
正法寺(しょうぼうじ)
徳迎山正法寺は浄土宗の古刹で、その歴史は12世紀末高田蔵人忠国が源頼朝の幣札使として来住したことに始まる。高田氏は後に姓を志水と改めその菩提寺として寺領堂舎をととのえた。
天台宗から浄土宗に改め、後奈良天皇の帰依をうけ天文15年(1546)勅願寺となる。この頃正法寺敷地内には塔頭も数箇寺でき、寺領が増した時期であった。
その後、志水氏の娘お亀が徳川家康の側室となり、尾張藩祖義直公を産んだことにより寺領五百石を有する寺勢となった。お亀は落飾して相応院と号し、没後当寺はその菩提寺となって尾張徳川家の庇護を受けた。
本堂・唐門・大方丈は国の重要文化財で、寛永7年(1630)相応院寄進により建立され、現在の伽藍がこの頃ほぼ整えられた。小方丈・書院・鐘楼は京都府指定文化財で、書院西にある庭園は京都府指定の名勝である。また境内は京都府文化財環境保全地区に指定されている。
絵画書跡では国の重要文化財で絹本著色如来像(高麗時代)、天平12年(740)の大方丈等大集経がある。また、中世から近代にいたる古文書1万点近くが伝来し、質量とも貴重で京都府指定文化財である。
境内図
お亀の方と正法寺
正法寺は源頼朝に命じられて、八幡宮を経済的に支える目的でやってきた高田忠国が建てたお寺です。高田は後に志水と名を改めます。戦国時代、後奈良天皇が正法寺を天皇が祈願する寺院と指定し、栄えました。
徳川家康が大坂や伏見を足場にして天下取りを進めていたころ、正法寺の志水宗清の娘お亀が、将軍徳川家康の側室となり、尾張藩の初代藩主、徳川義直を生みました。
ある日、お亀さんが子どもを行水されていると、家康の行列が通りかかりました。その時、お亀さんはあわてて子どもをたらいに入れたまま家の中へ入りました。これを見ていた家康は、この人なら元気な子どもを産んでくれるにちがいないと見そめ、側室にしたとのことです。
正法寺の知行高は、家康の朱印状によって豊臣時代から500石がそのまま認められています。500石は、石清水八幡宮の社務家の石高が100石から150石でしたので、たいそう高いことがわかります。
家康の死後(1616年)、お亀は相応院となります。
現在の正法寺の建物の内、鐘楼や本堂・唐門などはそれ以後に建てられました。そして本堂、唐門、大方丈は国の重要文化財に指定された建造物です。
相応院の死後(1642年)、正法寺は相応院の霊をまつるお寺になりました。
八幡領が「検地免除」 「守護不入」の特権を与えられたのは、お亀さんの働きによるところが大きかったといわれています。
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院八幡0599 九品寺
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