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石碑右0175  山内女人禁制  ?

2018年11月10日 06時32分27秒 | 石碑

 

 

人禁制 関連記事 ➡  石碑中0166 池田屋騒動址

                 寺院右0221  念佛寺  1200年前、伝教大師の母がこの地で過ごし亡くなる

石碑 前回の記事 ➡ 石碑右0174  茶山栂尾  宇治茶発祥地 

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石碑右0174  茶山栂尾  宇治茶発祥地 

2018年11月06日 11時11分15秒 | 石碑

 

 

 

臨済宗開祖栄西(1141~1215)は宋から茶の種を請来した。それを授けられた高山寺開祖明恵(1173~1232)が,栂尾の地に植えたところ,地味がよく優れた茶を産したという。

栂尾の茶は本茶と呼ばれ,鎌倉・室町時代には毎年禁裏と将軍家に献上するのを慣例とした。

 

石碑前回の記事 ➡ 石碑山0173 明治天皇御遺跡

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石碑山0173 明治天皇御遺跡

2018年08月18日 11時22分54秒 | 石碑

 

 

この石碑は、明治元年9月明治天皇御東幸の際、同2年3月の御還幸及び、同11年10月の御還幸の3回に亘って、古く戦国時代より東海道の茶店、宿場又本陣として洛東山科の名刹 毘沙門堂御領地内にあった「奴茶屋」に御駐輦されたことを記念して建立されたものである。

 

明治天皇(1852~1912)は,明治元(1868)年9月の東幸,同2年3月の還幸,同11年10月の還幸の途中,毘沙門堂領地内で東海道沿いのこの地にあった茶店奴茶屋に駐輦した。奴茶屋は,片岡丑兵衛という勇猛な弓の達人が,街道に出没した盗賊を討ち取り,文安4(1447)年,茶店を建てて旅人を送迎したことにはじまると伝える。以後,茶店,宿場,本陣として利用された。この石標は,明治天皇が立ち寄った奴茶屋を示すものである。なお,奴茶屋は,平成(1994)年に山科駅前再開発に伴い建物を取り壊し移転した。

関連記事 ➡  関連0004 明治天皇 行幸地 など

石碑 前回の記事 ➡  石碑山0172  山階寺跡(推定地)  五条別れで

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石碑山0172  山階寺跡(推定地)  五条別れで

2018年08月08日 05時21分26秒 | 石碑

 

山階寺は7世紀後半、藤原鎌足により創建された寺院。中大兄皇子(天智天皇)と共に大化改新を成し遂げた鎌足の「山階陶原家」附属の持仏堂が始まりと推定される。

奈良時代の興福寺に関する史料には、「鎌足は改新の成功を祈って、釈迦三尊像・四天王像を造ることを発願した。事が成就した後、山階の地で造像を行った。やがて重病になり、妻の鏡女王の勧めで伽藍を建て仏像を安置した。これが山階寺の始まりである」と記されている。

その所在地は大宅廃寺せつ中臣遺跡説もあるが、山科駅西南、御陵大津畑町を中心とした地域にあったとする説が有力である。付近から有力な遺跡は見つかっていないが、この辺りは大槻里と呼ばれ、西隣の陶田里にかけてが陶原であったらしい。鎌足の子の不比等が育った「山科の田辺史大隅らの家」も近くにあった。山階寺はその後、大和に移り厩坂寺と呼ばれ、更に平城京に移り興福寺となる。このため興福寺は山階寺とも呼ばれた。天智天皇の腹心であり、藤原氏の始祖となる鎌足は、山科と深い関係があったのである。

石碑 前回の記事 ➡ 石碑北0171  大田子屋敷

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石碑北0171  大田子屋敷

2018年07月08日 06時05分16秒 | 石碑

 

大田子屋敷  ときされています  

 

石碑 前回の記事 ➡ 石碑左0170  国旗掲揚臺  昭和12年

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石碑左0170  国旗掲揚臺  昭和12年

2018年06月23日 05時53分44秒 | 石碑

 

 

昭和12年9月 石橋町

 

石碑 前回の記事 ➡ 石碑左0170  忠魂碑  日露戦争・大東亜戦争

                             石碑左0169  静原神社前  読みにくい

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石碑左0170  忠魂碑  日露戦争・大東亜戦争

2018年05月14日 21時08分19秒 | 石碑

 

 

日露戦争  2名

大東亜戦争 28名  が記されています

 

石碑 前回の記事 ➡  石碑左0169  静原神社前  読みにくい

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石碑左0169  静原神社前  読みにくい

2018年05月14日 09時51分40秒 | 石碑

文政 と読めそうなのだが 

石碑 前回の記事 ➡ 石碑左0168 江文神社 が近い

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石碑左0167 西之村霊神之碑

2018年05月07日 18時05分18秒 | 石碑

西之村霊神之碑

大原の里では「おつう」の悲しい伝説がある。その中で蛇身となったおつうが退治された。あと里人が頭を「乙が森」に 尾を「花尻の森」にそして胴をこの地に埋めて霊を鎮めたという。今でも江文祭(5月4日)と八朔祭(9月1日)の日には地元の僧侶が手厚く供養を続けている。

花尻の森

大原村井手の大淵という池に悪蛇がいて、ときとぎ村にあらわれて人を害するので、村人によって退治された。その蛇の尾を埋めたところといい、頭の方は寂光院近くの草生村(草生町)に「おつうが森」に埋めたといわれる。

 

石碑 前回の記事 ➔ 石碑中0166 池田屋騒動址

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石碑中0166 池田屋騒動址

2018年04月25日 11時27分26秒 | 石碑

 

維新史跡 池田屋騒動之址

京都市教育會 寄付者 昭和2年11月 佐々木フサ

 

池田屋外観

明治時代の池田屋

改装はしているものの騒動当時のままである。

池田屋2階内部

映画「蒲田行進曲」で有名な「階段落ち」の階段上部土方役の銀ちゃん(風間杜夫)に倒幕派浪人役のヤス(平田満)が斬られ、階段から転がり落ちる階段。この映画に「ヤス」のモデルになった俳優(故汐路章)も出演していました。

 

池田屋の見取り図

 

池田屋騒動顛末記

文久3年(1863)嵐のように吹き荒れた尊攘派の倒幕運動も沈静化の兆しを見せ始め、幕府は市中の治安回復に向け、なお一層の取締りを行っていた。その先鋒を努めたのが、京都守護職直属の新選組でした。

元治元年(1864)6月5日(祇園祭宵々宮 現7月15日)早朝、新選組は、かねてより探索していた、四条小橋西で薪炭商を営む桝屋喜右衛門こと、古高俊太郎を捕えた。実は古高は、倒幕派の近江郷士で土蔵から武器や具足が発見された。

古高を壬生屯所に連行し、土方が厳しく取り調べた結果、御所を焼打ちし守護職の松平容保を襲う計画が発覚する。近藤は、直ちに守護職、所司代、奉行所、会津藩に通報し、夜五つ刻(9時ごろ)に祇園会所で会津藩兵と待ち合わせる。しかし、会津藩は約束の五つになっても来ない。

痺れを切らした新選組は、浪士狩りを一刻の猶予も出来ないと近藤隊は鴨川西側木屋町を北へ、土方隊は鴨川東側縄手を北へと二手に別れて潜伏場所の茶屋、商家、旅籠等を御用改めして行った。一方、古高が連行されたことを知った倒幕派は、新選組の屯所を襲撃し、古高を奪還すべしと主張し潜伏中の倒幕派に、三条小橋西の「池田屋」に集合するよう廻状が送られ、長州藩士桂小五郎も池田屋に来たが早く来すぎて、池田屋裏の対州藩邸に寄っていたので難を逃れたと言う。

近藤隊が三条小橋付近についたのが10時頃、一軒の宿屋「池田屋」に明かりが漏れていることに不信を抱き、10名のうち、6名で表口、裏口をかため、近藤、沖田、永倉、藤堂の4名で屋内へ。近藤は、宿の者に「御用改め」であると告げると主人池田屋惣兵衛が慌てて二階に駆け上がり、後を追って近藤が二階に上がると、そこには集会中の諸藩の倒幕派20数名がいた。

沖田が立ち向かってきた男を斬り、すぐに乱闘になった。屋内で闘う者、二階から外に飛び降りる者、階段を駆け下りる者、これを隊士が迎え撃つ。途中から土方隊らが加わった。闘いは3時間ほど続き、近藤隊からは1名死亡、藤堂、永倉が負傷し、倒幕派は肥後藩士、宮部鼎蔵他6名が斬死した。

一方、予定時間を大幅に遅れて会津藩兵500名が到着したころには、すでに戦いは終わっていました。この事件で倒幕が1年遅れたと言われるほど、尊攘派は大きな痛手を被りました。一方、この事件によって新選組の勇名は世に轟くことになったのです。

 

池田屋騒動への道程

 

池田屋騒動の殉難者たち

古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)36歳、近江出身「守山市古高町」攘夷派に傾倒し、梅田雲浜を師事。新選組に捕えられ、壬生屯所で拷問を受け、志士たちの陰謀を白状した。7月20日、六角牢で斬死。墓碑・福勝寺(上京区出水千本西入)古高町に顕彰碑。

宮部鼎蔵(みやべていぞう)45歳、肥後藩熊本藩士「熊本県上益城郡御船町」清河八郎に傾倒した。京都の志士達のリーダー格。近藤勇を相手に奮闘したが、深手を負い力尽きて、自害。6月5日墓・三縁寺(左京区岩倉花園町)御船町に顕彰碑

 

北添佶摩(きたぞえきつま)30歳、土佐出身庄屋。土佐勤王党に入り、坂本龍馬と蝦夷開拓。池田屋階段上で最初に近藤勇に頭から肩へ一文字に斬り下ろされ闘死。6月5日。墓・三縁寺。

大高又次郎(おおたかまたじろう)44歳。播磨林田藩士。梅田雲浜を師事。忠臣蔵・大高玄吾の子孫・池田屋にて闘死。6月5日。墓・三縁寺。

 

松田重助(まつだじゅうすけ)45歳。肥後熊本藩士。宮部鼎蔵に師事し、攘夷派。池田屋にて重傷を負い闘死。6月5日。墓・三縁寺

 

吉田稔磨(よしだとしまろ)24歳。長州藩士。吉田松陰を師事。黒船を見て、江戸・京都で倒幕運動に。池田屋にて奮闘したが、長州藩邸で斬死。6月5日。墓・三縁寺

 

広岡浪秀(ひろおかなみひで)24歳。長州出身の神官。池田屋にて重傷を負い三条河原町まで逃れたが絶命。6月5日。墓・三縁寺

 

杉山松介(すぎやましょうすけ)27歳。長州藩士。吉田松陰を師事。久坂玄瑞や真木和泉らと尊攘運動に。池田屋にて永倉新八に小手を打落され、藩邸まで戻ったが、出血多量で翌日死亡。6月6日。墓・三縁寺

 

望月亀弥太(もちづきかめやた)27歳。土佐藩士。勝海舟神戸海軍塾に入門後、坂本龍馬と蝦夷開拓。池田屋にて奮闘後、二階から出たが会津兵と戦い重傷を負い、角倉邸前で自害。6月6日。墓・三縁寺

 

石川潤次郎(いしかわじゅんじろう)29歳。土佐藩士。武市瑞山を師事。土佐勤王党。黒谷三条家別邸謹務。望月亀弥太を訪ねて、池田屋へ行く途中、三条大橋高札場あたりで闘死。6月5日。墓・三縁寺

 

福岡祐次郎(ふくおかゆうじろう)伊予松山藩士。若くから尊攘派。三条実美衛士。池田屋にて闘死。6月5日。墓・霊山

 

池田屋惣兵衛(いけだやそうべえ)42歳。天保年間より三条小橋西詰で営業する旅籠「池田屋」の主人。長州藩定宿で長州びいき。近藤勇に殴られ、目が覚めると妻子を向かいの家に預け隠れたが、翌日、投獄される。6月13日、牢内で病死。浄円寺(上京区下立売七本松西)

 

新選組隊士

奥沢英助(おくざわえいすけ) 文久3年入隊。池田屋にて闘死。6月5日。墓・壬生寺

 

安藤早太郎(あんどうはやたろう)25歳。京都出身。文久3年5月入隊。副長助勤。池田屋にて負傷し、7月22日死亡。墓・壬生寺

新田革左衛門(にったかくざえもん) 元治元年入隊。池田屋にて負傷し、7月22日死亡。墓・壬生寺

 

その他、志士で池田屋で負傷し後日死亡した者や、捕らわれ六角牢で死亡した者、禁門の変で戦死した者、山崎天王山で自害した者を列記します。

長州出身

  有吉熊次郎・23歳、佐伯稜威雄・42歳、佐藤市郎・41歳、山田虎之助・42歳

 

肥後出身

  高木元右衛門・32歳、中津彦太郎・30歳、宮部春蔵・27歳

 

土佐出身

 伊藤弘長・27歳

 

播磨出身 

 大高忠兵衛・42歳

 

但馬出身

 今井三郎右衛門・46歳

 

美作出身

安藤鐵馬・22歳

 

上州出身

南雲兵馬・29歳

 

京都出身

西川耕蔵・43歳

 

越前出身

吉田五郎・35歳

池田屋騒動址

元治元年(1864)旧暦6月5日「祇園祭り宵々山」、四条小橋の古高俊太郎を捕え厳しく取り調べた結果、倒幕派がクーデターを起こす計画を知った新選組は、三条小橋西詰北側の旅籠「池田屋」で密議中の長州、土佐、肥後各藩の尊王攘夷派志士約20名を、近藤勇率いる新選組10名で襲撃し、多くの死傷者を出しました。この事件で倒幕が1年遅れたといわれるほど、尊攘派は大きな痛手を被りました。一方、新選組はこの事件の手柄を機に、一躍名をあげました。

池田屋騒動殉難者供養の日

7月15日(旧暦6月5日・祇園祭宵々山)は池田屋騒動が起こった日です。当三条小橋商店街ではこの日を「池田屋騒動殉難者供養の日」と定め倒幕派・新選組・佐幕派という区別をせずに、国を憂い、近代国家の礎になった方々を供養する日としました。焼香台を設けましたので、ご自由にご焼香して頂き、静かに手を合わしてください。

昭和初期の三条小橋

上部の写真は昭和4年以前の三条小橋の情景です。江戸時代より、木屋町~河原町間の三条通りは現在より道幅が狭く、現在の河原町以西の道幅と同じでした。

又、小橋右側(北側)の旅館『吉岡家』は、江戸時代から続く旅館です。「幕末浪士組」を結成し「新選組」の基礎を作りその後、新選組と袂を分け、江戸の警護をして有名な庄内藩士『清河八郎』が安政2年に書いた紀行文「西遊草」のなかで、三条小橋かたわらの「吉岡や」に泊まったと記してあります。また、左側のアールデコ風の出窓がある旅館も江戸時代から続く「大津屋」(現在は有名な建築家安藤忠雄によるタイムズビル)で、池田屋騒動の「池田屋」は、まだ、この当時までは、建物は残っていました。

又、「京城勝覧」(儒学者・貝原益軒著1630~1714)のなかに「三条小橋高瀬川にわたせり。此下より舟にのり伏見にゆく。此邊より大橋の際まで旅篭屋多し。」と当時の三条小橋周辺を紹介しています。

高瀬川生洲

この絵図には高瀬川の両岸に三条、二条間で、江戸中期から栄えた生洲料理屋が描かれています。鯉、鮒、鰻などの川魚や鴨などを生洲や庭に飼っておいて生鮮な料理を提供し大変繁昌しました。京の人のみならず、観光客も楽しみました。酒は出しましたが、女人禁制で、琴・三味線等の音曲も禁止の男性だけの清遊の場でした。絵図の右端、板の間の向こうに生洲があり、魚が泳いでいるのが見えます。今もこの周辺には飲食店が軒を連ねていて、大いに賑わう生洲料理店の発祥の地です。

関連記事 ➡ 新選組 ゆかりの地  

石碑前回の記事 ➡ 石碑右0165   名勝 史蹟    妙心寺庭園

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石碑右0165   名勝 史蹟    妙心寺庭園

2018年04月23日 07時14分19秒 | 石碑

昭和6年7月 文部大臣 指定  

史蹟名勝天然記念物保存法に依り

三門 前の 境内

関連記事 ➡  まとめ024 妙心寺

石碑 前回の記事 ➡ 石碑左0164  記念林

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石碑左0164  記念林

2018年04月17日 17時28分35秒 | 石碑

 昭和51年3月 植栽花尻

記念林 4町歩 植栽寄附 坂本 山

 石碑 前回の記事 ➔ 石碑左0163  叙勲記念植樹  

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石碑左0163  叙勲記念植樹  

2018年04月09日 19時38分10秒 | 石碑

 

昭和49年4月20日  赤松

石碑 前回の記事 ➔  石碑左0162  若山牧水と本覚院

五七五

年金で暮らせば大抵エコライフ /中野

京菓子

真盛豆 香ばしく炒った黒豆を州浜粉で包み、表面に青海苔をまぶしたもの。真盛のいわれは明応年間(1492~1501)にさかのぼる。天台宗真盛派の開祖、慈摂大師(真盛上人)が北野で辻説法をする時、炒った黒豆に乾燥させた大根の葉をかけ、聴衆にふるまったのが始まりという。北野大茶湯で豊臣秀吉が茶事合う豆菓子として褒めたこともあり、現在も茶人に好まれる。

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石碑左0162  若山牧水と本覚院

2018年04月08日 09時42分01秒 | 石碑

 

 

旅と酒の歌人、゛若山牧水゛は大正7年5月に登叡。この西塔 ゛本覚院゛に一週間滞在し、選歌や原稿をつづりて山に遊ぶ

比叡山の

古りぬる寺の木がくれの

庭の筧を聞きつつ眠る   牧水

 

当時の゛本覚院゛は荒れ果て伊藤孝太郎という寺男が独り住む。牧水と寺男は夜ごと杯を傾けてお互いの人生を語りあった。

 

若山牧水(明治18年~昭和3年)

宮崎県東郷町出身。旧制延岡中学~早稲田大学。歌誌「創作」を編集。生涯約6900首を詠む。「牧水歌碑」は全国各地に約200基を数える。

 

本覚院

現在は「学寮」の名称で一般公募の修行僧の宿舎となっている。「庭の筧」は今も残る。

 俗に「西塔のお大師さん」とよばれ、元三大師像を祀る。像は右手に珠数をもち。左手に独鈷をもって座し、数多い元三大師像のなかでも優れているといわれている。当院より出される護符は、「角大師」とよばれ、悪疫・除難に霊験があるといわれ、古くから信仰されている。

 

 

石碑 前回の記事 ➔  石碑左0161  元三大師得度之霊跡

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石碑左0161  元三大師得度之霊跡

2018年04月06日 11時40分22秒 | 石碑

 

元三大師 まとめ ➔ まとめ018  元三大師 (慈恵大師)

石碑 前回の記事 ➔ 石碑左0160 圓教院舊跡 

五七五

孫とするオセロ手加減せず負ける /小野

京菓子

嘉祥菓子(かじょうがし) 陰暦の6月16日、嘉祥喰いの儀式にちなみ食べる菓子。室町時代から江戸時代にかけて、嘉祥菓子を食べる風習が一般庶民に普及した。嘉祥の起源は不明だが、厄除けのためのものといわれ、江戸幕府では重要な儀式の1つであった。

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