アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数4800 ミニ・テーマで京都をめぐります 随時記事更新中

人物021 今尾景年

2018年07月03日 05時51分51秒 | 人物数々

 

1  右書き看板   樹瓢   大正9年創業 建物は登録有形文化財

2  函谷鉾  天井に鶏の絵   祇園祭

3   道標左0176 今尾景年 墓所

京都市中には、呉春円山応挙岸駒などの居宅跡があって、石標が建っている。明治・大正時代には、その門下の画家たちがたくさん住まいしていた。

景年は鈴木門下に入り、精緻な画風で知られ、同門の松年久保田米僊らと並び称された画家である。

明倫学区の御倉町(三条通烏丸西入ル南側)に、円山派の今尾景年(1845~1927)が住んでいた。同町の『千總』の主人が、景年の技量を早くから認め、岸竹堂が描いていた刺繍の原画を景年にも描かせていたといわれる。

景年は衣棚二条上ル西側(梅屋学区)の悉皆屋今尾猪助の三男として生まれた。子どものころから絵を器用に描くので、家業の上絵の手伝いをしていたという。景年は上絵だけでは満足せず、どうしても絵師になって本絵を描きたいと願っていた。

その景年の作品が元富有校(中京区)に残っていた。同校の30周年記念(明治33年)を祝って、景年自身が寄贈したと伝わっている。「不老図」あるいは「松芝萬年図」ともいわれている。

また、聚楽校(上京区)には、師匠の鈴木百年の実子である松年と景年が二人で描いた墨画淡彩の「和漢故事人物図」が押絵張屏風6曲一双に仕立てられて残っている。

 

 

年譜

弘化2年(1845)8月12日、衣棚通二条北入ルに於いて悉皆業を営む今尾猪助の三男として生まれる。名は永勧、幼名を猪三郎といい、字を子裕と称した。

景年のほかに卿自斎という号もあった。

 

 

 


人物019 和泉式部

2018年06月12日 05時49分32秒 | 人物数々

 

978年頃~1048年頃 平安時代中期の女流歌人。美人で多感な、情熱あふれた歌人として知られる。越前守をつとめた大江雅致のむすめで、はじめ和泉守橘道貞の妻となって小式部内侍を生んだが、冷泉天皇の第3皇子為尊親王と恋愛し、親王の死後はその弟の敦道親王の愛情を受け、夫から去った。敦道親王とも死別したのちは一条天皇の中宮彰子に仕え、また藤原保昌と再婚したが、不和のため離別した。晩年は小式部内侍とも死別し、出家するなど不幸であった。歌は『新古今和歌集』などにのせられており、情熱をそこにひめたものが多い。そのほか『和泉式部集』『和泉式部日記』がある。

「あらざむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびのあふこともがな」(病気であの世にゆく前に、この世の思い出にもう一度お会いしたいものです)の歌が『百人一首』の中にある。

 

ゆかりの地 

1  寺院中0067  誓願寺  浄土宗西山深草派  H28.5.9画像追加

2  神社東0085 田中神社

3  和泉式部 誠心院 真言宗泉涌寺派

4  ポスター0013  和泉式部忌法要  誓願寺  6月18日

5  神社左0137 貴船神社

6  まち歩き左0817 蛍岩

   

 

 


人物018 清少納言

2018年05月27日 21時51分42秒 | 人物数々

    清少納言の名が出てくる 記事一覧

 

1   神社右0012-2  車折神社  表参道 第3鳥居から 本殿まで

2  神社上0028  白峯神宮  崇徳・淳仁天皇を祀る

3  わら天神 生まれる子の男児・女児かを教えてくれる

4  寺院中0067  誓願寺  浄土宗西山深草派  H28.5.9画像追加

5  石碑山0059  逢坂山関址 碑  

6  まち歩き上0512  京都御苑  枇杷殿跡

7  寺院東0355  泉涌寺  2

8  まち歩き滋賀0262  逢坂の関  車石 と 常夜燈

9  まち歩き滋賀0261  歌碑  逢坂の関、逢坂山を歌った 蝉丸・清少納言・三條右大臣

10  寺院左0472  九十九坂  清少納言も登った  鞍馬寺

 

  

  

平安時代中期の代表的女流文学者、随筆「枕草子」の作者として有名。

 

一生(数え年)

 

966年・1歳 このころ清原元輔の子として生まれる。清原家は学者の家系で、清少納言は父の指導により小さいころから学問にすぐれる。

 

980年・15歳 このころ、橘光則と結婚する

 

986年・21歳 仏教の話を聞く会で、才能を認められる。こののち、一条天皇の中宮藤原定子に仕える。

 

1000年・35歳 宮仕えをやめる。このころ、「枕草子」を完成する。

 

1025年・60歳 このころ、亡くなる。

 

父は歌人の清原元輔。文学的にめぐまれた家系に生まれ、詩歌や漢文との交わりは深かった。橘則光と結婚して則長という男の子を生んだが、家庭生活はうまくいかず、夫と別れた。一条天皇の中宮(いまの皇后)藤原定子に仕えたのはこのころである。そこで摂政(天皇がおさないとき、かわって政治をみた役職)藤原道隆、左大臣の藤原道長らの有力者に接し、藤原公任・藤原行成らの貴族とも親しく交わった。彼女が書いた「枕草子」には、それらの体験を通した当時の宮廷のありさまがえがかれている。

 

その中に、雪がたくさん降った朝、中宮から「香炉峰の雪はいかならん」と問われたのに対し、すぐさま「香炉峰の雪はすだれをかかげて看る」という白楽天(中国、唐の詩人白居易)の詩をひいて、すだれを高くあげて外が見えるようにした。というエピソードがある。清少納言は教養があって理知的で、またユーモラスな性格であったことがうかがえる。同時代に活躍した紫式部とは才女どうしのライバルであった。

 

1000年(長保2年)、中宮定子がなくなったあとは宮仕えをやめ、前摂津守・藤原棟世の妻となったが、晩年は寂しい日々を送ったようである。

 

  


人物020 吉田兼好  兼好法師

2018年05月06日 11時27分13秒 | 人物数々

 

 1283年 1歳 このころ山城国に生まれる

1324年・42歳 後宇多上皇がなくなり、北面の武士をやめて僧となる。東国や木曽路・伊勢なと゜に旅行をしたのち、京都の双ヶ岡に住みつく。

1330年・148歳 このころ『徒然草』を書く。

1336年・54歳  二条為世に和歌を習う。やがて頓阿・浄弁・慶運とともに<和歌四天王>の一人として重んじられる

1352年・70歳  このころ亡くなる

 

1283?~1352? 鎌倉時代末期の歌人・僧。

 

  寺院右0027 長泉寺  浄土宗  吉田兼好 墓所

  道標右0035  兼好法師庵址へ

  石碑右0023 双ヶ丘   清原夏野   雙ケ岡1号墳

  寺院右0455  鐘楼 北西にある  妙心寺内 日本最古・国宝

  憶念寺  真宗大谷派

  五條天神社  牛若丸・弁慶の出会いの場所が近所・・・「義経記」

  千本釈迦堂・大報恩寺  800年前の建物・おかめ像・徒然草にも登場

     陵墓右007  後宇多天皇陵 

 

『徒然草』を書き、中世を代表する名文家。

山城の国に生まれた。本姓は占部、俗名は兼好。神主の家の生れ、北面の武士(上皇の御所を守る武士)として、後宇多上皇に仕えていたが、正中元年(1324)に上皇がなくなると、延暦寺で髪をおろして僧となり、東国や木曽路・伊勢などに旅行をし、やがて京都の双ヶ岡に、粗末な家を建てて住み着いた。かれは和歌を二条為世に学び、すぐれた歌人として知られ、頓阿・浄弁・慶運とともに和歌四天王といわれた。かれの和歌は『続千載和歌集』以下のの勅撰集(天皇の命を受けてつくられた歌集)に16首がおさめられており、家集(個人の歌集)に『兼好法師集』がある。かれはまた、有職故実家(朝廷・武家での古来の役職・装束・儀式などを研究する人)・古典研究家としても知られていた。

しかし、兼好の名をとくに有名にしたのは、随筆『徒然草』である。これは、清少納言の『枕草子』や鴨長明の『方丈記』とならんで、わが国の随筆文学の最高のものといわれる。

徒然草 鎌倉時代の歌人・吉田兼好の随筆。上下2巻、244段からなり、元弘元年(1331)までに成立。日常生活のなかでの見聞や感想を、ありのまま書きつづったもので、作者のゆたかな教養と人間味あふれているが、19段「をりふし移り変わるこそ」の文章によれば、『源氏物語』や『枕草子』という古典の上に立って書いていたことがうかがえる。このように平安時代への強いあこがれが見られると同時に、前の時代の文学には見られない現実的なところもある。

序段の「つれづれまるままに、日ぐらし硯にむかひて心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」はとくに有名で、書名になっている。

  

 

 

   

 


人物017 惟喬親王

2018年05月02日 07時28分33秒 | 人物数々

 

大原上野の東南の山中に、平安期の初期藤原氏専制の犠牲になった

惟喬親王の墓がある。高さ1.5mの五輪の石塔

惟喬親王(844~897)は文徳天皇の長男。当然皇太子を約束されながら、母が当時の貴族社会を牛耳っていた藤原一門の出身で無く、嘉祥3年(850)に天皇と右大臣藤原良房の女、明子の間に惟仁親王(清和天皇)が皇太子に立てられた。文徳天皇は惟喬親王を天安2年(858)大宰師に任じ、貞観14年(872)上野太守にされた。その秋、病気のために出家し、いまあるお墓から北250mあたりに隠棲された。また母弟惟仁親王の立太子のとき出家されたともいわれている。出家後、政治のことは縁を切り、自然を友に詩歌に励み、紀有長在原業平らと文墨を通じて親交を重ね、特に業平とは親交厚くしている。不幸な生い立ちだが、出家を境に平和な余生を送り、寛平9年2月、54歳のとき、この地で亡くなっている。洛北一帯に親王ゆかりの旧跡とつたえるものが多く残っている。

左京区広河原杓子屋町、杜若(かきつばた)豊次郎氏宅に縦10m、横16mの長方形の池があり、珍しい四季咲きのカキツバタが植わっている。惟喬親王が出家後この地に植えられたものだといわれている。墓の近くには親王をまつり、上野町氏神になっている小野御霊神社があり、山を隔てた北区大森東町、長福寺境内には惟喬親王塔というのがある。室町時代のものらしい。北区雲ヶ畑に惟喬神社がある。

 

親王没後1120年を迎え、親王をしのぶ祭りを毎年続ける滋賀県東近江市の永源寺と連携して企画した。大原では親王亡きあと、しのぶ法要が続いていたが、明治期に千回忌法要を行って以降途絶えた。惟喬親王1120年法要が大原の勝林院で営まれる。惟喬親王は永源寺地区の人々に木地師の技術を伝えたとされています。

 

関連記事 ➡ 陵墓左026 惟喬親王 陵墓

          清和天皇陵 水尾山陵 

          文徳天皇陵

          道標左0169  惟喬親王御墓参道

          道標左0170  惟喬親王御墓 参道

  


人物016 佐久間象山

2018年04月26日 17時45分21秒 | 人物数々

 

 1 北野天満宮の道標    

 2 妙心寺北門の道標

 3 妙心寺内の道標  

 4  遭難地  

 5   道標中0168  佐久間象山・大山益次郎 遭難之碑 

幕末の勤皇家で海防論者。信州松代の藩士、佐久間一学の長男で、名は啓之助。28歳にして修理と通称したか「しょうざん」「ぞうざん」そのよび方が2説に分かれている。

佐藤一斎に蘭学を学び、高島秋帆からその技を習得した。嘉永6年(1853)、浦賀に黒船入港の際、海防の急務を主張し、軍議によってその役を免ぜられたが、逆に多くの心酔者も輩出した。吉田松陰もその心酔者の1人で、折から長崎に来航していたロシアの船に乗り、外国事情の吸収に脱出を試みんと企てたが発覚、その密航事件に師としての立場から引責幽閉されたのが安政元年(1854)のことであった。

元治元年(1864)2月、徳川14代将軍家茂の入洛とともに、各藩の京屋敷は藩士の数をぞくぞく増やし、屋敷で収容できない者は、陣屋を設けて集められ、無気味な緊張感がただよっていた。勤王、佐幕、新選組、天誅組などが入れ乱れ、にらみあっている。そんな京都へ奇妙な男が現れた。テテッポウ(長野地方でフクロウのこと)と呼ばれたその顔は、色白で目と鼻が異様に大きく、ロングヘアーの大男。松代藩士 佐久間象山である。象山が将軍の招きで入洛してきたのは3月の末。洋風の鞍をつけた馬にまたがり、京を行くさまは、しばしば外国人と間違えられたという。

象山は儒教を東洋の道徳、科学を西洋の芸術(技術)とし、この2つを融合させ、早くから開国と公武合体論を説いていた。

彼はこの理論をつらぬくことが、やがて日本が世界に号令を発する近道だと主張。この構想は勝海舟坂本龍馬吉田松陰らに影響した。また、象山は吉田松陰の密航をそそのかした罪で投獄された。(安政元年 1854)が、このとき獄中で考えた「省けん録」は幕府の無能をそしり、儒学の無識を嘆いた時世論で、このため多くの敵をつくっていた。

入洛後の象山は、4月3日付で幕府の辞令を受けている。「海陸御備向掛手附」というややこしい役だが実際は公武合体の政変(前半)後の朝幕間パイプ役、幕府からの条件は20人扶持に15両の手当。これでは尊攘党の巣くつ京都で安心して役目を果たせない。天下の英傑を自任の象山のプライドは傷つけられた。が、いまはわが身の利害にこだわるときではない。また、自分を京都へ招いてくれた長州や土州藩士の顔が立たない。象山はこの役目を引き受けた。

4月14日、象山は浪士がうろうろする「越前屋」(中京区六角通り東洞院西入ル)から丸太町の鴨川西岸に転居した。これは梁川紅蘭のすすめであったが、部屋が狭く、5月中旬には中京区木屋町三条上ルへ転居した。ここは部屋数も多く、東山や大文字、三条大橋が一望できる。また、親しい長州藩や彦根藩の京屋敷がすぐ近くにあるところ。象山は大いに気に入り、風流にも「煙雨楼」と名付けた。この間、一橋慶喜や将軍家茂らとあって彼一流の時世論、天下治平の策を述べた。そして6月5日に「煙雨楼」から目と鼻のところで溏田屋事件が起きると、天皇の御身を案じ、京は物騒だからと彦根遷都をすすめる・・象山の誠実さの一面であった。7月11日、朝食をすませた象山は、塚田五左衛門坂口義次郎、馬丁半平、ぞうり取りの音吉の4人をガードに山階宮邸を訪問した。あいにく宮が不在のため、執事の国分番長と面会した。ここで大切な世界地図を持たせて塚田五左衛門を先に帰らせ、残る3人と松代藩の宿陣本覚寺(下京区五条寺町上ル)へ。しかし、ここでも目当ての門人蟻川賢之助三沢刑部丞の両人が外出中。ついてなかった。象山は本覚寺から「煙雨楼」へ帰るとき、前日から風邪気味の坂口義次郎に音吉をつきそわせ、ゆっくりして還るように言い残した。これも象山の思いやりだった。この後、口取りの半平と家路につき、午後5時ごろ木屋町三条へさしかかった。「煙雨楼」まであと数十メートルほどのところで突然2人の刺客が襲い掛かった。足を切られた象山は馬を走らせた。馬は「煙雨楼」を通り越し、木屋町通を一気に御池へ。ここで待ち伏せしていた別の刺客7、8人に捕えられ、全身に13ケ所の刀傷を受けて死亡した。象山52歳。その日の夕方、三条大橋には「会津・彦根の2藩に組みした国賊につき、天誅を加えた・・・」とかかれていたという。後にこの事件を知った山階宮は次の様な歌を詠んで象山を偲んだ。

浅間山煙りと消えしその人の

名こそ雲井に立ちのこりけり

いま事件現場の木屋町御池上ルに「象山先生遭難之碑」が建つ。故新村出博士を会長とする顕彰会がこの地で長く続けられた。遭難の翌々13日に遺骸は妙心寺大法院に葬られた。墓は松代藩にゆかりの深い妙心寺大法院にある。埋葬の翌7月14日、佐久間家断絶の命が降った。象山が生前心配していた通り、この事件の8日後に蛤御門の変が現実となり、「京のどんどん焼け」の大惨事となった。この時の被害状況は焼失家屋、民家27000余り、土蔵1207、寺社253といわれる。

 


人物015  弁慶

2018年04月15日 20時02分33秒 | 人物数々

 ゆかりの地

    寺院東0426  壽延寺 日蓮宗

    五條天神社  牛若丸・弁慶の出会いの場所が近所・・・「義経記」

    稱名寺 浄土宗  弁慶石がありました

    義経下001  牛若丸・弁慶の石像  五条大橋

    まち歩き左0747 比叡山 西塔 案内図

   弁慶石 

   


人物014  畠山勇子

2017年08月30日 15時05分20秒 | 人物数々

 

国憂いはかなく京に散る

時は文明開化。東京・鹿鳴館に上流階級が華麗に集い、欧風文化に酔いしれていた時、京都で一人の名もない女性が一瞬、閃光のようにきらめいて、消えた。

1891年(明治24)5月20日夕。京都府庁前の路上で一人の女性が自害して果てた。所持品、遺書などから東京の27歳のお針子・畠山勇子と判明した。警察の検視の後、上京区役所からの連絡で松原大宮の末慶寺に引き取られ、境内の墓地に手厚く葬られた。当時の住職和田準然師は、行き倒れなどの人たちを自坊に埋葬していて、当寺の過去帳には「上京区役所」の記載が多い。

日本政府やロシア帝国や家族などにあてた遺書10通をしたため、自らの剃刀でのどや腹、心臓を突き刺して自害した女性に何があったのか。事件は9日前にさかのぼる。

大津事件で入洛

5月11日午後。ロマノフ王朝が栄華を極めた時の大国、帝政ロシアのニコライ皇太子が来日、京都や琵琶湖などを見学した後、大津市内で警官津田三郎に切りつけられ負傷した。

この「大津事件」を知った勇子は居ても立ってもおられず、衣類を質に入れて旅費をつくり、京都に滞在中の皇太子一行を追って東京・新橋から単身夜行列車で入洛したのだった。

国を憂い、日露両国の国交悪化を心配したの烈女の自害は、世間に大反響を巻き起こした。当時の日出新聞も連日一面で報じ「美人自殺一見の詳報」として自害の様子を生々しく伝え、ロシア宛の遺書まで紹介している。山陰の松江では市民が同地で教師をしていた小泉八雲に、ロシアに英文で詫びの電報を打つよう依頼するなど、勇子は一躍時代のヒロインになった。勇子は、千葉県・鴨川の資産家に生れたが、父が維新の志士たちを支援して財を無くし早死にする。が、幼少のころ、神職に漢学を習い、歴史や政治に興味を示し新聞を読みあさったという。17歳で結婚するが身持ちの悪い夫に説教して離縁された。その後東京に出て商家に勤め、針子などで生計を立てていた。京都市下京区・松原通大宮を西へ二筋目を下った寺の並ぶ通りの一角に末慶寺がある。「当時、このあたりは一面芹田だった。松原通をはさんで北が京都市、南は葛野郡大内村。市内は火葬、村は土葬だった。運ばれてきた遺体をきれいにふき、血に染まったきものは死体とともに埋葬されましたが、遺品はすべて残されました。」と当寺27代目住職鬼頭誠英さんが遺品を見せてくれた。戦い避けるため 黄楊櫛、かんざし、自刃に使った剃刀、財布、自分のへその緒、写真、帯、そして遺書を書いた残りの鶯色の和紙・・・。「いまの女性以上に女らしく国を思う心に感動する。やっと新しい国のかたちができあつつあった時代。何としても大国との戦争は避けたかったのだろう」と鬼頭さんは話す。同寺には勇子自害の後、小泉八雲やポルトガル領事で日本に滞在したモラエスも足を運び、海外向けエッセーの中で勇敢な日本女性として勇子を取り上げ、日本人の死生観にも触れている。

勇子の故郷・鴨川市の観音寺には「烈女畠山勇子墓」の石碑が建ち、初節句に叔父から贈られたひな人形も保管されている。3年前には百回忌法要と遺品展も開催された。住職の森義賢さんは「先代の父が勇子を研究していたので、子供の頃から知っていたが、京都に出向き遺品に触れ、当時あそこまでやった彼女の行動に、あらためて新鮮なときめきを感じた」と話す。

葬式代まで残し。

早朝、京都駅に着いた勇子は本願寺や清水寺などを回り、知恩院で辞世の歌を詠んだ。夕暮れを待って府庁前に白布を敷き、髪を整え、膝が割れないようにひもで膝をくくっていた。「色白く眉濃く人品よき婦人なり」と当時の新聞は報じている。財布には葬儀代五円も入っていたとも。身を清め、わずか一日の京を見て散った短く、はかない女の命。自らの死で平和を願った勇子の思いをよそに、1904年(明治37)、日露戦争が勃発する。

清楚に掃き清められた末慶寺の墓地に眠る畠山勇子の墓は、ひときわ大きい自然石である。時折訪れる若い旅人に、深い緑色の墓石は何を語りかけているのだろうか。

勇子の生まれ故郷は房総半島太平洋岸に面した千葉県鴨川市。畠山家はすでに絶え、戦時中にJR鴨川駅に近い観音寺境内に勇子の石碑が建てられ「軍国の鏡」としてあがめられたという。百回忌を機に、鴨川市や郷土史研究会など市民の手で「畠山勇子」の検証が行われている。十余の寺が密集する中堂寺西寺町の末慶寺境内墓地の奥にある「烈女畠山勇子墓」は高さ3m、幅1mの緑色の立派な自然石で、当時のヒロインぶりがうかがえる。きれいに保管されているくし、かんざし、帯などの遺品やモラエスの書簡を求めて国内外の研究者がやって来るという。

関連記事 ➡   寺院下0277 末慶寺  浄土宗西山禅林寺派

人物まとめ  ➡  各人物の記事まとめ

 


人物008  北垣国道

2017年06月21日 08時31分20秒 | 人物数々

 

1  石碑左0073  田辺朔郎紀功碑

2  まち歩き左0246  琵琶湖疏水 公園一帯  

3  まち歩き山0224  諸羽トンネル  船溜まり

4  まち歩き東0194  蹴上インクライン  三十石船

5  まち歩き東0193  ねじりまんぽ  

6  琵琶湖疏水の功労者  北垣国道

7  黒谷 金戒光明寺

8  石碑右0119  治水碑  御室川

 


人物013  菅原道真 ゆかりの地

2017年06月17日 08時41分10秒 | 人物数々

 

1  寺院東0358  清閑寺 2

2  神社伏0076-2 御香宮神社2  伏見義民  桃山天満宮

3  寺院左0206 満願寺  洛陽12支めぐり・辰 溝口健二碑

4  神社東0072  ゑびす神社

5  神社上0030 菅原院天満宮 道真公が使った産湯の井戸、愛用の燈籠 内容追加

6  神社下0035  火除天満宮

7  錦天満宮

8  曼殊院

9  石鳥居・火尊天   火尊天満宮  小さな祠

10 御室仁和寺の水掛不動は一条戻橋から持ってこられ菅公腰掛石の上に祀られています

11 醍醐天皇 後山科陵

12 紅梅殿・・「東風吹かば ・・・・」 菅原道真です

13 道祖神社  末社に 洛陽25社 書聖天満宮 の遺蹟

14 北野会の石碑  大鳥居建立の石碑

15 西蓮寺  浄土宗

16 安楽寺天満宮

17 神社上0036  大将軍八神社 都を守る 西の要所

18 神社下0027  文子天満宮 天神信仰発祥の神社

19 神社下0023 菅大臣神社

  .......

 まだまだあるようです


人物011  坂本 龍馬

2017年02月01日 20時10分58秒 | 人物数々

 

坂本龍馬             天保6年(1935)11月15日 生まれ

1  坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地(近江屋跡)   慶応3年(1867)11月15日

2  石碑 坂本龍馬妻お龍の実家 楢崎家跡

3   石碑  幕末史蹟・土佐藩士寓居跡 龍馬・お龍も暮したところ、

4  坂本龍馬とお龍が結婚式を挙げた場所

5  武信稲荷神社 坂本龍馬も登場

6  佐藤継・忠信塚碑,佐藤嗣信・忠信墓,佐藤文褒翁碑

7  石碑中0019-12 日本近代医学発祥の地 かつ 平野國臣外数十名終焉の地(六角獄舎跡)

8  まち歩き東0372  龍馬展

9  史跡伏019  寺田屋 坂本龍馬ゆかりの宿

10 石碑伏0097   坂本龍馬 避難の材木小屋跡

 


人物010 角倉了以

2017年01月03日 06時29分49秒 | 人物数々

 

ゆかりの地 

1  まち歩き伏0331  伏見 京橋 鳥羽伏見の戦 激戦地

2  まち歩き下0144  高瀬川  塩小路通

3  寺院中0018  瑞泉寺  関白秀次を弔う

4  高瀬川 船廻し場  高瀬川を静かに味わうなら このあたりです

5  町名看板  1枚 仁丹です  直接は関連ないのだが、トピックスで関連

6  洛西用水竣工記念碑

7  角倉了以邸跡

8  高瀬川一之船入り

9  神社右0019 角倉稲荷神社  ・・この地域にふさわしい名だ 角倉

10  石碑伏0096  角倉了以翁水利紀功碑 

11

 

 

川柳                                        

自己新を出し続けているこの寿命 /おさだ

 

ことわざ

阿吽の呼吸(あうんのこきゅう)                        

協力して物事にあたるときの、お互いの微妙な呼吸や調子。また、それがぴたりと合うこと。


人物009  荷田春満

2016年12月15日 09時46分59秒 | 人物数々

 

 

1  史跡伏見018

2   道標

3  道標

 

旧宅・この建物は国の史蹟に指定(大正11年3月8日)された荷田春満の旧宅である。春満は、寛文9年(1669)に稲荷神社(現伏見稲荷大社)祀官荷田姓御殿預(ごてんあずかり)羽倉信詮(はくらのぶあき)の次男として生を受け、広く国学の発展に奔走した。江戸時代中期の国学者「国学四大人」の一人であり、始祖と仰がれている。この旧宅は春満生家の一部で、書院・神事舎・門・塀など旧態を留めている。

 

寛文9年(1669)伏見稲荷社社家の二男として出生。新井白石、荻生徂徠はほぼ同時代の人。29歳から2年間妙法院宮にめしかかえられる。歌道師範としてだともいう。32歳、第1回の江戸行き。14年間いた。45歳でいったん帰郷後、同年再び江戸へ。このころようやく名声四方に及び、各地からの入門者があったほか、越後長岡藩主が招こうとしたが、彼はことわった。54歳。幕府から和学について質問を受け、以後一種の和学顧問となる。またこの年、江戸と京の往来の途次、浜松で賀茂真淵を知る。これより後58歳で病に倒れるまでに「万葉僻案抄」「伊勢物語童子問」などほとんどの主著を著す。65歳、真淵入門する。68歳死去。

 

伏見稲荷大社を訪れると、大きな朱塗りの楼門の脇に堂々たる門構えの、閑静そうな家がある。公家か武家の門かと見まがうほどどっしりした門は、年月が加えた渋い落ち着いた色合いをたたえ、参詣客や鳩の泣き声でにぎわう境内でそこだけがひっそり静まりかえっている。これが国学者荷田春満の旧邸である。江戸遊学後の晩年に建てて住んだものだ。賀茂真淵もここへきて春満から「日本書紀」や「万葉集」のあれこれの伝授を受けたはずである。春満から真淵へとたどれば、いわば伏見稲荷のこの地こそ国学思想の発祥の地ということになる。

荷田春満はおそらく生涯、師というものを持たなかった。ほとんど独立独歩で、当時およそ誰かえりみるものもなかった国学という学問を築き、単身江戸へ乗り込んで、ついには常軍家にもとりたてられるまでに至った。たんなる学者ではなかったというべきであろう。後年、弟子真淵が江戸へ出て盛大な門弟に囲まれ、国学を儒学に対抗する一大学問までに仕上げることができたのは春満とその養子在満の地ならしがあってのことだ。ちなみに彼の肖像は、茫洋とした真淵とは対照的に、武張った気迫にみちた顔つきである。武将の顔といってもよい。新しい学問思想の創始者としてこの顔のとおりに彼は師をも頼まず、独力で生涯を邁進したものに相違ない。

春満は荷田家の悲願が生んだ人物ということができる。彼の家は奈良時代以来、代々伏見稲荷に仕えてきた、といういい伝えをもつ由緒ある神職家である。学問的雰囲気の濃厚な家系で、家には荷田家だけで守り伝えてきた万葉学、日本紀学、国語学とでもいうべきものがあり、加えて歌には特別な誇りがあった。というのは春満から数えて5代前の荷田信次という者が、歌人天皇として著名だった時の後陽成帝、自作の歌百首を添削してもらったことがあった。これが帝じきじきの歌作の指導というわけで、以後荷田家は後陽成帝の弟子を自認して、春満も春満の父も、当時の歌の道を行くなら公家歌人につくのが習いだったものを共に無視して、がんとして弟子入りしなかったほどだ。弟子入りどころか、後陽成院流荷田派とでもいうべき歌風を興す意気でさえあった。

いずれにしても荷田一門の人々は、先祖代々に語り伝えた自家独特の学問、歌を大変誇りにし、これが長い間家伝のみにとどまって世に広く行われないのを実に残念なこととしてきたのである。時に世をあげて儒学と仏教の時代だった。日本の古典はかえりみられず、神官家といえども幕府政策による寺請制度に組み込まれて、もうひとつさえない存在においやられていた。春満を始めとする誇り高い荷田家の人々の間には、彼ら一門の家名がパッとしないのは、こういう時代風潮のせいだという思いは秘かに抑え難いものがあったであろう。春満がのちに儒教に対抗して国学を押し立てる土壌はここに用意されていたのである。

一家の期待は早くから彼の上に集まった。久し振りに現れた荷田家再興のチャンピオンとしう感じがあったようだ。春満全半生の資料はまことに乏しいのだが9歳のとき、ちょっとした歌を詠み、これが家の自慢となって今に伝わっているのをみても、およそのことは知れるのである。「われこそは・・・」

し自負と使命感に燃えていたことは確かである。

かくて32歳で江戸へ出る。稲荷神道と後陽成帝直伝を看板に弟子をとり、出張講義や歌会を精力的に開き、盛んに荷田学を売り出した。無名に加えて、なんのつてもなかっただけに、初め数年は随分苦しい生活を余儀なくされたが、気概はそれをはるかに上回り、のちにはついに名声幕府にも聞こえて、将軍家から国学についての質問を受けたり、国書の鑑定を依頼されるまでになっている。

この間の春満に、市井宣伝家の風貌を見る人もいる。儒学一辺倒の世の中で、人々に国学への関心を呼び覚ますだけでも必要以上の活動を要したのだろう。創始者の余儀ない宿命である。ともあれ、ついに将軍家と接触するに至ったとき、荷田家の喜びたるや大変なもので「実に信盛(春満)秀才之功、一家之面目大慶之至極」「古今未曾有之手柄」で親族一同の歓喜これに過ぎたるものなく、感涙しばしやみ難く、と実弟の日記にみえる調子である。彼に寄せられていた期待のいかに大きかったか、目に浮かぶようだ。

通常、国学の流れは契沖、春満、真淵、宣長とたどられる。契沖は厳密な文献学的方法を古典研究に導入して、むしろ国語学的、歌学的な面における国学の創始者といってよいのに対して、春満はイデオロギー的側面における創始者の役目をはたした。即ち儒教、仏教も結構だが、日本には日本古来の道というものがあるではないか、と強くいい出したのである。

彼の考えを最もよく示すものとして「創学校啓」というのがあるが、この中で彼は「今や儒仏の教えのみ普及して、日本古来の道の教えは忘れさられている。神道和歌を講じる者でさえ考えを儒仏の教えに犯され、古人の真意を伝えていない。このままでは日本古来の道は消えてしまうだろう。」という意味のことを述べている。

ただ彼自身は、ではなにが日本古来の道かということについて、突っ込んだところまで考えなかったようだ。多くの彼の学問は未完で終わったといわれるが、それは力の充実した壮年期に多分に宣伝に力をいれなければならなかったのと、50代半ばになって最終的に稲荷に落ち着き、雑用から解放されていよいよ学の大成を、いうときに病に犯され、68歳で亡くなるまで病がちだったせいでもある。志半ばで倒れる思いはやはりやみ難かったであろう。「見る者はのこり多くも年くれて我よふけゆく窓のともし火」の歌を詠んでいる。しかし彼のまいた種は、真淵に至って見事に実を結ぶのである。

伏見稲荷社に頼んで春満遺邸を上らせてもらった。床の高い清々しいほど簡素な素木造りの書院式住居である。フスマを取り払えば、そのまま家全体が講義室になる。東隣が東丸神社である。春満は学問の神として明治になってまつられた。荷田家の子孫が今も神社を守り、合格祈願の受験生たちが一代の学者春満にあやかって学力向上を一心に祈る姿が見られる。

参考・「京の思想家散歩」

荷田を魅了したのは万葉集であり、日本書紀や伊勢物語であった。こうした古典のなかに民族の血をかいだ荷田は、幕府の朱子学に激しい抵抗を感じたと史家はみる。

荷田の仕事で特筆するのは、古学普及のための倭学校設置運動。これを東山に建設することを訴え陳情書「請創造倭学校啓」を享保13年に幕府を提出している。実を結ばぬまま元文元年(1736)、68歳で亡くなっている。

墓は、自然石の墓石の表面に「荷田羽倉大人之墓」としるされている。在ノ山墓地


人物008  伊藤若冲 ゆかりの地

2016年12月14日 05時57分20秒 | 人物数々

 

1  ポスター0042  伊藤若冲  京都市美術館  10月4日~12月4日

2  海宝寺  伊藤若冲・伊達政宗・大丸百貨店のゆかりの寺 

3  信行寺  浄土宗  伊藤若冲の天井画 

4  宝蔵寺  浄土宗西山深草派  伊藤若冲の菩提寺 

5  錦市場 西の入口 画家・伊藤若冲の生家

6  石峰寺  まだ

7  相国寺  まだ

 

京都の生んだ江戸中期の画家伊藤若冲の墓は、現在2ケ所ある。1つは若冲が明和3年(1766)11月、51歳のとき相国寺に建てた寿塔で、位牌型の墓石の表面に「斗米庵若冲居士墓」、背面に相国寺の硯学大典禅師の撰文になる銘文が細かくしるされていて、若冲伝の根本資料となっている。

 

若冲は享保元年(1716)中京区錦小路高倉の青物問屋「桝源」こと伊藤源左衛門の長男として生まれた。幼少の頃から画を好み、23歳のとき、父の死によって家業を継いだが、商売は苦手であった。墓碑銘に「ただ画をかくのを好むのみで、他は何もできなかった」とある。それで狩野派の画を学んだが、いくら上達してみても、狩野派の画法を模倣するだけだと考え、宋・元の中国画の模写を試みた。しかし、これも到底手本におよぶべくもなく、昔の人物や遠境の山水もみることができないので、「物」に即して描くのが一番よいと悟った。そこで窓下に数羽の鶏を飼い、その形状を刻明に写生し、のちには草木・鳥獣・魚介の真実を描いた。世人はその妙筆に感服し、作品一点につき米一斗に替えて謝礼としたので、斗米庵と号するに至った。

 

宝暦5年(1755)40歳のとき、家督を次弟白蔵にゆずり、相国寺の大典禅師に帰依し、画業にも専念した。相国寺に若冲の画が多く所蔵されているのは、かかる関係によるもの。

 

中でも「動物綵絵」30幅(国宝)は、報恩のために寺を寄進した若冲傑作の作である。が明治になって寺が疲弊したとき、その再興資金のためにと宮内庁に買い上げられた。天明8年の大火によって家を焼かれ、晩年は深草の石峰寺のそばに隠棲し、寛政12年(1800)9月10日、85歳で没した。遺骸は石峰寺に埋葬され、10月27日相国寺にて法要が営まれた。石峰寺にある墓は、相国寺の墓とほぼ同じであるが、傍らに筆形の石碑があって、江戸末期の儒者貫名海屋撰文の「筆塚」があるのが異なっている。高さ約1.5m、周り87cm、砂岩製。その銘文によれば、石峰寺境内にある石造五百羅漢像は、若冲が下絵を描き、石工に彫らせたが、天保元年(1830)の地震に破損したので、同4年(1833)妻子のなかった若冲の養嗣子の孫清房によって修復されたいきさつをしるしている。

 

 

 人物 ゆかりの地  ➡  各人物の記事まとめ

 


人物007  山脇東洋

2016年12月07日 21時21分10秒 | 人物数々

 

1  墓がある 寺院中0067  誓願寺  浄土宗西山深草派 

2  山脇東洋解剖碑所在墓地 

3  寺院伏0238  真宗院 浄土宗西山深草派  山脇東洋の墓所

4  日本近代医学発祥の地 かつ 平野國臣外数十名終焉の地(六角獄舎跡)

5  弟子  石碑 名医 吉益東洞 宅蹟

 

山脇東洋

 

東洋が人体解剖を実行したのは宝暦4年(1754)だから「解体新書」の杉田玄白らの解剖に先立つこと17年。もちろん日本最初である。コロンブスの卵を持ち出すまでもなく、何事にしろ世に初めて手がけるということは大変なことだ。しかも東洋がやったのはただの冒険ではない。自分の体でさえ傷つけてはならない。゛身体髪膚これを父母に受く゛の時代に、あえてその精神的タブーに挑戦したのである。解剖報告書「蔵志」(ぞうし)は「刀をすすめ肋間の白膜を決し・・・直骨にあつまるのを截つ」と屍を切り刻む刀の動きを克明に追っている。しかし刀が切ったのは実は屍でなく、医術を暗黒に閉じ込めていた妖怪ではなかったか。そうでなければこのおそろしい大業に挑んだ東洋の勇気は納得しがたい。

 

解剖への意欲のきざしを、東洋は「蔵志」で「少小より力圭(医術)の業を修め・・・講究熟読の間、大疑ひそかにきざす」と書いている。大疑とは、人体の内臓はどうなっているのかという疑問であり、結局は五臓六腑とそれを盲信してきた医学への疑問である。当時の医学は、人体は肝、心、脾、肺、腎の五臓と胃、小腸、大腸、胆、膀胱、三焦の六腑からできていると考えていた。また体の表層には12本の経路(道)があり、病はこの道から侵入いるとされた。さらに木、火、土、金、水の五行や十二支などを組み合わせて診断の手段とする中国の金・元時代の瞑想的な医学も幅をきかせていた。東洋の大疑は、この訳のわからぬ医学への切り込みの第一歩であった。一方、儒学の世界では、既成の権威に対し新機軸を打ち出す思想がすでに橋頭保を確保していた。孔子よりも朱子を尊敬する朱子学者を批判し、失われた孔子を求める古文辞学を説いた徂来学の台頭である。近代合理主義のさきがけといわれる徂来学が瞑想的な医学に大疑を抱く東洋を魅了したことは当然である。徂来の門人・山県周南やその弟子・滝鶴台とも親交を結び、徂来の実証精神を着実に学び取ったのである。

 

実行の第一歩は医学の師・後藤艮山に教えられたカワウソの解剖だった。カワウソの内臓は人体のとそっくりだということで、それまで幾多の医者を満足させたはずだった。しかし東洋だけは満足しなかった。「独り怪しむ、いわゆる小腸なるものを見ず」「うっ陶梗塞することここに十有五年なり」。カワウソでは本当のことはわからない。と十五年も怪しみ続けたのである。15年待って、ついに人体解剖のチャンスが訪れたのは、49歳のときだった。すでに24歳で宮中に仕える法眼の位を得ていたが、その後も治療の実績をあげたほか、他の医官がきらった娼姑の治療を率先して実行、また唐時代の医書「外台秘要」を復刻するなどで、今や彼の名声は市民や医者の間に鳴り響いていた。その名声を東洋はあえて人体解剖の冒険にかけたのである。死体の損傷を極度に忌避するのは日本人の生れながらの感情であり、古来から律令や不文律で禁じられてきた。名声と幸福な生涯をかけるにはあまりにも危険な試みである。刑死体解剖願を、京都所司代で小浜藩主の酒井忠用に提出したのは、やはり小浜藩の医者で東洋の゛同志゛である小杉玄適ら3人。東洋は黒幕である。許可を決意したのは忠用の英断はたたえるべきだが、東洋自身は「幸いに文明の運に遭遇し」と書いている。

 

所は六角獄舎の刑場。ムシロに横たえられた首なし死体の横に東洋ら4人が座った。小刀を持つのは雑役である。

 

小刀が屍の胸を走ると、ばらりと肋骨が現れた。「椽(たるき)の梁(はり)にあつまるがごとき」と「蔵志」は感動の序章を綴る。刀はずんずん進み、肋骨が切り取られた。「豁然としてみるべし。気道前に在り、食道後に隠れる」これだけでも当時の大発見であった。しかし原色の肉塊は東洋の緊張を強い続けた。雑役が肺をつかみ出し、気管からふうと息を吹き込む。「即ち両肺皆怒張す。」胃が出、腸が出た。膀胱は「上、腸に連なり、下横骨に隠る。これを圧すれば尿ほとばしり出ず」

 

しかし、不思議なことに、東洋の永年の疑問の1つだった小腸の有無について「蔵志」はふれていない。おそらくは見落としたのであろう。

 

東洋には、事物の本質さえつかめば細事は大して問題ではないとする性格が強かったようだ。門弟の永富鳳が、東洋が家宝並みに大切にしていた器を手からすべらせ割ったとき、東洋は顔色一つ変えず許した話がある。また後に名医となった吉益東洞が人形売りをしていたころ、東洋の官患者を押しかけ診察したが、その処方を東洋は感心して採用した話もある。小腸を見落とすぐらいどうでもよかったのであろう。

 

細事を捨てて、東洋が解剖体に見たものはなにか。「手足経路の説はその妄なること知るべし」である。そして既に見ていた西洋の解剖図と目の前の屍の内臓が見事に同じであること。即ち「実を踏むもの、万里、符を同じくす」の論理であった。屍を断つ刀で同時に、千年にわたって医界を瞑想の世界に閉じ込めていた妖怪を切った東洋は、晩年まで実証の大切さを説き続ける。案の定、屍を傷つけたことへの批判が各界から上がったが、新医学への道はもはや敷かれたも同然であった。解剖に同席した小杉玄適は江戸へ走り、杉田玄白に興奮を伝えた。「解体新書」着手の端緒となるのである。東洋は深草の真宗院に葬られたが、墓は本山である新京極の誓願寺にもある。

 

山脇東洋 宝永2年(1705)、丹波・亀山の医師清水東軒の三男として生まれた。学才をかわれ、京の医師山脇玄修の養子となり業を継ぐ。当時の非科学的医学にあきたらず、後漢の医書「傷寒論」を研究して実地に応用し、゛親試実験゛をめざす古医方の4大家の一人とされた。東洋が解剖した刑死体の男は東洋らの夢を覚ましたとして夢見の戒名ょ与えられた。今の大学で行われる解剖体祭はこれを始まりとする。宝暦12年(1762)没。