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陵墓左027 後嵯峨院天皇中宮  大宮院粟田山陵

2018年06月29日 06時44分31秒 | 陵墓

後嵯峨天皇

承久二~文永九(1220-1272) 諱:邦仁

土御門天皇の第一皇子。母は贈皇太后源通子(土御門通宗女)。宗尊親王・後深草天皇・亀山天皇・覚助法親王・月花門院ほかの父。

仁治三年(1242)八月、西園寺実氏の息女(のちの大宮院)を中宮とする

後嵯峨院天皇中宮  大宮院粟田山陵

 

陵墓 前回の記事 ➡ 陵墓左026 惟喬親王 陵墓

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陵墓左026 惟喬親王 陵墓

2018年05月02日 06時13分04秒 | 陵墓

 

惟喬親王は文徳天皇の第1皇子であったが

母方が藤原氏の出身でないばかりに皇位に就けず

世を避けて隠棲されたのがこの地と伝えられています。

又、となりの小社に親王の御霊を祀る小野御霊神社です。

関連記事 ➡  人物017 惟喬親王

陵墓 前回の記事 ➡ 陵墓北025  媞子内親王 火葬塚

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陵墓北025  媞子内親王 火葬塚

2017年12月26日 19時11分06秒 | 陵墓

 

媞子内親王 火葬塚

白河天皇の第1皇女(1076年~1096)

母は 藤原賢子  享年21

陵墓 前回の記事 ➡ 陵墓南024  浄菩提院塚 陵墓参考地

五七五

さればこそあれたきままの霜の宿 /芭蕉

ことわざ

竜の髭を撫で虎の尾を踏む

 


陵墓南024  浄菩提院塚 陵墓参考地

2017年10月12日 20時02分07秒 | 陵墓

 

陵墓 前回の記事 ➡ 陵墓東023 仁明天皇女御 贈皇太后澤子 中尾陵  道標東0122 中尾陵

五七五

他人との距離遠くなく近くなく /菅原

ことわざ

富貴は浮雲の如し


歴代天皇 50代から70代

2017年09月05日 09時37分50秒 | 陵墓
御代 天皇御号 御名 御父上 御母上 外祖父 皇后 皇后父 降誕崩御 在位
50 桓武天皇 山部親王 光仁天皇 高野新笠 高野乙継 藤原乙牟漏 藤原良継 737-806 781-806
51 平城天皇 安殿親王 桓武天皇 藤原乙牟漏 藤原良継 ――――― ――――― 774-824 806-809
52 嵯峨天皇 神野親王 桓武天皇 藤原乙牟漏 藤原良継 橘 嘉智子 橘 清友 786-842 809-823
53 淳和天皇 大伴親王 桓武天皇 藤原旅子 藤原百川 正子内親王 嵯峨天皇 786-840 823-833
54 仁明天皇 正良親王 嵯峨天皇 橘 嘉智子 橘 清友 ――――― ――――― 810-850 833-850
55 文徳天皇 道康親王 仁明天皇 藤原順子 藤原冬嗣 ――――― ――――― 827-858 850-858
56 清和天皇 惟仁親王 文徳天皇 藤原明子 藤原良房 ――――― ――――― 850-880 858-876
57 陽成天皇 貞明親王 清和天皇 藤原高子 藤原長良 ――――― ――――― 868-949 877-884
58 光孝天皇 時康親王 仁明天皇 藤原沢子 藤原総継 ――――― ――――― 830-887 884-887
59 宇多天皇 定省親王 光孝天皇 班子女王 仲野親王 ――――― ――――― 867-931 887-897
60 醍醐天皇 敦仁親王 宇多天皇 藤原胤子 藤原高藤 藤原穏子 藤原基経 885-930 897-930
61 朱雀天皇 寛明親王 醍醐天皇 藤原穏子 藤原基経 ――――― ――――― 923-952 930-946
62 村上天皇 成明親王 醍醐天皇 藤原穏子 藤原基経 藤原安子 藤原師輔 926-967 946-967
63 冷泉天皇 憲平親王 村上天皇 藤原安子 藤原師輔 昌子内親王 朱雀天皇 950-1011 967-969
64 円融天皇 守平親王 村上天皇 藤原安子 藤原師輔 藤原皇子 藤原兼通 959-991 969-984
65 花山天皇 師貞親王 冷泉天皇 藤原懐子 藤原伊尹 ――――― ――――― 968-1008 984-986
66 一条天皇 懐仁親王 円融天皇 藤原詮子 藤原兼家 藤原定子
藤原彰子
藤原道隆
藤原道長
980-1011 986-1011
67 三条天皇 居貞親王 冷泉天皇 藤原超子 藤原兼家 藤原妍子
藤原
成子
藤原道長
藤原済時
976-1017 1011-1016
68 後一条天皇 敦成親王 一条天皇 藤原彰子 藤原道長 藤原威子 藤原道長 1008-1036 1016-1036
69 後朱雀天皇 敦良親王 一条天皇 藤原彰子 藤原道長 禎子内親王 三条天皇 1009-1045 1036-1045
70 後冷泉天皇 親仁親王 後朱雀天皇 藤原嬉子 藤原道長 章子内親王 後一条天皇 1025-1068 1045-1068
 
 
 
関連記事 ➡  桓武天皇 柏原陵  散歩に訪れる人も多い
 
 清和天皇陵 水尾山陵
 
嵯峨天皇陵  見晴は抜群
 
 文徳天皇陵 
 
  光孝天皇  後田邑陵
 
 
 

陵墓東023 仁明天皇女御 贈皇太后澤子 中尾陵  道標東0122 中尾陵

2017年08月06日 10時53分45秒 | 陵墓

仁明天皇女御 贈皇太后澤子 中尾陵

陵は南面  画像は西を見ています

 

 

 

道標東0122 中尾陵

中尾陵

 鳥戸野陵                 

泉山御陵   剣神社ヲ経テ   参道

 

 

 昭和四年十一月建之      大阪皇陵巡拝会

陵墓前回の記事 ➡  陵墓府022  筒井浄妙墓

道標前回の記事 ➡  道標右0121  すく 京みち   たんばみち

五七五

本音ならそのまま言うてほしかった /栗田

ことわざ

朱に交われば赤くなる

  


陵墓府022  筒井浄妙墓

2017年07月05日 08時19分05秒 | 陵墓

 

南方面を見る

 

北を見る  向こうの森は 高倉神社

東を見る

高倉神社の南、約100mの水田中に、筒井浄妙の墓と伝える墓がある。浄妙は、以仁王に従った三井寺の堂衆で、「平家物語」や「源平盛衰記」に描く宇治川合戦で活躍した武勇の僧である。祇園祭の山鉾「浄妙山」では、このときの彼の奮戦振りを模しており、片手をついて浄妙を飛び越える一来法師の姿が作り物となっている。なお、現在、この塚は、以仁王墓の陪塚として、王墓とともに宮内庁が管理している。

 

治承役 筒井浄妙塚

 

 

北方面を見る  森は高倉神社

 関連記事  源頼政  ➡  長尾天満宮  頼政の道

                

陵墓 前回の記事 ➡  陵墓府021  以仁王  神社府0108  高倉神社


陵墓府021  以仁王  神社府0108  高倉神社

2017年07月03日 06時13分50秒 | 陵墓

 

左は   後白河天皇王子  以仁王御墓

右は  治〇〇高倉宮以仁王舊蹟

 

昭和〇〇11月 〇京都 三宅安〇〇 建立  

三宅安兵衛 のいしぶみだ

後白河院天皇皇子 以仁王御墓

 

切株から 成長してきています

高倉神社は、後白河法王の第2皇子以仁王を祀った神社で、隣接して以仁王の御墓がある。

「平家物語」によると、以仁王は、治承4年(1180)源頼政のすすめにより、平清盛とその一族の追討を命じる令旨を諸国の源氏勢力にあてて出していた。

このことが露見したため、平家の追討をうけ、南部の興福寺をたよって都を落ちる途中この地に至り、光明寺山の鳥居の前において流れ矢にあたって落命されたという。後に、この地の春日神社境内に葬りに王の御霊を祀ったが、明治18年(1885)社名を高倉宮神社に改めたと伝わる。

 

趣の変わった 灯籠です

 

昭和41年11月建立

 

本殿です

 

 関連記事 ➡   三宅安兵衛の道標

 高倉宮  ➡  明治天皇、小学校への行幸地

源頼政  ➡  長尾天満宮  頼政の道

 後白河法皇  ➡   後白河天皇法住寺陵   高松神明神社 

陵墓 前回の記事 ➡  陵墓東020 六絛天皇 高倉天皇 御陵

神社 前回の記事 ➡  神社府0107 綺原神社 (かんばら)

五七五

青春の ページは今も 色褪せず /寺田

ことわざ

鮑の片思い


陵墓東020 六絛天皇 高倉天皇 御陵

2017年04月21日 17時15分08秒 | 陵墓

 六絛天皇  1164~1176  在位 1165~1168

   父 二条天皇  母 伊岐致遠女

高倉天皇  1161~1181  在位  1168~1180

  父  後白河天皇  母 平滋子  子  安徳天皇  後鳥羽天皇

 

六絛天皇 清閑寺陵

高倉天皇 後清閑寺陵

 陵墓 前回の記事 ➡  陵墓東019  鳥戸野陵  藤原道長はここで火葬にされた

五七五

家中の両手が伸びる初歩き /あきあかね

ことわざ

 

海に千年河に千年

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陵墓東019  鳥戸野陵  藤原道長はここで火葬にされた

2017年04月18日 06時14分58秒 | 陵墓

 参道

 

十数余の古塚が散在し、いずれも小円墳で、今はどの塚が誰なのか見分けがつかない。この地は鳥部山(阿弥陀ケ峰)の南にあり、藤原氏出身の后妃を火葬した南鳥部野とよばれたところである。天暦8年(854)正月、醍醐天皇中宮穏子(藤原基経四女)をここで火葬したのがもっとも早く、次いで一条天皇皇后定子(藤原道隆女)を埋葬し奉った。『栄花物語』巻7(とりべ野の巻)によれば、皇后定子は長保2年(1000)12月16日、お産のために急逝され、27日鳥部野の南、二町ばかりのところに霊屋をつくり、遺骸を埋葬した旨をしるしている。

 折柄、雪のしきりに降り出すのをみて、隆円僧都は

 白雪の降りつむ野辺は跡絶えていづくを墓と君を尋ねむ

と詠っている。その翌長保3年(1001)円融天皇女御藤原詮子(東三条院)をこの地に於いて火葬し、また後朱雀天皇皇后禎子内親王、白河天皇皇后賢子、後冷泉天皇皇后歡子火葬塚(小野皇太后)、堀河天皇女御贈皇太后苡子も火葬に付され、拾骨の上、それぞれの山陵に葬られた。万寿4年(1027)12月7日、藤原道長もやはりこの地に於いて火葬に付された。『栄花物語』巻30によれば、葬送の日は朝からひどい雪になり、夜になっても降りやまなかった。

 

法橋忠命は

 煙り絶え雪降りしげる鳥部野は鶴の林の心地こそすれ

 とそのときの情景を哀れに詠っている。

 この地は古典文学史上、貴重な遺跡地である。

 

一條天皇皇后定子 鳥戸野陵

醍醐天皇皇后穏子火葬塚

円融天皇女御尊称皇太后詮子火葬塚

後朱雀天皇皇后禎子内親王火葬塚

後冷泉天皇皇后歡子火葬塚

白河天皇皇后賢子火葬塚

堀河天皇女御贈皇太后苡子火葬塚

陵から京都タワーが正面に見えます

陵墓 前回の記事 ➡  陵墓東018 守脩親王・淑子内親王・朝彦親王 墓

五七五

子育てのヒントをもらう動物園 /山本

ことわざ

 

後ろ指を指される

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陵墓東018 守脩親王・淑子内親王・朝彦親王 墓

2017年04月10日 19時36分33秒 | 陵墓

守脩親王・淑子内親王・朝彦親王 墓

 

賀陽宮墓地   久邇宮墓地

陵墓 前回の記事 ➡ 陵墓伏017  十二帝陵

 五七五

バスツアー思い通りに咲かぬ花 /掛川

ことわざ

命の洗濯

 

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陵墓伏017  十二帝陵

2017年03月02日 19時18分23秒 | 陵墓

 

 

正しくは「深草北陵」といい、陵内に一宇の法華堂を建て、後深草、伏見、後伏見、後光厳、後円融、後小松、称光、後土御門、後柏原、後奈良、正親町、後陽成の十二帝および栄仁親王(崇光皇子)の遺骨を奉安する。

いずれも鎌倉時代から室町・桃山時代にわたる天皇で、かくも多くの天皇が一ケ所に奉葬されているところに当時の後室の衰微を物語っている。

古くは「深草法華堂」といい、はじめ後深草、伏見、後伏見の三帝を葬ったが、真宗院の荒廃後は御陵のみが残った。そこで正平7年(1352)頃、上京区新町頭にあった持明院の持仏堂安楽行院(一に安楽光院)をこの地に移し、御陵の管理にあたったが、それも中世以降の兵乱に寺は廃滅し、御陵もまた荒廃するに至った。江戸時代には「仙骨堂」または「御骨堂」ともよばれ、わずかに御陵の形をとどめていたが、寛文2年(1662)僧空心契仲が名刹の衰滅を歎き、安楽行院を再興して御陵の管理にあたった。その後、明治27年(1894)御陵の修治にあたり、寺は東山泉涌寺へ移され、御陵は宮内庁の管理となった。

 陵墓 前回の記事 ➡ 陵墓東016  東山本町 陵墓参考地

 

五七五

 

高値でもあるだけマシと戦中派 /老メダカ

 

ことわざ

医者と味噌は古いほどよい(いしゃとみそはふるいほどよい)

類・医者と坊主は年寄りがよい、医者坊主南瓜

 

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陵墓東016  東山本町 陵墓参考地

2017年01月31日 15時37分23秒 | 陵墓

 

 

 

 

陵墓 前回の記事  ➡  陵墓伏015  伏見松林陵

五七五

えホントに見合い写真のかたですか /ペコ

ことわざ

雨晴れて笠を忘る(あめはれてかさをわする)

楽になると、苦しかったときのことも、そのとき受けた恩義も忘れてしまうことのたとえ。

類・暑さ忘れて陰忘れる

 ・病治りて医師忘れる

 ・喉元過ぎれば熱きを忘れる

 

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陵墓伏015  伏見松林陵

2016年12月31日 08時39分48秒 | 陵墓

 

 

後崇光院太上天皇(伏見宮貞成親王)の陵、天皇は慶安5(1372)伏見宮栄仁親王の第2皇子として生まれ、久しく不遇で、54歳になってようやく親王の宣下を賜った

 

 

関連記事 ➡  寺院伏0299  松林院  浄土宗

陵墓 前回の記事 ➡  陵墓伏014  仁明天皇 深草陵

川柳                                        

よれよれの敷物だけど虎は虎    /赤トンボ

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陵墓伏014  仁明天皇 深草陵

2016年12月10日 17時40分41秒 | 陵墓

 

 

 

天皇は嵯峨天皇の第3皇子、母は壇林皇后(橘嘉智子)。天長10年(833)24歳で即位され、在位17年。嘉祥3年(850)3月21日、清涼殿にて崩じた。宝算41。3月25日深草山の西麓に埋葬され、仁寿元年(851)3月嘉祥寺にて御忌斎会が行われたことが『文徳実録』にある。しかし、陵はその後所在をうしない、江戸時代には諸説紛々として容易に決せず、安永・天明の頃、善福寺の住僧が「東車塚」とよぶ荒墳を発掘して石棺を発見し、またその付近から陶壺に入った「乾元大宝」の古銭を得たことから、種々検討され、遂にここを深草陵と決定し、元治元年(1864)修治されるに至った。

『三代実録』貞観6年(864)8月3日で仁明天皇女御藤原貞子を、同じく深草山稜内に葬られたことをしるしているが、陵は未だ判明していない。昭和35年(1960)2月、名神高速道路を建設するにあたって陵の背後の台地(俗称茶山)を発掘したところ、平安前期の火葬址が発見されたことから、ここが女御火葬の「西車塚」ではなかろうかと検討されたが、決定には至らなかった。

父・嵯峨天皇陵墓 ➡  嵯峨天皇陵  見晴は抜群

母・橘嘉智子の陵 ➡  嵯峨天皇皇后 嘉智子 嵯峨陵

陵墓 前回の記事 ➡  陵墓伏013  伏見桃山陵  明治天皇・昭憲皇后 陵墓

 

川柳

 

腕時計なければないで30年   /あんみつ姫

 

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