織田信長
ゆかりの 地
京都市内で 墓所とされているところは 次の5ケ所です
1 妙心寺内の玉鳳院 信長・信忠の石塔がある
2 大徳寺塔頭 総見院 信長・信忠・信雄等 織田家一族の墓がある
3 寺町今出川上ル 阿弥陀寺 信長父子および森蘭丸ほか120名の墓がある。
本堂には信長・信忠の影像が安置されています
6月2日 催事あり
4 寺町御池下ル 本能寺 信長・信忠父子供養塔 本能寺の変に斃れた人の慰霊塔がある
5 円山公園南 大雲院 信長・信忠の墓
➡ 有名人ここに眠る
6 天道神社
7 旧 二条城 の 築城
8 建勲神社
9 薬師院
10 二条殿
11 浄慶寺
12 見性寺 織田信長の庶子 村井重勝
14 真如院
15 妙覚寺 日蓮宗
16 春長寺 浄土宗 織田信忠の家臣・本能寺の変で戦死・菩提寺
天御中主命(あめのみなかのしみこと)を祀る摂社、石清水社発生のもととなった清泉が今なお岩間から湧き出ている。
社前に松花堂昭乗の筆で、寛永12年(1635)京都所司代板倉重宗が寄進した旨をしるした石鳥居がある。
祠 前回の記事 ⇒ 祠右058 ルルゲさん ・・ って 三宅石碑
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石清水八幡宮は、平安時代初め、貞観元年(859)、奈良大安寺の僧・行教和尚が、九州の宇佐八幡宮から、八幡神をこの地に遷ししたのが起源です。本殿が朝廷により建てられた後、行教和尚はこの地に前からあった山寺を改め「護国寺」と名付けたと伝わります。本殿と一体となり全山を取り仕切った重要な施設でした。
平成22年(2010)の発掘調査で、江戸時代後期、文化13年(1816)に建てられた本堂に柱を支えた礎石の跡が見つかり、その内側に地鎮祭の跡がありました。銅でできた輪宝に独鈷杵を突き立てる天台宗に方式で、八角形に配置し、須弥壇を取り囲んでいました。護国寺は再建からわずか50数年後、明治の初めに破却されました。
護国寺 薬師堂跡 南 坂下瀧本坊 西 御本社
昭和2年10月 京都三宅安兵衛依遺志建立
関連記事 ⇒ 関連0022 三宅安兵衛 石碑 その2
史跡 前回の記事 ⇒ 史跡八幡065 石清水八幡宮 宝塔院跡 琴塔と呼ばれていました
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細橋(ささやきばし) 石清水の源流が通っていた渡らずの橋
まち歩き 前回の記事 ⇒ まち歩き八幡1147 石清水八幡宮 東総門 重要文化財
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宝塔院は、本殿の東側に、平安時代以降明治初年まであった天台密教系の仏塔で、平安時代中期の万寿年中(1024~28)にはすでに建てられていました。軒の四隅に風が吹くと鳴るような琴がかけられ、「琴塔」とも呼ばれていました。江戸時代の設計図によると方形の二重の塔は、天台宗の「大塔」の様式で、現存する例は日本に1つしかありません。明治の初めに神仏分離令によって取り除かれ、基壇の中央に参道が通されました。今も参道の両側に、柱を支えた礎石が残されています。
本殿の西側には真言宗の大塔もあり、密教の別宗派の2種類の大塔が、同じ境内に本殿と共に共存していたことは、石清水八幡宮の神仏和合の精神をよく表しています。
江戸時代後期に描かれた宝塔院
慶応2年(1866)に描かれた宝塔院と大塔
軒から下る琴が描かれている
史跡 前回の記事 ⇒ 史跡向日064 物集女城跡
関連記事 ⇒ 49 八幡 地区 記事検索一覧 その1
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