アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

橋本関雪 白沙村荘

2015年08月31日 13時50分23秒 | 建築物・明治・大正など

橋本関雪 白沙村荘

近世京都画壇の画家橋本関雪が大正5年(1916)につくった邸宅。

周りは田畑であったので白沙村荘と名付けた。

関雪は明治16年(1883)神戸の儒家に生まれた。

竹内栖鳳に師事した。大東亜戦争には従軍画家として南方に派遣された。

昭和20年(1945)2月に亡くなった。墓は大津の月心寺にある。

疎水べりにある約300本の桜は、関雪夫人の寄贈によるもので、世に 関雪桜 と呼ばれている。

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銀閣寺 寺号標と石碑等

2015年08月31日 11時40分52秒 | 寺院

史蹟 慈照寺(銀閣寺)舊 境内

 

 

昭和17年11月建設  太平洋戦争中だ

 

銀閣寺 開祖

将軍義政公御近習頭(中尾城矢倉殿采配)

世續左衛門丞宗竹入道(殉死) 拝領跡

 

・・・・山 銀閣寺 だろうか

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道標・大文字山・鹿ケ谷方面  銀閣寺にて

2015年08月31日 09時33分52秒 | 道標

左  大文字山・北白川方面

右   鹿ケ谷、岡崎方面

 

 

京都市観光課

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銀閣寺橋と白川、哲学の道

2015年08月30日 19時32分06秒 | まち歩き

 

 

大正11年2月 竣工

この橋を渡り突き当りが 銀閣寺

右へ行くと 哲学の道

 

白川 

  川床は白砂でした

 

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八神社

2015年08月30日 08時55分18秒 | 神社

当社、延喜年間もしくは大同年間の創立と伝えられる。

ただし所伝焼亡し明らかでない。住吉は八所大明神十禅師大明神と称す。

本社の大神様は万物を生み育て繁栄させると共に人の心を清め、

正しく導きお守り下さる神様です。旧浄土寺村の總氏神として崇敬されている。

境内社

稲荷社 創立年代不詳 五穀豊穣を司る稲倉魂命を祀る

雨之社 創立年代不詳 山林、水を司る 高龗神を祀る  (由緒書きより)

 

 

第1鳥居  大正13年10月建立

 

社務所

第2鳥居

手水舎

八神社  明治44年2月 建立

明和元年(1764)

狛犬

 

 

雨社 

石鳥居は昭和3年11月建立  昭和御大典と同じ年

 

 

樹下稲荷大明神

 

 

拝殿

 

狛犬

 

本殿

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大文字寺 (浄土院)

2015年08月30日 06時30分33秒 | 寺院

大文字寺(浄土院)

如意ヶ嶽(大文字山)の大文字送り火を管理している寺。

というのが通称名の由来です。護摩木や松割木が多くの人から寄せられる。

現在の浄土院は浄土宗で、江戸中期の享保7年(1722)の建立です。

ルーツは平安時代の浄土寺にまでさかのぼる。

この寺は、戦国時代まで続いた天台宗の大寺院で、現在も近くの地名にその名が残っている。

応仁の乱で焼けてしまい、跡地には足利義政が別荘の東山殿を造営し後に銀閣寺となる。

これと別に浄土寺の名称を受け継ぐため浄土院が建立されました。

本尊・阿弥陀如来

本堂に義政公寺念仏(鎌倉仏)、旧浄土寺の阿弥陀如来坐像(藤原期)、

文殊菩薩が安置されています。

 

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関連記事  ➡  左大文字・法音寺

       京の通称寺  39ヶ寺

 


石川丈山先生旧蹟詩仙堂   道標・今出川北白川にて

2015年08月30日 05時52分55秒 | 道標

石川丈山先生旧蹟詩仙堂   北十二丁

 

 

 

大正十四年十二月   京都三宅安兵衛の遺志に依りて之を建つ

関連記事 ➡   三宅安兵衛の道標

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駒札・銀閣寺 境内図

2015年08月30日 00時06分02秒 | 寺院

 

慈照寺(銀閣寺)

東山慈照寺と号する臨済宗相国寺派の寺で、

足利義政公の隠居所「東山殿」を遺命によって寺としたものである。

平成6年(1994)に世界文化遺産に登録された。

東山殿は、文明14年(1482)から建設が始まり、

東山文化の粋を尽くした数々の仏殿、

住宅や庭園が造られた。

しかし、永禄元年(1558)の兵火により観音殿(銀閣)と東求堂(ともに国宝)を残して建物が焼失し、

元和元年(1615)に現在の寺観が整えられた。

銀閣は、延徳元年(1489)建立の柿葺二層建てで、

下層は心空殿と呼ばれる書院造の住宅、

上層は観音像を安置する潮音閣と呼ばれる禅宗禄仏殿となっている。

実際には銀箔は貼られなかったが、北山鹿苑寺の金閣に対し、一般に銀閣と呼ばれている。

金閣に比べて枯淡幽雅な特色が見られ、東山文化を代表する名建築である。

東求堂は、文明18年(1486)建立の義政公の持仏堂で、

日常生活のための住宅の遺構としは最古のものといわれ、

内部には仏閣や同仁斎などがある。

同仁斎は茶室の原型・源流ともいわれるが、元来は書斎である。

庭園(国の特別史跡および特別名勝)は、

西芳寺(苔寺)の庭園を模して義政公が作ったものといわれ、

上段石組、下段池泉回遊式の二段から成り、銀閣とよく調和した名園である。(京都市駒札)

 

 

このようなものも ありました

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関連記事 ➡ 室町御所


正定院  浄土宗

2015年08月29日 09時26分32秒 | 寺院

浄土宗の寺

 

 

 

 

 

 

ちご地蔵尊

寺号標  大正15年建立

 

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広い境内の知恩寺  「百万遍」 名付け親は後醍醐天皇

2015年08月29日 06時55分39秒 | 寺院

知恩寺

浄土宗鎮西派4箇山本山の1つ。俗に「百万遍」の名で知られる。

当時は慈覚大師の開創といわれ、丈六釈迦如来を安置していたことから

「今出川の釈迦堂」とも「賀茂の河原屋」とも呼ばれた。

法然上人は賀茂社を崇敬のあまり、当寺を念仏の道場とし、寺名を功徳院知恩寺と改めた。

知恩院とともに浄土宗にとってはもっとも由緒の古い寺院の1つである。

百万遍といわれるのは、元弘元年(1331)天下に疫病が流行したとき、

当寺の8世善阿空円が勅命をうけ、7日間禁中に於いて修法を行い、

唱名百万遍に及んだところ、疫病がたちまち止んだので、

後醍醐天皇から「百万遍」の号を賜ったという。

永徳2年(1382)足利義満が相国寺の建立にあたって、

一条油小路の北(上京区元百万遍町)に移った。

応仁・永正の兵火に罹災し、寺地を転々としたが、寛文2年(1662)現在の地に再興された。

法然上人43歳の像を安置した御影堂。など多くの堂宇がある。

猫間塚

平安時代後期に顕栄した勧修寺の祖、猫間中納言清隆の墓。

 

什宝として 平清盛愛用の「松蔭硯」、 顔輝筆「蝦蟇鉄拐図」、 

「善導大師像」は現存大師像中で最も古いもの。

 

墓所には 法然廟後西天皇皇女の墓、

伏見城を死守した桃山時代の武将鳥居元忠

秀吉の軍師の竹中半兵衛重治、

皇宮造営の朝山日乗

画家の土佐光起

出雲路敬和の墓がある。

 

表門

 

百万編念佛根本道場

 

御影堂

 

鎮守社

 

 

 

阿弥陀堂

 

 

手水舎

 

 

 

 

鐘楼

 

 

 

 

鴨明神社

 

 

 

 

百萬弁財天

 

 

 

 

 

 

方丈

 

 

御影堂

 

平成27年8月12日 撮影

 

阿弥陀経石

本堂前にある。平重盛が平家一族の後生安堵のため、

宗国へ砂金を送った返礼として宗国より九州宗像大社へ送られてきたものを、

正徳4年(1714)に模刻したものと伝わる。

洛東小松谷の正林寺の経石とともに、

京都市内の現存する阿弥陀経石2個のうちの1つである。

 

 

 

本堂(釈迦堂)

 

扁額

 

塔頭  龍見院

 

 

 

塔頭  瑞林院

 

塔頭  如意寺

 

了蓮寺

塔頭ではない。阿弥陀如来板碑がある。京都市に現存する3枚碑の1つとされる。

 

塔頭  養源院

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