アートプラス京めぐり

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史跡左036  岩倉具視 旧邸 

2018年07月24日 07時05分36秒 | 史跡・旧跡

文久2年(1862)9月から慶応3年(1867)までの5年間、明治維新に功績のあった岩倉具視が幽棲したところである。昭和7年3月、「史跡」に指定された。具視は、幕末の騒乱に際して公武合体を進め、皇女和宮の将軍家降嫁に辞任緑したが、倒幕急進派の弾劾を受け、文久2年9月官職を辞し、西賀茂霊源寺で剃髪し、ここに蟄居した。慶応3年には維新運動の中心になって活躍し、のち明治新政府の右大臣になった。

現在、幽棲旧宅、文庫、管理人宅の3つの建物がある。旧宅は西北にあって平屋建茅葺と瓦葺の2棟からなる。茅葺は玄関座敷で約60㎡、瓦葺1棟は居間勝手等で約74㎡、具視幽棲時の旧態をしのぶことができる。旧宅の東側にある文庫には具視関連の品々を陳列している。庭前には具視の遺髪塚とお手植えの松がある。

 

 

 

 

隣雲軒

元治元年(1864)、大工藤吉の居宅(現在の附属屋)を購入して主屋を増築したのがこの旧宅です。岩倉具視は元治元年から

慶応3年(1867)11月までの約3年間、この旧宅で暮らしていました。昭和7年(1932)に東伏見周子(岩倉具視の孫)が「隣雲軒」と扁額に揮毫して名付けました。なお、旧宅正面の庭は昭和3年(1928)10月の建物修復の際、庭園手入として7代目小川治兵衛が関わっていることが近年明らかになりました。

1862年6月12日(文久2年5月15日)、岩倉具視は左近衛権中将に転任した。前年10月の和宮東下の功績によります。岩倉にとってのこの世の絶頂の瞬間です。しかし岩倉の明治以前の出世はここで止まり、この後、暗殺の予告を避けるために11月4日(9月13日)には洛中を出て、霊源寺、西芳寺と移り住み、ここ洛北岩倉へ辿り着くことになります。

対岳文庫

洋館を入った所の展示室の扉の上に「対岳文庫」と書いた扁額があります。対岳文庫設置の翌年の昭和4年春に岩倉具視の孫である東伏見宮周子が揮毫したものです。対岳文庫では「岩倉具視の生涯」や「岩倉家の人々」などの資料を展示しております。

史跡前回の記事 ➡ 史跡左035  千人塚 大文字山


史跡左034 貞明皇后御休息所

2018年05月24日 08時00分33秒 | 史跡・旧跡

 

貞明皇后御休息所蹟

大正13年(1924)鞍馬寺に行啓された貞明皇后さまが

九十九参道を徒歩でお登りになる途中しばらくお休みになったところである。

 

鞍馬寺  検索 ➡ まとめ028 鞍馬寺

史跡 前回の記事 ➡ 史跡下033 西八条第  清盛の館

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史跡下033 西八条第  清盛の館

2018年03月16日 21時18分14秒 | 史跡・旧跡

 梅小路公園の中に

西八条第は八条亭ともよばれ、平安時代後期、平清盛が平安京の八条壬生に構えた六町を有する広大な邸宅で、仁安元年(1166)頃に造営されたとする。その跡地は下京区歓喜寺町・八条坊門町、南区八条坊門町・八条町に当たる。

『平家物語』によると、清盛が邸内の庭に蓬(よもぎ)を植えたところから蓬壺(ほうこ)とも呼ばれ、その周辺にはまた頼盛・重盛・宗盛ら、平家一族の邸宅がいらかをならべていた。白拍子祇王・妓女や仏御前の物語もこの邸宅での話である。

清盛は仁安2年(1167)に太政大臣の位を退いてから摂津福原(神戸市兵庫区)に居を移したが、妻の二位尼時子はここに住み、邸内に光明心院を営んでおり、また、清盛も入洛の折はこの邸宅を使用している。

清盛は、安元3年(1177)6月鹿ケ谷山荘事件の後、首謀者の一人、西光法師が捕えられ、清盛から厳しい詰問を受けたのはここであり、この邸宅でその処分を決めている。また『山槐記』によると、治承3年(1179)12月16日、高倉天皇中宮で、清盛の娘である建礼門院徳子がこの西八条第に行啓し、清盛は終日微笑みを絶やさず、指を湿らし障子に穴をあけ、孫と戯れて感涙にむせんだとされる。

治承5年(1181)閏2月4日に清盛は熱病をわずらって悶死した。64歳で没し、その2日後、葬送の夜。この邸で火災が発生した。

『平家物語』巻六によると「玉を磨き金銀をちりばめて作られたりし西八条殿、其夜、にはかに焼けぬ。・・放火とぞ聞こえし」と記され、大小50余りの建物が焼けたとされる。『玉葉』によると、のちに再建された建物も、寿永2年(1183)7月25日、平家の都落ちに際して自ら火が放たれ、邸宅は残すところなく灰燼に帰した。平家はここに滅亡して、約400年間続いた平安時代は終わりを告げる。

 

はかなしな主は雲井に別るれば跡は煙とたちのぼるかな 

(平家物語 巻七) 平 教盛

 

ふるさとを焼野の原にかへりみて末も煙の波路をぞ行く  

(平家物語 巻七) 平 経盛

 

その後、旧地は平家追討の恩賞として源頼朝に与えられ、源家相伝の領地となった。鎌倉時代に実朝の未亡人(本覚尼)によって遍照心院が営まれるに至ったのは、かかる由縁によるものである。

西八条第跡の調査は、公園整備前の平成4・5年の春に行われ、柱跡や溝跡のほか、平安時代後期の土器とともに焼土や炭化遺物も出土しており、西八条第で火災があったことを裏付けている。なお、遺跡は盛土して保存されている。

関連記事 ➡  若一神社  平清盛ゆかりの地  御神木の楠は 西大路通りを迂回させた

   西光法師  西蓮寺 時宗 空也上人、松尾の神、古い六地蔵信仰

            寺院南0401 浄禅寺 浄土宗

史跡 前回の記事 ➡ 史跡北032 御土居  加茂川中学前

 

五七五

今日もまた名前が出ない顔見知り /山田

 

京都の俗諺(ぞくげん)

京では右と左が逆になる 平安京は中国と同様に君子が南面としたため、御所の紫宸殿は南向きとなっている。天皇が南を向いて左が左京、右が右京であり、北を上にした地図では左右が逆になる。

 

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史跡北032 御土居  加茂川中学前

2018年03月13日 20時35分08秒 | 史跡・旧跡

 

御土居は、天正19年(1591)豊臣秀吉が長い戦乱により荒廃していた京都を整備すべく都市計画を行ったとき、外敵の来襲に備え、その防塁として築いた土塁(土居)である。その範囲と構造は延長23kmに及び、これによって京都が洛中と洛外に分けられた。

多数の人々を動員して築造した御土居ではあったが、江戸時代になると、堤防としての役割を果たしていたものなどを除いては無用のものとなり、やがて近代になると開発により次々にこわされ、北辺を中心に残存するのみとなった。

この紫竹上長目町、同上堀川町に残る御土居は、御土居の北東隅にあたる重要な部分であり、昭和5年(1930)7月8日、市内に残る他の7ケ所とともに、京都の沿革を知るうえで、またわが国における都市計画の歴史を知るうえで重要な遺跡として国の史跡に指定された。

なお、その後、北野天満宮境内の1ケ所が追加指定され、現在では9ケ所の御土居が国の史跡となっている。京都市

 

道を隔てて 反対側にも 史跡の石柱が立っています

 

関連記事 ➡  秀吉が造らせた御土居堀

史跡 前回の 記事 ➡  史跡北031 御土居 大宮交通公園で

五七五

ジャンボくじどうせだめでも足が向く /渡辺

 

京ことば ヤンカ ~ではないか。「歌まで出て、楽しいヤンカ

 

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史跡北031 御土居 大宮交通公園で

2018年03月12日 21時32分03秒 | 史跡・旧跡

 

御土居は、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、京都の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防御と、鴨川の氾濫から市街地を守る堤防として、天正19年(1591)に多くの経費と労力を費やして築いた土塁です。

台形の土塁と堀(堀の一部は川を利用)からなり、その延長は22.5kmに及び、東は鴨川、北は鷹ケ峯、西は紙屋川、南は九条あたりに沿って築かれました。土塁の内側を洛中、外側を洛外と呼び、要所にはいわゆる七口を設け、洛外との出入口にしました。

関連記事 ➡  秀吉が造らせた御土居堀

史跡 前回の記事 ➡  史跡北030 御土居 最も規模が大きい

 

五七五

いらいらを包んでくれる丸い声 /井上

 

京ことば ヤヤコシイ 複雑な。わずらわしい。

「だんだんヤヤコシイ話になってきたナー

 

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史跡北030 御土居 最も規模が大きい

2018年03月12日 18時01分55秒 | 史跡・旧跡

西端の部分  

 

 

 

東端の部分

関連記事 ➡  秀吉が造らせた御土居堀

史跡 前回の記事 ➡ 史跡北029  御土居  鷹峯上ノ町 御土居餅の向かい

 

五七五

遺産ですもらった土地は植木鉢 /三上

 

京ことば モッサイ 野暮ったい。「こんなモッサイ服ないナー

 

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史跡北029  御土居  鷹峯上ノ町 御土居餅の向かい

2018年03月11日 16時43分41秒 | 史跡・旧跡

 盛り上がっているところが  御土居   東西方向に作られている

御土居 北西角に近いところ

ここは 図の 左上にあたる

御土居は、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、京都の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街地を守る堤防として、天正19年(1591)に多くの経費と労力を費やして築いた土塁です。

台形の土塁と堀(堀の一部は川を利用)からなり、その延長は22.5キロメートルに及び、東は鴨川、北は鷹ケ峯、西は紙屋川、南は九条あたりに沿って築かれました。土塁の内側を洛中、外側を洛外と呼び、要所にはいわゆる七口を設け、洛外との出入口としました。

多数の人々を動員して築造した御土居ではありましたが、江戸時代になると、堤防としての役割を果たしていたものなどを除いては無用のものとなり、やがて近代になると開発により次々と壊され、北辺を部分的に残存するのみとなりました。

 ここ鷹ケ峯に残る御土居は、御土居の北西隅にあたる重要な部分であり、京都の沿革を知る上に、また広く我国における都市の発達をたどる重要な他の8箇所とともに、国の史跡に指定されています。

昭和5年文部省指定、昭和40年追加指定   京都市

 

東を見る

この御土居に入るには 光悦堂で申し出れば フェンスの鍵を貸してもらえます

向こうの山は 比叡山

平成29年4月1日 撮影

関連 記事 ➡   秀吉が造らせた御土居堀

史跡 前回の記事 ➡  史跡北028  御土居  史跡公園

 

五七五

撫でてみる父玉砕の島の土 /辻井

 

京ことば メッソモ ナイ (滅相もない) とんでもない。

「こんなにモータラ、メッソモナイワ

 

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史跡北028  御土居  史跡公園

2018年03月10日 21時54分29秒 | 史跡・旧跡

 

史蹟 御土居

昭和15年11月建立

京都の御土居は天正19年(1591)豊臣秀吉がり多数の人びとを動員して築いたものである。これより先、戦国乱世の時代に、京都では「町の構」や「ちゃうのかこい」を築いて、町を自衛する態勢がとられた。また、堺や山科、石山をはじめ各地の寺内町などの都市や村落でも環濠城塞化する動きがみられ、こうした動きをうけて「御土居」は築かれたが、 住民が自衛するための施設ではなかった。

天下統一をとげた秀吉はながい戦乱で荒れはてた京都を復興し、その近世城下町化をはかったのである。まず聚楽第を設け、これを中心に街区を改め、寺院を寺町と寺の内に集めた。そして、まわりに壕と土塁をめぐらし洛中と洛外を分ち、「御土居」に七口を設けて洛外との交通をここに限ろうとした。秀吉は「刀狩」の政策に示されるように、民衆の自衛権を否定し、都市を支配し、その権力を示すために「御土居」を築いた。

この延長実に23キロにもおよぶ「御土居」は平安京以来はじめて京都に完成した羅城であった。しかし、外敵の脅威もなく、天下泰平の近世にあって、この「御土居」はしだいに無用のものとなった。江戸中期になると「御土居」をこえて東へと市街は広がった。しかし、みずから労力を費やして構築した長大な「御土居」を人びとは忘れはしなかった。

「御土居」は洪水を防ぐ堤防の役割をはたしたし、近辺の農民は土崩れの防止や竹木の成育など、その保全に力をつくしたのである。やがて近代になると開発によって南辺から西辺にかけて大きくこわされ、わずかに北辺や西辺の一部に往時のおもかげをとどめているにすぎない。

ここは「御土居」の西辺の北端に近く、その底部は幅十間、南が「御土居」に設けられた切通し、中野道になり、西の小道に面して藁葺の入母屋造りの鷹ケ峯番小屋がおかれ、西へなだらかな斜面をなして紙屋川の谷へつながっていた。洛外への見張りの小屋の役目をはたしていたのだろう。

史跡公園として整備するにあたり、この番小屋の位置に亭をおいた。わが国に数少ない都市をめぐる城塞の史跡として、また日本の都市について考えるばとしてこの「御土居」の価値はきわめて高い。史跡公園としてまた近隣住民の憩いの場として保存され、活用されることを期待する。昭和56年10月 京都市

関連記事 ➡ 秀吉が造らせた御土居堀

史跡 前回の記事 ➡ 史跡北027  御土居堀  西土居町

 

五七五

時きざむ音が気になる妻の留守 /樋口

 

京ことば ホンマ ほんとう。

ホンマ、そんなこと言うてくれハルって、うれしいワー

 

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史跡北027  御土居堀  西土居町

2018年03月08日 19時18分20秒 | 史跡・旧跡

住宅街の1角にわずかに土塁が残っています 

 地名にも御土居の名残が感じられます

ここは 西土居町

秀吉は京都市内22㎞を半年ぐらいで完成させています

 

 

 

 

御土居は、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、京都の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街地を守る堤防として、天正19年(1591)に多くの経費と労力を費やして築いた土塁です。台形の土塁と堀(堀の一部は川を利用)からなり、その延長は22.5㎞に及び、東は鴨川、北は鷹ケ峯も西は紙屋川、南は九条あたりに沿って築かれました。土塁の内側を洛中、外側を洛外と呼び、要所にはいわゆる七口を設け、洛外との出入口としました。

 

御土居は、京都の沿革を知るうえに、また広く我国における都市の発達をたどる重要な遺跡として現在9ケ所が国の史跡に指定されています。

史跡 前回の記事 ➡ 史跡北026  御土居 6

 

関連記事 ➡ 御土居堀

          秀吉が造らせた御土居堀

 五七五

なんとなく続きが見たい夢がある /木口

 京都の俗諺(ぞくげん)

白川夜船(しらかわよふね) 知ったかぶりをするたとえ。また、ぐっすり眠ることもさす。「いらかわよぶね」とも。白川は鴨川へ注ぐ川幅が狭く浅い清流で船など通れない川。京へ行ったことのない人が、白川を船で通ったが、ぐっすり寝ていたためわからなかったと答えたことによる。あるいは、地名の白河(川)を聞かれて、川の名前と勘違いし、夜船で通ったが寝ていてわからないと答えた笑い話によるともいう。

 

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史跡上025  御土居  北野天満宮

2018年03月06日 17時16分48秒 | 史跡・旧跡

 

史蹟 豊太閤築造 御土居 

天正17年(昭和50年より386年前)豊太閤皇居を造営し、ついで京洛の区域を定めその境界、並、水防のため天正19年(昭和50年より384年前)諸侯に命じて京都の四囲に築造した大土堤の一部なり、 史蹟指定昭和40年10月27日

史跡 御土居

御土居は天下統一を成し遂げた豊臣秀吉公が、長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街地を守る堤防として、天正19年(1591)に多くの経費と労力を費やして築いた土塁です。台形の土塁と堀(堀の一部は川、池、沼を利用)からなり、その延長は22.5kmに及び、東は鴨川、北は鷹峯、西は紙屋川、南は九条あたりに沿って築かれました。土塁の内側を洛中、外側を洛外と呼び、要所にきいわゆる七口を設け、洛外との出入口としました。鞍馬口、丹波口などの地名はその名残です。京都の沿革を知るうえに、都市の発達をたどる重要な遺跡として「史跡」に指定されました。

豊臣秀吉公の都市遺構

史跡 御土居

御土居とは天正19年(1591)豊臣秀吉公が、長い戦乱で荒れ果てた京の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街を守る堤防として市内四囲約23キロにわたり築いた土塁のことです。御土居は当宮を含め9カ所、史跡として指定されていますが、特に北野天満宮境内の御土居は平安京の北西(乾)にあたる最も重要な箇所とされ、「切石組暗渠」が残存するなど、その歴史的重要性が指摘されています。

千有余年の昔、平安京の大内裏が現在の千本丸太町にあった頃、北野天満宮東側には西大宮川(松葉川)が流れており、その水は大宮御所の御用水として使用されていたことから、北野は特に清浄の地とされました。

天正19年、秀吉公は御土居を築くにあたり、この清浄なる境内に水が溜らないように、洛中で唯一この地だけに御土居を貫通する約20mもの暗渠(悪水抜き)を造り、境内神域を守りました。

昭和40年に「史跡」の指定を受け、悠久千年の都・京都の都市計画の重要な遺構として受け継がれてきた御土居は、四季を通じて魅せる紙屋川の美しい景観と共に境内西側に広がっています。

 

9か所の御土居

               都の出入り口  洛中・洛外の出入り口の石標

                水火天満宮  石柱と2つの石  6月9日NEW

1       北野天満宮    ➡  ポスター0063  北野天満宮 御土居の紅葉

                       御土居堀の深さを感じさせる場所

2       平野 鳥居前町  ➡ 平野鳥居前町の御土居 

3       紫野 西土居町  ➡  西土居町の御土居

                   金閣寺橋  紙屋川の深さと御土居堀  

4       鷹峯 旧土居町  ➡

5       鷹峯 旧土居町  ➡

6       大宮 土居町   ➡

7       紫竹 上長目町 ➡ 

8       蘆山寺 北之辺町  ➡ 廬山寺 内の 史蹟 

9       西ノ京 原町   ➡ 中京区西ノ京原町 (市五郎稲荷神社)の 御土居

          御土居掘  洛中・洛外の境界 道が盛り上がっています 

                 高山寺  日野富子が祈願成就・男児出産

史跡 前回の記事 ➡ 史跡中024  古高俊太郎 旧邸跡 池田屋事変につながる

 

五七五

手紙には健康ですと書いておく /中川

 

京都の俗諺(ぞくげん)

鰻の寝床(うなぎのねどこ) 

京都の町屋の異称。間口が狭く、奥行きが長い家のこと

 

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史跡中024  古高俊太郎 旧邸跡 池田屋事変につながる

2018年03月04日 19時55分09秒 | 史跡・旧跡

 

文久3年8月18日の政変は、攘夷についても穏健派であり、公武合体を専一と考えていた中川宮(青蓮院宮)と、会津・薩摩の合議によってなされた、過激派公卿と長州藩追放を目的としたクーデターであった。もっとも当時、孝明天皇御自身も、過激派に乗ぜられた大和行幸、神武帝陵参拝、春日社の礼拝につづく御親征という、幕府追討の親征に赴かれるという思召しはなかったので、このような軍議は全く廃されて、三条実美以下過激派の追放と、長州藩の洛中退去という結果になった。

そこで以後は長州藩の志士を中心とする尊攘の志士達は、巻返しを計り、政局を打開いるために、中川宮と会津藩を血祭りにあげようと、京都に潜入してその機会を狙っていた。

 会津守護職側も、尊攘志士達のこのような行動には十分警戒し、新選組などにも勤王の志士の行動の監視を命じた。ある日、宮部鼎蔵の下僕忠蔵が、南禅寺で新選組に捕えられ、ついに主人宮部の潜伏場所を白状したために、桝喜こと古高の家が新選組の探索を受けたという。

元治元年(1864)6月5日の早暁であった。ようやく梅雨も上がって、夏を迎え、祇園祭も間近になった頃、木屋町四条上ルの高瀬川沿いの(割木屋薪炭商)、桝屋喜右衛門が、突如踏み込んだ新選組に引き立てられて、牢屋に入れられた。桝屋は家探しされて、何やら悪事の証拠を新選組が持ち帰ったそうだ、と突然の出来事に町内の人たちは青くなった。

桝喜こと湯浅喜右衛門の店は、丹波世木村(肥後領)から積出される割木を主として扱っていたが、先代喜右衛門が労咳で死んだ後、江州出身の古高俊太郎正順が同志湯浅五郎兵衛の世話でその親戚の桝喜へ養子に入っていたのである。

古高は、父の周蔵の代から山科毘沙門堂門跡、一品慈性法親王に仕え、前は堺町丸太町下ルに住んでいた。古高は日本外史を読み、また鷹司家に奉公する妹から、朝廷と官臣の窮状を聞き、いよいよ勤王の志を固めた。

古高の家には、宮家の侍や公卿侍が集まり、勤王、攘夷、倒幕の密議をこらす集会所のようになるにつれて、幕吏の目をくらますために、自宅を骨董屋にした。たまたま店先に並べた家重代の宝刀が縁で、浪人梅田雲浜との交流が始まり、古高は以来、薩長土肥の浪士たちとの交わりも増えた。それについては彼は幕府側の目にとまり、ついには、外出もままならぬことになった。

そのような折であったから、桝喜への養子に入る話はもっけの幸いであり、早速に湯浅喜右衛門にまりすました。(万延2年3月)。木屋町四条上ルのこの家を本拠として、またぞろ勤王活動をつづけた。

桝喜の店の北側、高瀬の舟入を挟んで向こうの浜には、長州藩御用の小林嘉助の蔵があり、長州藩士の出入も多く、桝喜の宅ともども日下玄瑞、寺島忠三郎、乃美織江、平野次郎國臣、吉村寅太郎、藤本鉄石、藤村四(紫)郎、河田佐久馬など勤王家の連中が出入した。文久3年8月以降の古高は、幕吏の目を逃れて、一時上長者町の粟津右馬亮方に、1年半ほどひそみ、再び四条木屋町へ帰り活躍した。

元治元年に入ると、長州の吉田大二郎、岡田幸吉、内山太郎左衛門、佐藤一郎、山田寅之助、土佐の本山七郎、松尾甲之進、所山弥作、松山良蔵、肥後の宮部鼎三兄弟、松山重助、和州の大中主膳、沢井帯刀、作州の安藤鉄馬、ほか数十名は、古高俊太郎を謀主として、連判状に署名血判し、壬生の襲撃、朝廷への哀願、長藩の入京を計ることを決議した。以後の会所を長州藩の定宿池田屋と丹虎に定め、続々と同志の増加をみた。そして6月5日、池田屋に会合し、発動いる予定でした矢先、新選組の近藤勇の率いる30名の手入れとなった。

連判状は新選組の手に入ったのである。新選組手入れの報は、番頭の利助が河原町の長州藩邸へ駆けつけて知らせた。

吉田、宮部、松田ほかの浪士は5日夜池田屋に集まり、古高奪還の策を練っているところを、新選組に急襲された。池田屋事変がこれである。古高俊太郎は六角牢中で7月20日に殺された。

古高邸跡を示す石柱標は、元の場所から西へ入った所に移されて立っている。

関連記事 ➡  新選組 八木家

  寺院上0143  福勝寺  さくら寺、ひさご寺、ひょうたん寺 などと呼ばれています 

  寺院中0179  竹林寺  幕末、六角獄舎で処刑された勤王志士37名が眠る

  石碑中0019-12 日本近代医学発祥の地 かつ 平野國臣外数十名終焉の地(六角獄舎跡)

史跡 前回の記事 ➡ 史跡右023  芭蕉句碑 鳴滝

五七五

地下マグマ連鎖反応起こさねば /前中

京ことば ニヌキ ゆで卵。

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史跡右023  芭蕉句碑 鳴滝

2018年02月21日 07時12分47秒 | 史跡・旧跡

 

芭蕉句碑

鳴滝川 と 滝

何が書かれているのか 不明

裏面は  此の句碑は

鳴滝は「小松の里」とも「長尾の里」とも称し、古来風光明媚の地として多くの山稜や山荘が営まれた。村中を流れる鳴滝川(御室川)はこの地で瀑布となり、水声が遠くにまで鳴り響いたので、滝を鳴滝といい、村を鳴滝村と称するに至った。

江戸時代には文人の来客・閑居するもの多く、歌人打它公軌、儒者藤井懶斎桑原空洞三熊花顚、茶人山田宗徧などがいる。三熊花顚は、仁和寺の寺侍の子として鳴滝村に生まれた江戸中期の画家で、『近世畸人伝』は伴蒿蹊とともに花顚が著したものであり、挿画を描いている。その続編は花顚の遺稿を蒿蹊の妹(露香)が描いている。

松尾芭蕉が、奈良のお水取りを見学した後、三井秋風の鳴滝の山荘を訪ねたのは、貞享2年(1685)2月のこと。

白梅し昨日や鶴を盗まれし

と詠んだ。

秋風は京都の豪商三井家の養子で、俊寅といい、通称六右衛門といった。本宅は中京区室町御池上ルにあったが、鳴滝に花林園と号した別荘をかまえていた。

此の句碑は貞享2年2月 松尾芭蕉の鳴滝の三井秋風の別荘花林園に招かれて半月ばかり留杖した時の吟也

昭和56年4月

枯魚堂9世 小川峰風 再建立

鳴滝川の滝

対岸の岩の中に 石仏

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祠から 対岸の石仏を見る

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五七五

炉開や左官老行く鬢の霜 /芭蕉

京ことば ズシ (逗子・図子) 抜け路地 「あのズシ通ってミー

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建物下008  島原大門  

2017年12月21日 21時02分27秒 | 史跡・旧跡

2017年12月の記事

島原の大門は、道筋(どうすじ)と呼ばれていた中央の道の東端に位置し、かつては島原の正面でした。

島原は、寛永17年(1640)に六条三筋町から移されたわが国最初の公許遊郭で、四周は堀と塀で囲まれており、門は当初、その東辺北寄りに設けられていました。この門は、享保17年(1732)に西門が開かれるまでは島原の唯一の門で、明和3年(1767)に道筋正面の現在地へ付け替えられました。

当初の門の形態は不明ですが、享保14年の「洛西島原絵図」には、冠木門とその前に柳、道の両側には垣が描かれており、この時すでに門・柳・垣から構成されていたことがわかります。その後何度か建て替えられて、現在は慶応3年(1867)に再建されたものが残っています。『角屋』より

大門は、高麗門形式で東面し、親柱を棟まで立ち上げて柱間を冠木で固め、その上に蟇股を2つ置いて、切妻造、本瓦葺の屋根を載せています。大門の南と北には本瓦葺の袖塀が付き、南袖塀には潜戸が設けられています。北袖塀のもう一方の端からは屋根塀が斜めに延び、その前には「出口の柳」が植えられ、「さらば垣」がめぐらされて、当時の趣を伝えています。

この大門は、島原の地区を区切っていた門であり、島原の由緒を伝える地域の文化財として貴重です。

 

2015年9月の記事

 

 

 

 

 

 むっ  この島でなく 嶋を 山と鳥に 上下に分けて書いてある

原の 中  小 でなく  水 になっている 泉だ

 

 

 

昔のあった地の 町名の柳馬場と因んで柳が植えられている

 

島原

豊臣秀吉が京都を再興するに当たり、二条柳馬場に柳町の花街を公許したが、これが後に六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、六条三筋町として栄えた。

その後、京の町の発展に伴い、寛永18年(1641)、市街地の西に当たる当時の朱雀野に移った。正式名称は西新屋敷と呼んだが、その急な移転騒動が、時あたかも九州島原の乱の直後であったため、それになぞらえて島原と称されるようになった。

島原の傾城(遊宴のもてなしを公認された女性)の最高位である太夫の名称は、慶長年間、四条河原で六条三筋町の傾城が女歌舞伎を催したとき優れた傾城を「太夫」と呼んだことが始まりとされている。太夫道中は置屋から揚屋へ練り歩く様子という。

また、江戸時代の島原は単に遊宴にとどまらず詩歌連俳等の文芸が盛んで、

中でも俳諧は島原俳壇が形成されるほど活況を呈していた。京都市

 

 建物 前回の記事 ➡ 建物下007  輪違屋・わちがいや  かつて置屋だった

五七五

宿かさぬ火影や雪の家つづき /蕪村

ことわざ

禍独り行かず

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史跡伏022 淀城跡

2017年11月21日 20時59分02秒 | 史跡・旧跡

 

 

何のための石でしょう     城の礎石か

 

淀城の由来

徳川二代将軍秀忠は、元和5年(1619)の伏見城の廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水陸の要所であるこの淀の地に松平越中守定綱に築城を命じたこの地は淀船経営者、河村与三右衛門の屋敷地で、元和9年(1623)に着工、寛永2年(1625)に竣工した。伏見城の天守閣は二条城へ、二条城の天守閣は淀城へ移築されたらしい。翌寛永3年、秀忠・家光父子が上洛の途次にはこの城を宿所としている。

寛永10年(1633)松平定綱が国替えにより永井尚政が城主となり、寛永14年から2年がかりで木津川付け替え工事を行い、淀と納所の間の間の宇治川には「淀小橋」を架け、また淀と美豆村との間の木津川には「淀大橋」が架けられた。その後、寛文10年(1670)石川定之、宝永8年(1711)松平光煕、松平乗邑と替わり、享保8年(1723)5月、春日局の子孫である稲葉丹後守正知が下総佐倉から淀へ移り、明治維新までの百数十年間、この淀城は稲葉氏10万2千石の居城であった。

鳥羽・伏見の戦いのとき、鳥羽街道(大阪街道)や伏見から敗走してきた幕府軍の兵士が、やっとの思いで淀までたどりつき、淀城に入ろうとしたが城門は閉ざされていた。淀藩が幕府軍の入城を拒否したのである。敗残の兵士はやむなく大阪城まで行かねばならなかった。そして慶長4年(1868)1月5日、薩長軍が淀まで進出すると、今度は城門は開かれ、薩長軍を迎え入れたのである。このとき淀藩は幕府を見限っていた。

江戸時代の淀城は周囲に二重三重の濠をめぐらし『淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると』のうたで名高い水車は直径8メートルもあり城の西南と北の二ヵ所に取付けられていた。淀城とその城下町の盛観は延享5年(1748)5月2日に来着した朝鮮通信使(将軍への祝賀使節)の様相を移した「聘礼使淀城着来図」に詳しく描かれている。

昭和62年夏に天守台の石垣解体修理に伴い、発掘調査が伏見城研究会によって行われ大小の礎石を含む石蔵が発見された。これは四隅に櫓を持つ白亜五層の天守閣の地下室と基礎であり、宝暦6年(1756)の雷火で炎上いる以前の雄姿を偲ばせるものである

なお秀吉が天正16年(1588)淀城を修築し、ここに愛妾淀君を囲ったことから、淀の地名は有名になった。淀君ゆかりの淀城は現在の淀城跡ではなく、この位置から北方約500メートルの納所にあったと推定されている。

京都市

 

山城の国 淀藩主 永井尚政の指示で家老 佐川田喜六らに水車を作らせ宇治川より城内に水を引きいれるようにした。仲間として「石川丈山」「松花堂昭乗」「小堀遠州」「本阿弥光悦」などがいた。佐川田喜六は一休和尚を慕い晩年は一休寺のそばに庵を結び生涯を終えたそうだ

はすの花の名前 「淀姫」

1995年全国はすの会で淀姫と命名されました。約260年前よりこの地にあるとのことです。明治18年頃にこの堀に植えられました。淀観光協会

淀城趾 松昔嵐(しょうせきらん)  「松の木の名前」

昭和38年12月18日 棟方志功がこの地を訪れ松の名前を付け 松画に残す

淀城に徳川家よりあずかりの品

国宝 曜変天目茶碗(南宋時代)

 

 

 

高架は 京阪電車

 

城内を見下ろす

関連記事 ➡  ゆかりの地 朝鮮通信使

          まち歩き伏0656 京阪電車 淀駅前の水車

          石碑伏0140  明治天皇御駐蹕之址

          石碑伏0141  喜界・淀 姉妹提携記念

          石碑伏0142  淀城址

                   石碑伏0143  慰霊碑  淀町出身戦没者

                   石碑伏0144 田辺治之助 君記念碑

          神社伏0118  稲葉神社

          御大典伏015  紀念植樹 淀城址内

史跡 前回の記事 ➡ 史跡大津021  寺田屋 お登勢の実家は 大津にあった

五七五

初雪やはじめて見たる淀城址 /虚子

名ばかりの淀の城址や大根蒔く /暁明

枯芦に日ざしとどかず淀城址 /青峨

ことわざ

舟に刻みて剣を求む

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史跡大津021  寺田屋 お登勢の実家は 大津にあった

2017年04月11日 05時58分18秒 | 史跡・旧跡

 

升屋跡

お登勢 文政13年(1830)~明治10年(1877)

墓所 京都市伏見区鷹匠町 松林院墓地

お登勢は大津の公事宿「升屋」を経営していた山本重助の次女で、伏見の船宿「寺田屋」六代目主人寺田屋伊助の妻となった。以後、寺田屋はお登勢が切り盛りして多くの幕末志士の面倒をみた。

元治元年8月1日(1864年9月1日)京都の青蓮院塔頭「金蔵寺」でお龍と内祝言をあげた坂本龍馬は寺田屋お登勢にお龍を託す(お龍の回想録『反魂香』)。慶応2年1月23日(1866年3月9日)深夜、龍馬は寺田屋で伏見奉行所捕方の奇襲を受け手傷を負いながらも逃げのびて、以後お龍と行動を共にする。この間約1年半、お龍はお登勢のもとで暮らしていた。そのお登勢の実家「升屋」がこの地にあった。丸屋町宗門人別改帳からお登勢とその家族が確認できる。

関連記事  ➡     史跡伏019  寺田屋 坂本龍馬ゆかりの宿

           お登勢の墓所  寺院伏0307  松林院 

史跡 前回の記事  ➡  史跡東020  夢の浮橋 跡

 

五七五

診察券 今年も1枚多くなり /浜田

ことわざ

芋頭でも頭は頭(いもがしらでもかしらはかしら)

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