旧長池郵便局
明治37年(1904)に、放示九一郎が木造平屋建の旧長池郵便局を建てました。建物の瓦には、郵便局のマーク「〒」をみつけることができます
建物 前回の記事 ⇒ 建物下008 島原大門
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
旧長池郵便局
明治37年(1904)に、放示九一郎が木造平屋建の旧長池郵便局を建てました。建物の瓦には、郵便局のマーク「〒」をみつけることができます
建物 前回の記事 ⇒ 建物下008 島原大門
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
伊佐家住宅 重要文化財
伊佐家住宅は、江戸時代中期の山城地方の代表的民家として、昭和50年(1975)に、先ず主屋と棟札が国の重要文化財に指定され、昭和55年(1980)に主屋以外の建物と普請文書、古図、宅地などが追加指定された。
伊佐家は代々天領の庄屋を勤めた家で、敷地は約2600㎡あり住宅周囲に石垣を築き、正面の南側道路沿いには濠跡が残っている。屋敷の裏三方は竹藪で囲み、竹藪と屋敷とを区切る堀をめぐらしている。屋敷のほぼ中央に享保19年(1734)に上棟の茅葺主屋があり、表側に長蔵を構え、主屋と長蔵の間に中仕切りの高塀を築き、塀中門がある。主屋の裏側には内蔵が隣接して建ち、さらにその裏に東蔵、木小屋、二階蔵 乾蔵が頑丈な石垣の上に建ち並んでいる。特徴しては、主屋の軒の厚い茅葺、玄関から座敷への「桃山」という赤壁、祭礼用のおおきなくど(かまど)主屋と裏側の蔵を結ぶ高縁などがあげられる。
江戸時代の豪農の家の面影をとどめている。
関連記事 ⇒ まとめ045 京都府の重要文化財・国宝 建物
前回の記事 文化財 ⇒ 文化財南006 長谷川家住宅 270年前の農家
明治24 / 1891年
木版印刷,オリジナル木版画・商品制作,デザイン提案,木版画教室,店頭販売
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き中0692 チャート式 教研出版のショーウインドウから・・・
五七五
尼君の寒がりおはす火桶かな /虚子
京 ことば カナン いやだ。「そんなことカナンワ」
2017年12月の記事
輪違屋は元禄年間(1688~1704)の創建と伝える置屋で、島原では揚屋である角屋(重要文化財)と並び古い由緒を持っています。平面は、通りニワを南端にとってその北に居室を2列に並べ、通りニワは中戸・結界によって玄関土間、内玄関土間、台所土間に3分されます。居室は土間寄りを表から玄関、内玄関、台所とし、その後方の2室は大きく改造して現在は店舗となっており、さらに後方に仏間が配されています。2列目は板間と居間で、板間には一間幅の階段が付きます。この北西隅には座敷4室からなる客室棟が接続し、また北面には囲いが付きます。2階は傘の間、紅葉の間などの客室9室が配されています。傘の間は12畳で、南面に1間の床と2間の棚を構え、北及び東面の襖には傘が張り付けられています。また紅葉の間の土壁には、赤や黒の押し型の紅葉を散らしています。
この2室は当建築の中で最も凝った座敷となっています。平面構成は複雑ですが、大きくは1階南半分を占める居室部と、1階の北半分及び2階の各部屋で構成される客室部とに2分され、それぞれ動線を分けています。
建築年代については、安政4年(1857)に再建された後、明治4年(1871)に改造が加えられたと伝えます。事実、復原すれば当初は桁行14.8m、梁行10.7mで背面に通りニワが突出する規模となって、客室棟はなくなり、さらに板間の幅一間の階段や紅葉の間の後の改築によるものと判明します。
いっぽう、明治7年の祈祷札が残り、また明治4年8月の「町中絵図」(当家所蔵)に描かれている建物の外形が現況に近いことから、このときにはほぼ現在の姿になっていたことがうがわれます。したがって、客室棟等の増築時期は材の古さなどから見て明治4年をあまり遡らない時期、おそらく明治時代初年で、板間の階段や紅葉の間もおそらくこれと同時期に改築されたものと思われます。輪違屋は、古い置屋の遺構として貴重であり、建築的にも質が高く、その座敷の斬新な意匠には目を見張るものがあります。
2015年9月の記事
瓦の文字は 高 か
輪違屋(わちがいや)
輪違屋は、太夫や芸妓をかかえていた由緒ある置屋で、元禄年間(1688~1704)の創業と伝える。
現在の建物は、安政4年(1857)に再建されたといわれるが、その後増築改築がなされて、
明治4年(1871)にはほぼ現在の姿になっていた。
平面構成は複雑だが、大きく分ければ、1階南半分の居室部分と、
1階北半分及び2階を占める客室部分からなる。客室は全部で十数室あり、
なかでも2階の傘の間と紅葉の間が主要な座敷で、
その襖や壁の斬新な意匠には目を見張るものがある。
輪違屋は、建築的に質が高く、また古い置屋の遺構として貴重であり、
昭和59年6月1日 京都市指定有形文化財に指定された。 京都市の駒札
南側の駐車場から見えるところ
建物 前回の記事 ➡ 建物左006 旧三井家下鴨別邸 望楼がユニーク
五七五
大雪となりけり関の戸ざし時 /蕪村
ことわざ
闇の夜に灯火を失う
下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます
平成28年12月19日 撮影
旧三井家下鴨別邸は、旧財閥で知られる三井家の先祖を祀った顕名霊社への参拝の休憩所として大正14年(1925)に、三井家10代三井八郎右衛門高棟が建築しました。建築に当たっては、明治13年(1880)、建築の木屋町別邸の主屋を移築し、あわせて玄関棟を増築し、以前からあった茶室も修復し、別邸として整備しました。建物は、三階に四方を見渡せる望楼をもつ開放的な造りや、次の間に円窓を開けた茶室などが特徴です。
旧三井家下鴨別邸は、戦後、旧三井家から国に譲渡され、昭和26年(1951)から長らく京都家庭裁判所の宿舎として使用されていましたが、明治初期に建築された主屋を中心として、大正期までに整えられた大規模別邸の屋敷構えが良好に保存されており、高い歴史的価値有していることから平成23年(2011)に重要文化財に指定されました。
建物 前回の記事 ➡ 建物東005 並河靖之七宝記念館
五七五
まず歩く 歩けば病気も 逃げていく /宇多川
ことわざ
酒は飲むとも飲まれるるな
並河靖之七宝記念館
国登録有形文化財
京都市指定歴史的意匠建造物
京都市指定 名勝
この記念館は、七宝作家で明治29年(1896)に帝室技芸員となった並河靖之(1845~1927)が、職住一体として構えた旧邸宅と工房跡である。館内には、並河靖之制作の数多くの七宝作品や、海外の来訪者のために鴨居を高くしてガラス障子を引き回した開放的な主屋、旧工房、旧窯場が残されている。また庭園は、七代目小川治兵衛(植治)の初期の作品で、琵琶湖疏水を園地に引き入れている。建物は国登録有形文化財、京都市指定歴史的意匠建造物、庭園は京都市指定名勝庭園の指定を受け、明治期の住宅の佇まいを良好に残す京都の近代文化遺産のひとつである。
建物 前回の記事 ➡ 建物中004 ユニークなデザインの校舎
今日の川柳
急がねば 逢いたい人も 齢をとる /宮本
下のユーザー地図で京都市内の記事探索が出来ます。試してみてください。
喫茶 フランソア
昭和9年創業の喫茶店。
豪華客船をイメージしてつくられた建物は重厚感があり、国の有形文化財に登録されている。
昔の文化人も多く通った店内にはクラシック音楽が流れ、往時を偲ばせる。
建物 前回の記事 ➡ 建物下002 東華菜館 手動式のエレベーターがある
東華菜館
鉄筋コンクリート5階建て。設計はヴォーリス建築事務所。
今は中華料理店、大正15年(1936)建築時は、矢尾政というフランス料理のレストランだった。
1924年製造のレトロな手動式のエレベーターが今なお使われている。
東華菜館 と書かれた看板
南から 見た 東華菜館
前回の 建築 記事 ➡ 建物中001 旧日本銀行 京都支店 重要文化財
この記事の近隣の記事は下記地図内のユーザー地図部分をクリックで検索できます
昭和3年(1928)3月、武田五一の設計、大林組の施工で竣工。建物は鉄筋コンクリート造の地下1階、地上3階建て、各階とも正面寄りは「広間(ホール)」及び階段。3階には小ホールがあり、今でも演劇ゃ映画上映などに活用されています。3階に張り出したバルコニーは毎日新聞社章を応用した形状になっています。玄関の左右対称のランブカバーの意匠が注目されています。レストラン・ギャラリー・ホールとして使われています。
日本生命ビル
旧日本生命京都支店は、明治45年(1912)4月に起工し大正3年7月に竣工しました。また棟札より、大正2年7月15日に上棟したことが判明。さらに棟札には設計監督者辰野金吾・片岡安とともに、請負者として山本鑑之進が名を連ねています。辰野金吾は「辰野式」と呼ばれる赤煉瓦スタイルでほぼ一貫しており、いっぽう片岡安は石貼りを多用してより直線的な細部を用いていましたが、この建物はそうした辰野片岡事務所の特色をよく示しています。また技術面でも、純粋な煉瓦造ではなくて中に鉄骨を入れていますが、明治末期から大正前期にかけての辰野の作品には、このような耐震性への配慮が認められ、煉瓦造の日本化の一例として位置づけられます。旧支店は昭和57年に改築された。
京都市文化観光局
1 文椿ビル(旧西村貿易)
4 居戸商店
5 分銅屋
6 五藤家
7 日本生命京都支店
8 西村吉象堂
9 日昇別荘
10 SACRAビル(旧不動貯蓄銀行)
11 家邊徳時計店
12 1928ビル(旧毎日新聞京都支局)
13 富田歯科医院
中京郵便局 もとは 京都中央郵便局だった
明治35年(1902)に京都郵便電信局の庁舎として建てられた。設計は逓信省営繕課の吉井茂則、三橋四郎。ネオルネッサンス様式のレンガ造2階建て、平面はロ字型にして中庭を設けてある。その後、京都中央郵便局を経て中京郵便局となった。昭和51年(1976)に改築されたが、その際、外壁を変化させることのない「外壁保存法」が初めて採用された。
大正時代は銀行の建物だった
山口銀行の京都支店として大正5年(1916)に建てられた。鉄筋コンクリート造2階建て。
設計は辰野・片岡建築事務所。山口銀行が撤退した後、北国銀行京都支店として使われていたが、
現在はレトロな雰囲気を生かし、喫茶・レストランが営まれている。