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時代祭行列 平安時代婦人列 百済王明信

2020年11月30日 13時16分00秒 | まち歩き

百済王明信

百済王 明信(くだらのこにきし みょうしん / めいしん、生年不詳 - 弘仁6年10月15日(815年11月19日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての女官。百済王理伯の娘。

桃園右大臣藤原継縄に嫁ぎ、乙叡を生む。

宝亀元年(770年)正五位下、宝亀6年(775年)正五位上、宝亀11年(780年)従四位下、天応元年(781年)従四位上、延暦2年(783年)正四位下、同年に正四位上とつづけて昇叙される。延暦6年(787年)高椅津への行幸の帰りに従三位に叙される。延暦16年(797年)には尚侍を賜る。2年後に正三位に昇る。弘仁6年(815年)10月に没。従二位であった。

桓武天皇との関係

桓武天皇は百済からの帰化系氏族を重用してきたが、特に明信は天皇の寵愛を受けていた。『日本後紀』によると、延暦14年(795年)4月1日の宴にて天皇が、

いにしえの野中古道あらためばあらたまらんや野中古道

と古歌を誦し、明信に対して返歌を求めた。しかし明信はこれができなかったので、天皇は明信に代わって

きみこそは忘れたるらめにぎ珠のたわやめ我は常の白珠

と詠んだという。また、明信の息子の乙叡の薨伝には、「…母尚侍百濟王明信被帝寵渥。」とあり、ここからも明信が天皇に寵愛されていたことが窺える。

関連記事 ⇒ まち歩き向日1142 向日市文化資料館 展示内容

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時代祭行列 平安時代婦人列  和気廣虫 

2020年11月30日 06時58分18秒 | まち歩き

和気廣虫

和気 広虫(わけ の ひろむし、天平2年(730年) - 延暦18年1月20日(799年3月1日))は、奈良時代の女官。和気清麻呂の姉。藤野別広虫女とも称される。

従五位下葛木連戸主の妻となるが、その後死別。孝謙上皇に仕えるが、762年(天平宝字6年)上皇に従って出家し"法均"と号した。765年(天平神護元年)に吉備藤野和気真人の姓を賜り、768年(神護景雲2年)大尼に任じられた。翌年宇佐八幡宮の神託を請うための勅使に任じられたが、この時は病弱で長旅に耐えないことを理由に、弟の和気清麻呂に代行させている。その神託の結果が道鏡の意に反していたことから還俗させられ、弟の清麻呂は別部穢麻呂(わけべ の きたなまろ)と改名させられて大隅国へ、広虫は別部広虫売(わけべ の ひろむしめ)と改名させられて備後国へ、それぞれ配流に処せられた。770年(宝亀元年)に帰洛を許され、従五位下に叙せられた。774年(宝亀5年)清麻呂とともに朝臣の姓を賜り、以後昇任して785年(延暦4年)には従四位上に叙せられている。没後正三位が贈られている。

 和気広虫は、孤児の養育に励んだことが伝えられている。

 

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        神社八幡0179  和気神社

        道標八幡0231 和気清麻呂公旧跡 足立寺古跡  三宅石碑

        神社久御山0161 珠城神社

        道標右0188  右 神護寺和気公墓方面  清瀧愛宕保津峡方面  槙尾、栂尾、北野方面

        石碑中0137  平安時代 弘文院 址

        寺院長0171 乙訓寺 真言宗 最澄と空海が初めて出会った寺 ぼたん寺

        神社上0029  護王神社 イノシシがシンボル  その1

         神社上0029-2 護王神社  末社のかずかず  その2

        神社上0029-3 護王神社  イノシシで足腰をまもる その3

時代祭行列 前回の記事 ⇒ 時代祭行列 平安時代婦人列  小野小町

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時代祭行列 平安時代婦人列  小野小町

2020年11月29日 16時49分56秒 | まち歩き

小野小町

36歌仙の一人として、数多くの恋歌を残し、紀貫之に「あはれなるようにて強からず、いはばよき女の悩めるところあるに似たり」と語らせる。それほど妖しげな魅力あふれる女性だった。

仁明天皇(850年没)の世、小町は皇后のねたみに山科小野の里へ逃れる。小町に魅せられていた深草少将は、山科を訪れた。

 

関連するところは

東山区臨済宗東福寺派 退耕庵。 小町に寄せられた恋文を納めたと伝わる玉章(たまずさ)地蔵尊。

中京区の神泉苑には雨乞小町。

左京区の補陀洛寺(小町寺)には歌碑と小町供養塔。

井出町・玉津岡神社の小町像

福知山市の久昌寺の歌懸薬師像

関連記事 ⇒  人物050 小野小町

時代祭行列 前回の記事 ⇒ 時代祭行列 平安時代婦人列  紀貫之の女

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人物050 小野小町

2020年11月29日 13時16分14秒 | 人物数々

 

小野小町

36歌仙の一人として、数多くの恋歌を残し、紀貫之に「あはれなるようにて強からず、いはばよき女の悩めるところあるに似たり」と語らせる。それほど妖しげな魅力あふれる女性だった。

仁明天皇(850年没)の世、小町は皇后のねたみに山科小野の里へ逃れる。小町に魅せられていた深草少将は、山科を訪れた。

 

関連するところは

東山区臨済宗東福寺派 退耕庵。 小町に寄せられた恋文を納めたと伝わる玉章(たまずさ)地蔵尊。

中京区の神泉苑には雨乞小町。

左京区の補陀洛寺(小町寺)には歌碑と小町供養塔。

井出町・玉津岡神社の小町像

福知山市の久昌寺の歌懸薬師像

 

   欣浄寺 曹洞宗  小野小町  道元禅師  伏見の大仏さん

  随心院  小町伝説が多く残る

   小野小町のゆかりの化粧橋

  化粧水  小野小町の別荘址 小町も使ったのでしょうか

  えっ 知らなかった 小野小町・・・

  小町通  いきな通り名です

  史跡井手057 井堤寺跡   道標井手0281  井堤寺故址 三宅石碑

  寺院伏0225 欣浄寺 曹洞宗  小野小町  道元禅師  伏見の大仏さん

 


人物049  常盤御前

2020年11月29日 07時56分38秒 | 人物数々

 

常盤御前

時代祭では義朝の死後、清盛に子どもたちの助命を嘆願するため、息子の牛若丸を懐に抱いて六波羅に向かう姿が再現されている。

 

源義朝の妾、近衛天皇皇后の雑仕。今若乙若牛若の母。平治の乱で義朝を失い捕まったとき「3人の子は武士にしないから」と命乞いをして平清盛にかこわれた。のち一条長成と再婚。生没年不詳。

 

源光寺(右京区常盤馬塚町)

寺の東側にある。墓石は84程の自然石で、表面に「源氏義経御母室常盤御前御墓」とある。伝説によると、この地は常盤御前の生誕地といわれ、今若乙若牛若の三子を手放してのち、この墓所の桜の木の下に庵をむすんで冬ごもりをしていたと伝わる。

 

宝樹寺(東山区本町11丁目)

薬師如来坐像は世に子育常盤薬師とよばれ、常盤御前牛若丸の生長を願って日夜祈願をこめた像と伝える。他に常盤御前雪除けの松の残株というのがあり、常盤御前が大和へ逃避の折り、伏見街道の老松の下でしばし雪の降るのを避けたと伝える。また、常盤御前平清盛にしばらく囲われていた屋敷址というのがこの付近にある。(今熊野下池田町付近)

 

常盤御前就捕処碑

逃避行を続けていた常盤御前は、実母が拘束されたことを知り、六波羅に出頭しようと奈良・宇陀の里から戻る途中、伏見で平氏側に捕まったと伝えられる。

(伏見区西奉行町・伏見合同宿舎内)

 

関連記事 ⇒ 寺院北0640 常徳寺 常盤地蔵 牛若丸

       石碑伏0105  一本松

       寺院東0326 寶樹寺 浄土宗

       神社伏0076-6 御香宮神社6  北参道入口 ・ 末社など

       源光寺 義経の母の生誕の地


時代祭行列 平安時代婦人列  紀貫之の女(娘)

2020年11月29日 06時39分20秒 | まち歩き

紀貫之

「土佐日記」で知られる平安前期の歌人で歌学者、文章家。

「古今和歌集」の選者の一人でもあるが、36歌仙の一人に数えられ、醍醐、朱雀両天皇に仕えて御書所領から土佐守、玄蕃頭、のち木工権頭に至った。そのほかの歌集に「貫之集」 「古今集序」「大堰川行幸和歌序」 「新撰和歌」などがある。

天慶9年(946)の没だが、生年は不明。その没時まで住んでいた元万里小路(柳馬場)通り椹木町の宅地に祀られていたのが、上京区葭屋町一条辺に移されたと伝えたのち不明となっているが、また西本願寺北側の観持寺と、壬生川通り五条下ル辺にも紀貫之を祀るという福大明神社がある。

墓は、比叡山の大乗院の東北方にある。

紀貫之が詠んだ歌は

逢坂山

大堰川

桂川

紙屋川

で残っている。

紀貫之の女(娘)は どんな人かが わからない

関連記事 ⇒  音羽山 まち歩き山0166  歌碑だ

        小塩山 神社西0055  大原野神社

        福大明神がある  勧持院  加藤清正の宿舎

        

時代祭行列 前回の記事 ⇒ 時代祭行列 平安時代婦人列 紫式部 清少納言

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時代祭行列 平安時代婦人列 紫式部 清少納言

2020年11月28日 19時56分53秒 | まち歩き

この二人は 歩かないで 車に乗せてもらっています

清少納言  ⇒ 人物018 清少納言

紫式部  ⇒  関連0012 紫式部 ゆかりの各地

時代祭行列 前回の記事 ⇒ 時代祭行列  平安時代婦人列  常盤御前

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時代祭行列  平安時代婦人列  常盤御前

2020年11月28日 06時27分46秒 | まち歩き

 

常盤御前

時代祭では義朝の死後、清盛に子どもたちの助命を嘆願するため、息子の牛若丸を懐に抱いて六波羅に向かう姿が再現されている。

 

源義朝の妾、近衛天皇皇后の雑仕。今若、乙若、牛若の母。平治の乱で義朝を失い捕まったとき「3人の子は武士にしないから」と命乞いをして平清盛にかこわれた。のち一条長成と再婚。生没年不詳。

 

源光寺(右京区常盤馬塚町)

寺の東側にある。墓石は84程の自然石で、表面に「源氏義経御母室常盤御前御墓」とある。伝説によると、この地は常盤御前の生誕地といわれ、今若、乙若、牛若の三子を手放してのち、この墓所の桜の木の下に庵をむすんで冬ごもりをしていたと伝わる。

 

宝樹寺(東山区本町11丁目)

薬師如来坐像は世に子育常盤薬師とよばれ、常盤御前が牛若丸の生長を願って日夜祈願をこめた像と伝える。他に常盤御前雪除けの松の残株というのがあり、常盤御前が大和へ逃避の折り、伏見街道の老松の下でしばし雪の降るのを避けたと伝える。また、常盤御前が平清盛にしばらく囲われていた屋敷址というのがこの付近にある。(今熊野下池田町付近)

 

常盤御前就捕処碑

逃避行を続けていた常盤御前は、実母が拘束されたことを知り、六波羅に出頭しようと奈良・宇陀の里から戻る途中、ここ伏見で平氏側に捕まったと伝えられる。

(伏見区西奉行町・伏見合同宿舎内)

 

関連記事 ⇒ 寺院北0640 常徳寺 常盤地蔵 牛若丸

       石碑伏0105  一本松

       寺院東0326 寶樹寺 浄土宗

       神社伏0076-6 御香宮神社6  北参道入口 ・ 末社など

       源光寺 義経の母の生誕の地

時代祭行列 前回の記事 ⇒ 時代祭行列 平安時代婦人列 横笛

            ⇒ 時代祭行列 平安時代婦人列 紫式部 清少納言

       

 


まち歩き左1419 植物園生態園 見頃情報 R1.10.20現在

2020年11月27日 16時31分23秒 | まち歩き

マツムラソウ

ツリフネソウ

サクラタデ

アキチョウジ

ノコンギク

フジバカマ

サラシナショウマ

キブネギク

キセワタ

まち歩き 前回の記事 ⇒ まち歩き左1418 植物園の彫刻 「歓びと期待」 山崎 正義

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時代祭行列 平安時代婦人列 横笛

2020年11月27日 06時42分52秒 | まち歩き

嵯峨野に滝口寺があるが、ここはもと三宝寺といい、昭和の初めの頃に復興された往生院の子院です。ここは建礼門院の雑仕・横笛重盛の家来の齋藤時頼(19歳)が父親に反対されて恋に破れ、出家遁世し、滝口入道と号して入寺していたところと伝わる。門前の歌碑は滝口を慕って訪ねてきたのに会えなかった横笛が歌った一首がある。横笛はその後 大堰川の千鳥ヶ淵に身を投げて死んだとある。

時代祭行列 前回の記事 ⇒ 時代祭行列 藤原時代  公卿参朝列

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まち歩き左1418 植物園の彫刻 「歓びと期待」 山崎 正義

2020年11月26日 21時43分38秒 | まち歩き

 

昭和49年2月 建立

関連記事 ⇒ まち歩き北1084  彫刻 「寒」  山崎正義

 

まち歩き 前回の記事 ⇒ まち歩き左1417 植物園の彫刻 「麦藁帽子と少女」  宮瀬 富之

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     次回の記事 ⇒ まち歩き左1442 植物園内の彫刻像  「向ふ」


まち歩き左1417 植物園の彫刻 「麦藁帽子と少女」  宮瀬 富之

2020年11月26日 13時08分24秒 | 教育

宮瀬 富之 作品

「全国女子駅伝 皇后盃」 1989年(平成元年) 西京極総合運動公園正面玄関前

「青春の軌跡」 1989年(平成元年) 西京極総合運動公園野球場北側 

「麦藁帽子と少女」 1993年(平成5年) 京都府立植物園中庭

「巨大な輝き」不明琵琶湖疎水記念館前

 

 

まち歩き 前回の記事 ⇒ まち歩き笠置1416 笠置寺の道案内 猫

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彫刻  ⇒ まとめ020 彫刻


神社左0237 熊野若王子神社

2020年11月25日 20時23分41秒 | 神社

 

恵比須殿

当若王子神社の末社 夷川社の御祭神であります。

恵比須神像は木造寄木造り等身大の坐像で社宝の御神体として祀られ現在も多くの崇敬者より篤く信仰されております宝暦11年(1761)に書かれた「京町鑑」には「古老云、往古西洞院中御門―今の椹木町―に北山の下流あらはれ、またこの辺に蛭子(えびす)社有りしゆえ 恵比寿川と號し、其後次第に人家建つゝ゛きしゆえ通りの名とす、應仁の乱に此社亡滅し、川も埋もれ侍りしが不思議に蛭子の神像残り…云々」とありこの御神像が当社に祀られたと伝えられている。

熊野若王子神社

当社は永歴元年(1160)後白河法皇が熊野権現を勧請した若王子の鎮守社で 社名は天照大神の別称若一王子に因んでこのように名付けられた。

以後 室町幕府及び武家の信仰を集めると共に、花見の名所としても知られ、寛正6年(1465)3月には足利義政により花見の宴が催された。その後応仁の乱により社殿は荒廃したが、豊臣秀吉により再興され 社殿及び境内が整備された。

現在の社殿は昭和54年(1979)一社相殿に改築されたもので以前は本宮・新宮・那智・若宮の4棟からなっていた。

神社 前回の記事 ⇒ 神社笠置0236 稲荷社  笠置寺内

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