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寺院府0202  峰山  縁城寺  真言宗

2016年10月11日 06時36分12秒 | 寺院

 簡素な風情のある門です

 

 

 

縁城寺は、養老元年(717)インドの高僧「善無畏三蔵」により開かれたと伝えられる古刹(古い由緒あるお寺)で、御本尊は国の重要文化財で秘仏の木造千手観音立像です。また、境内にある石造宝篋印塔も重要文化財で、修験道で用いる背負い運搬具の「金銅装 笈(おい)」は京都府指定美術品であるなど、その他多くの重要美術品、府指定、市指定文化財を所蔵しています。

 

長い 参道

 

10月30日に行われる 開創1300年

 

発信貴山 縁城寺 略縁起

当山縁起に「養老元年(717)、印度の高僧善無畏蔵来朝し、紫雲の霊瑞を尋ねて当山に来たり。梵天帝釈の二童子より千手観音像を授かり、その由来を記して尊像の天衣に結びて帰唐さけ給う」と伝える。

その後、光仁天皇の叡間に達し、宝亀2年(771)、勅願して堂宇を建立し、「千手院」と名付け給う。更に、桓武天皇は、延暦14年(795)「縁城寺」の寺号勅願を給う。

 

弘法大師は、若き日、当寺に三蔵の「天衣記」あるを聞き、ご来錫、「発信貴山」と山号額を自ら書き残し給う。

その後一時衰微したが、一条天皇の帰依篤く勅願寺として永延2年(988)再興された。

爾来、仁王門より金堂までの300m余には7ケ院25坊谷に満ち香煙絶えることなく、奥丹後随一の信仰祈願の名刹として賑わいを見せた。三度諸堂灰燼に帰するほどに大火に遭いながらも、そのつど再興をみた。しかし、明治4年(1871)、廃藩置県にともなう寺領荘園の召し上げと、廃仏毀釈の風潮により漸次衰運に向かった。

昭和2年(1927)、丹後震災で勅使門、仁王門、庫裏等の全壊、昭和38年(1963)豪雪による多宝塔上層部の倒壊をへて現在に至り、往時の伽藍再興を望まれる情況にある。

 

国指定重要文化財  木像 千手観音菩薩像

本像は、像高152.4㎝の一木造の像で伏目がちに目尻の上った目や厚い唇の表情、肩幅を広くとり腰を細くする造形に平安前期の趣を残すものの彫法などから10世紀後半の地方的作風を示す優品である

 

石造 宝篋印塔 南北朝時代 重要文化財

正平6年(1352)の刻銘があり、下方に切石積の大基壇を有し さらに蛤座など三段の基壇をのせ総高340㎝を測る。相輪の請花や宝珠の形に工芸的な繊細さをもつ優品である。

府指定文化財

金銅装笈 室町時代

毎年10月18日宝物虫干展示して一般の拝観に供している。(雨天中止)

 

 

 

 

稲荷大明神 農業・産業の守護神

淡島大明神 医薬・婦人の守護神

 

京都の自然二百選 シイ林

 

 

石造 宝篋印塔

宝篋印塔は、一切如来の心内の秘密である、全身舎利を悉く納めたと云う密印陀羅尼を内部に安置した七宝塔とされます。この塔を礼拝供養する者は、重罪一時に消滅し、地獄の門を塞いで菩提を得る。また現世の諸災難を悉く免れ、貧窮の者も無量の福徳を得る、と云う功徳が説かれています。

この塔は、刻銘に「正平六年佛子行秀」とあるにより、当時の開山とされる善無畏三蔵の供養のために、行秀和上(~1352)が、南朝年号の正平6年(1351)に建立したものと思われます。

台石の格狭間及び蓮弁等によく時代の特徴が表れており、壇正積の基壇を持つ、宝篋印塔の完存した、堂々たる遺構である事により、重要文化財に指定されました。

 

平成28年

開創1300年記念大法会 併びに秘仏御開扉

発信貴山  縁城寺

 

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奉納額

 

本堂内

 

本堂の右手にある堂

 

子安弘法大師

 

鎮守

 

石碑

 

右手が本堂  奥に 宝篋印塔  その左に 鐘楼

 

馬鳴菩薩 織物産業の守護神

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