。

静原神社

 

本殿

 

二宮社  天明8年 とある  1788年だ 京で天明の大火のあった年だ

 

神社 前回の記事 ➡ 神社左0133 金毘羅大権現

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます


神社左0133 金毘羅大権現

2018年05月11日 12時23分07秒 | 神社

三体不動明王  金毘羅大権現

鳥居と 金毘羅大権現の石碑

神社 前回の記事 ➡ 神社左0132 江文神社

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます


神社左0132 江文神社

2018年05月10日 12時55分20秒 | 神社

 

江文山(金毘羅山)の麓に鎮座する。大原八郷の産土神として古くから崇敬され、本殿には倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を祭神としお稲荷さんと同じ神です。このため里人の祈願もはじめの五穀豊穣、家内安全、近年では商売繁盛が多いとのこと。また江文を「えもん」とよんで西陣・室町など繊維関係の方がお参りになります。

 

供養塔  鳥獣・・

戦没者  慰霊碑  大原遺族会

江文神社

現在の社殿は1994年4月に再建された。檜皮葺を銅板に替えたほか、境内地のヒノキ31本を使い、細部まで元通りにしつらえた。以前の社殿は1726(享保11年)に3度目の消失にあい、地元の人々が32年がかりで資金や材木を集め作り直したものです。

この神社は、日蓮宗の信者が全国からお参りになります。これは鎌倉時代、日蓮上人が比叡山で修行していたとき、1日から30日までの日々の神を決めてお祈りしました。その「8日の神」が江文神社であったためです。

級長津彦社(おきながつひこ)等の末社を有する旧村社。創建は明らかでないが、江文山を神体として創祠されたもの。式内社ではないが、境内は古社らしい雰囲気に満ちている。

 

大原雑居寝とは、節分の夜に当社の拝殿にて行う行事。むかし、大原村蛇井手(現井出町)の大淵という池に大蛇が棲み、ときどき里に出て人を害するので、里人は1ケ所にかくれ、難を逃れたという。それがいつしか節分の夜に当社に参詣通夜するに至った。西鶴の『好色一代男』にはこれを採り上げ、その夜の情景をおかしく記している。しかし、一村の男女が1ケ所に集まり、いかがわしいことと明治以前に禁止されてしまったとつたわる。例祭は5月5日珍しいのは里人が素襖をつけ袴の裾をからげて大原八郷を巡行することです。

9月1日の八朔祭。摂社の級長津彦社のお祭りです。には午後に湯立ての神事があり、夜には大原地区の青年男女による「道念踊り」の奉納が行われる。

昭和16年12月

飯尾政治 飯尾宏伍

関連記事  ➡  石碑左0167 西之村霊神之碑

神社 前回の記事 ➡ まとめ013 離宮八幡宮

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます


神社府0131 離宮八幡宮  その3の3

2018年03月23日 18時48分19秒 | 神社

 

若宮神社

手水鉢

今から千百数十年も前、平安時代の初め、清和天皇が太陽の我が身に入る夢をご覧になり、その時のお告げにより、九州宇佐八幡宮から神霊を奉じて帰京した僧行教が、山崎津で夜の山に霊光を見た。そこで此地を掘ると岩間から清らかな水が湧き出したので、「石清水」の八幡宮を創建する嵯峨天皇の離宮跡なので、後に離宮八幡宮と号するようになった。

手水鉢

江戸時代の初め頃、寛永11年、勝竜寺城主永井○○守が幕府の命令で当社社殿を造営した。その記念として城主が奉献したもの。林羅山が之を漢詩に詠み一掬洗心(ひとすくいの水はこころを清める)などと、霊徳を称えている。

 

武内社

 

 

蛭子神社

 

気比宮

 

 

腰掛天神社

 

菅原道真公腰掛処

腰掛天神社

菅公が九州へと流された折に西国街道脇の石に座して休息、次の和歌一首を詠じた。

君が住む宿の梢を ゆくくも かくるゝまでも かへりみしかな

 

 

高良社

 離宮 八幡宮  その1~その3  ➡ まとめ013 離宮八幡宮

前回の神社 記事 ➡  神社南0128 六孫王神社

 

 


神社府0130 離宮八幡宮  その3の2

2018年03月22日 21時56分03秒 | 神社

 

 

手水所  石清水 と書かれています

 

大正11年の時の壹萬円  今に価値ではいくらかな

 

 

河陽宮故址

大正11年3月 大阪油商

 

 

本邦製油発祥地

皇紀二千六百年11月

 

常夜燈

 

江戸時代の元禄の文字が見える

 

狛犬

 

拝殿

 

本殿

 

 

 

当宮は貞観元年(859)、国家鎮護のために八幡神を京の都近くに移座するという清和天皇の勅命のもと、豊前國宇佐八幡宮より山崎に遷座あらされしことを由来としています。嵯峨天皇の河陽離宮の故址に社殿を造営したことから離宮八幡宮と呼ばれるようになりました。

古来、朝廷はじめ幕府などの篤い崇敬をうけ、最大の神事である「日使頭祭」には勅使も遣わされました。室町幕府三代将軍、足利義満は円明寺から水無瀬川の間を当宮神人の在所であることから「守護不入地」とし、大山崎の自治を認めました。以来、明治維新までの長きにわたって、離宮八幡宮の神領として特別に自治を認められる地域でありました。

現在の境内の概観が整ったのは、江戸幕府三代将軍、徳川家光によって行われた「寛永の造営」です。左上の絵図はね寛永11年(1634)以降の境内の姿を描いたものです。幕末に起こった「禁門の変」によって大半は焼失しましたが、惣門(南門)と東門は奇跡的に残り、往時の様子を今に伝えています。

境内地が縮小とれたのは明治に入ってからの近代化の波によるものです。明治9年(1876)に官営鉄道が敷設され、境内の北部が失われました。明治12年、油商山崎講や氏子・崇敬者によって本殿をはじめとする中心社殿が再興されます。

さらに昭和初めには鉄道の再整備が行われ、京都府が設計技手、東金五郎を派遣して、格式ある歴史にふさわしい社殿が再建されました。最も古い惣門と東門は大山崎町の指定文化財に、昭和初期の建造物である本殿、拝殿、透塀、高天宮神社、中門、手水所は国の登録有形文化財になっています。

平成29年3月 大山崎町の歴史・文化遺産を活かした地域活性化実行委員会

関連記事  ➔  まとめ006 紀元2600年石碑・献木・奉納額

離宮八幡宮 全体 案内 ➔  まとめ013 離宮八幡宮

 

 


神社府0129 離宮八幡宮 3の1

2018年03月21日 19時36分11秒 | 神社

 平成29年4月1日

旧郷社で「油の神様」として知られる。社伝によれば、貞観元年(859)僧行教が豊前国(大分県)宇佐宮より八幡神を勧請した際、神霊がしばしこの地にとどまり、翌年男山にうつしたといわれる。これにより社殿を造営し、河陽離宮址に因んで離宮八幡宮と称したのが当社の起こりである。

延喜の式内社ではないが、創祀以来朝野の崇敬もあつく、足利義満は神領地を東は円明寺より西は水無瀬川に至る広大な地とさだめ、江戸時代には禄高930余石を与えられ、守護不入の地とされた。

とくに当社の祠官が油をつくって灯明料としたことから、油司の口宣を賜り、鎌倉時代以降、近世初頭に至るまで全国の油座の長として、油の製造販売権を独占した。それがため往時は社殿も荘厳をきわめたが、元治元年(1864)の兵火にかかって焼失し、明治8年(1875)には国鉄東海道線の布設によって境内を中断され、規模を縮小した。

鎮座地は天王山の南麓、西国街道に沿った大山崎町の中枢地にあって、南面する。表門の傍らに「従是西八幡御神領、守護不入之所」としるした大きな石標があり、守護役人といえどもみだりに境内の出入を許されなかった中世の特権意識をあらわした遺物として、人目をひきつける。

境内には石の台座に乗ったブロンズの「油祖像」や「本邦製油発祥地」の石碑がある。また、周辺に大名や商人から寄進された灯籠が並んでいる。中世の商業組織「座」のなかでも神に仕える神人(じにん)と呼ばれる油生産者や商人らで組織する「油座」は最も有力で大きかった。

山崎の荏胡麻(えごま)油は、平安末期から鎌倉、室町時代にかけて同宮を本所とし、幕府から京都、大坂、奈良などの専売権を与えられたことで、同宮と神領は隆盛を極めた。今の社殿は主に昭和4年(1929)後の再建で、本殿には応神天皇・酒解神・田心姫命・市杵島姫命・たぎ津姫命の五座を祀る。他に拝殿や幣殿・社務所等があり、集古館には350点におよぶ八幡宮文書を有する。

今も、製油会社でつくる全国組織・崇敬会や社家会、河陽会が製油業界の発展を祈る春の例祭「日使頭祭」は同宮を盛り立てている。

例祭は9月25日。4月3日の日ノ使神事は、石清水八幡宮へ遷座の古事をつたえる神事といわれる。

 

扇形石は境内にある水鉢をいう。高さ1m、長さ2mをこえる巨石で、表面中央に円形の彫り込みがあり、さらにその中央に45㎝の深さをもち扇形をきざんでいる。一に「かしき石」ともいう。もとこの付近にあった古い寺院の堂塔の礎石を加工し、水鉢にしたものと考えられている。

河陽離宮址は離宮八幡宮の地と推定される。ここには駅馬を置いて人馬の継立、宿舎食料の供給などを取り扱う山崎駅があって、嵯峨天皇は水無瀬や交野遊猟に際し、山崎駅を宿舎とされたが、弘仁5年(814)これを改めて離宮とされた。

河陽とは、川の北側にある都邑の義で、中国や渭陽や漢陽をまねたものらしい。一に「山崎離宮」ともいう。離宮ではしばしば詩会がひらかれた。離宮はのちに山城国府に改められた。

府社  離宮八幡宮

 

昭和11年9月15日

三重県 四日市油商山崎

 

江戸 講中

 

従是西 八幡宮御神領守護不入之所

守護役人といえどもみだりに境内の出入を許されなかった

中世の特権意識をあらわした遺物

右側に似たような 石柱

従是北 八幡宮社 神領 大山崎・・

守護不入所

献納  大阪 吉川製油所 吉川又平

 

塔心礎(扇形石・かしき石) 大山崎町指定文化財 昭和63年11月1日 指定

塔心礎とは、五重塔など木造塔の中央に立つ心柱を支える疎石のことです。本礎石の最大幅は約266㎝、中央の柱座(心柱を立てる部分)は短径106㎝、長径110㎝を測り、かなり大規模な塔であったと思われます。

柱座の中央には直径約20㎝、推定深35㎝の舎利孔が設けられ、その形式から制作年代は奈良時代以前と考えられます。心礎が使われた寺院については、7世紀の山崎廃寺、8世紀前半の行基による山崎院、9世紀中葉に壱演が建立した相応寺などが想定されます。

後年、中央の柱座部分を扇形に彫り込み、手水鉢として使用されました。19世紀初めの「山崎通分間延絵図」では離宮八幡宮南門前の交差点付近にあり、「手水石」と記されています。別の絵図では「かしき(カシキ)石」とも記されています。平成29年3月 大山崎町教育委員会。

 

燈籠の数々

復元模型は、『製油濫 』をはじめとする資料を参考に、伝統産業にたずさわる技師、職人さんのご協力で完成した。

手前の長木は実験的な搾油を重ねるなかで改良を加え、年々、搾油率が上がっている。奥の立木は直立する2本の縦木と横木の間にクサビを差し込み、両側から槌で打つことで横木を押し下げて圧力を加えていく。こちらは近代まで各地で使われていた。

長木、立木ともに縦の木は本来、全体の3分の1ほどが地上に出ている固定式である。模型は移動が可能なように地中部分を割愛して制作した。

社伝によると平安時代、神勅により当宮の神官が「長木」という油しぼり道具を作ったといわれます。長さ約6メートルの八角形の柱を3本組み合わせ、油をしぼるための部品を挟みこみ、縄で締め上げて荏胡麻(エゴマ:シソ科)の実を押しつぶして油を作りました。

これによって神前に捧げる灯明の原料である荏胡麻油を大量にしぼることができるようになりました。

中世になると当宮の油神人は「荏胡麻油」の製造・販売の独占権を認められます。山崎の油売りたちは日本中に材料のエゴマの買い付けに出向き、京の都に油を売りに行きました。

離宮八幡宮は「本邦製油発祥の地」として日本中の油商から崇敬され、今に至っています。 平成29年3月吉日

 

油祖像

 

昭和37年4月 建立

 離宮八幡宮 ➔  まとめ013 離宮八幡宮

神社 前回の記事 ➔ 神社南0128 六孫王神社

 

 


神社南0128 六孫王神社

2018年03月19日 09時09分23秒 | 神社

 

旧郷社で、清和源氏の租と仰がれる六孫王源経基を祭神としている。基経は清和天皇の第6皇子貞純親王の長子として生まれ、天皇の孫にあたるところから六孫王と呼ばれた。承平年間(931~37)、武蔵介として在任中、平将門の反乱を報告し、その功によって従五位下になった。

  • 次いで追補使小野好古の次官として藤原純友の乱を鎮定し、瀬戸内海地方に源氏の勢力を扶植した。また武蔵・但馬の国守を歴任し、鎮守府将軍となり、源姓を賜った。爾来、武門の棟梁として天下に名をなし。応和元年(961)45歳で没したとつたえる。

社伝によれば、この地は経基の邸宅跡とつたえ、経基の没後、その子満仲によって霊廟を建て、六宮権現と称したのが当社の起こりと伝える。

その後、付近に平家一族の邸宅(西八条殿)が営まれたにも拘らず、ここだけは源氏発祥の地として残った。それがため、寛喜3年(1231)源実朝の夫人(本覚尼)が亡夫の菩提を弔うため、この地に遍照心院を創建したとき、当社はその鎮守社となり、室町時代には足利氏の庇護をうけたが、応仁の乱によって社運は衰微した。

現在の社殿は元禄13年(1700)、遍照心院の南谷上人が徳川氏や清和源氏嫡流の諸侯とともに再興し、宝永4年(1707)に竣工したもので、本殿には経基および天照皇大神と八幡大神を合祀し、摂社には貞純親王・多田満仲ほか七神、末社弁財天社には、多紀理姫神、同稲荷社には睦弥稲荷神を祀っている。

また境内には松平吉保をはじめ、徳川譜代の諸大名の寄進よよる石灯籠数基があり、江戸時代に当社に寄せられた武家の崇敬の程がしのばれる。

 関連 記事 ➡   寺院南0428 大通寺

             清和天皇陵 水尾山陵

神社 前回の記事 ➡  神社中0127  島原住吉神社

 

五七五

今年こそこその言葉は聞き飽きた /林

 

京の味

川床料理(かわどこ)

貴船神社付近の貴船川沿いに、名物の川床の店が並んでいる。床を渓流に張り出し、せせらぎの音を聞きながら、あまご、鮎、鰻、鯉、鮴などの川の幸と山の幸が味わえる

 

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます

 


神社上0126 北野天満宮 本殿

2018年03月07日 17時54分53秒 | 神社

 

北野天満宮 本殿(国宝・桃山)

中門を入った所に南面して建つ大きな桧皮葺の社殿で、菅原道真を主神とし、相殿に中将殿と吉祥女を祀る。

この建物は世に権現造りと呼ばれる複雑な様式からなるもので、入母屋造り、桧皮葺の本殿と拝殿とが相の間(あいのま)によってむすばれ、拝殿の屋根正面に千鳥破風、向拝に唐破風をつくり、左右に入母屋造りの楽之間を付し、多数の屋根が結合しているので、一に八棟造りともいう。

また建物の随所には桃山時代の特色をあらわす華麗な彫刻があり、なかでも蟇股や欄間、手狭などにみられる花鳥や人物・動物等の絵様彫刻は、日光東照宮に劣らぬ見事なものである。なお、本殿側面から後方にかけての透塀(とおしへい)・後門(重文・桃山)および御前通に面する東門(重文・桃山)も本殿と同時代の建築で、いずれも当代技法の粋をつくしたものであり、京都市における桃山時代後期の建築として代表的なものである。

関連記事 ➡  北野天満宮の大鳥居

神社 前回の記事 ➡     神社下0125 福神社

五七五

もめ事をじっと見ている円い月 /寺田

京ことば ベッタコ 最後。びり。「あの子ベッタコエー

     ベッチャコとも。

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます