こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2015年9月7日 月曜日 日々雑響録

2015-09-07 05:47:02 | 雑記帳

1時寝て4時起きてしまう暗闇。トイレに行き、戻り再度暗闇寝床。
この土曜深夜知った音を掛ける。その後イーノを♪。言語概念を耳にしたくなくて「アンファミリア・ウインド」を小さな音量でエンドレスリピート。

暗闇でガラパゴスかちかち日記をメモ。暗闇が友達になる間合い。

***

土曜は昼から人と会い・歩いたため、毎週末リズムを形成するラジオを聴けず。(永さん&外山さんラジオまでは聴いた。まもなく終わってしまうけども。)
それ以外=TBS土曜午後放送(久米さん~宮川さんの流れ)をダウンロードし、歩きながら日曜聞かせてもらった。

″いつまでも在り続けるだろう″その迂闊な思い込みに気付くのは、それが消える/消えたと知ってからのことで、失ってから如何にそれが大事でハッピーなものだったか、存在の欠落を知る。それが街や人、ネコやラジオ番組等々どれにもあてはまる。

改革、復興、未来、再開発…等、人を見下し愚弄するB級エセ言語たち。
土曜は永六輔~久米宏~宮川賢、この流れから実に多くのハッピーを貰えてきたのだろう。。。確かに。

***

ここ数年、昔お世話になった(りお馴染みだった)DJたちの今を辿ってきた。
その流れから、昨年後半からだろうか?伊藤政則の土曜深夜ラジオを聴く、そんな夜が極めてまれにある。

ヘビーメタル全盛の80年代なら聴くことはなかった。
政則さんと言ってまず思い出すのは、やはり全英トップ20が終わる土曜深夜3時に始まるロックトゥデイ。番組イントロ・ドラムのカカカンという音、大げさな「火を吹く○○…、走る○○…」という語り。
しかし、放送が掛かっていたのはイントロ数分だけで、すぐにラジオを切って寝支度へ。。。

中学時代にレインボー、AC/DC、マイケル・シェンカー、サクソン、アイアンメイデンは聴いていたが、その後形骸化していったこの手合い音楽とは縁を切った。
それゆえヒットしたボンジョヴィ、ヨーロッパなどの曲への嫌悪感は大きかった。

そんな自分も一周二周と回遊してきて、たまたま出会ったボンジョヴィのヴォーカルのソロアルバムを買って聴いたり、昔じゃ考えられない変化。
そんな折の政則さんラジオとの出会い。

最近面白かったのは、AC/DC新譜を語る政則節。掛かる音楽もベビメタ一辺倒じゃなく、昔の全面抵抗が消え、たまに発見がある。
驚くのが60歳を過ぎても何一つ変わらないエネルギッシュで硬派なしゃべり方。
こんなほめ方は無いのかもしれないが、その持続力に圧倒される。

この9月5日深夜には、こんな耳を疑うような美しい曲に出会い知ることが出来た。

■Anathema 「Ariel」2014■

例えば、当時は微妙な人だった今野雄二、彼が居てこその渋谷陽一という色の違いだったり、中村とうよう先生が居てこその世界があったり。。。
何かそんなことを横になりかちかち書いているうち、夜が明けてきた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2015年9月4日 金曜日 季節の合い間

2015-09-04 23:55:56 | 音楽帳

火曜日、もはや夏とは呼びようもない雨の上野の森に居た。

その後、翌朝から社会の汚泥にまみれ、そこを抜けて島に戻る。
ふとっちょ黒ちゃんが、今夜は独り公園で夕涼みをしている。

月~金。
秋は確実に来ており、仕事の行き来に歩いて可愛いどんぐりを拾ったり、早くもハロウィンのディスプレイを見たりとささやかな愉しい瞬間も味わったが、まだ30℃になったり蒸し暑いときもあったりした。

昨年9月、暗闇の道をラジオ聴いて突き進んでいた週末を思い出していた。
ジェーン・スー氏が「9月はなんべんやっても夏」と生放送で話す。その話しにヒザを打った。楽しい季節のお話しだった。
9月になり気を緩めて、夏物衣類をしまった途端に、ぶり返す暑さに「もうしまっちゃったよぉ」。
よくある話だが、歩く肉体全身で季節の移ろいを味わう中で聴くラジオから、そんな身近な肉体を確認することがうれしく思えた夜道だった。

しかし、今年は多少の残暑はあれども、どうやらそうはならなそうな気配。
9月に竹内まりやさんの「セプテンバー」が見事にハマるなど、長年遠ざかっていた。

服は大して持たず、黒ばかりの衣類。
季節にかかわらずTシャツだけは大事な基本。
そんな具合だから、世間さまのころも替えとは無縁。衣食住の「衣」はたいして影響はない。

mp3プレイヤー内に適当に浮遊する夏の残滓たる曲。
その一部をしまい、秋の曲を入れようとする夜。

○しまうもの(夏)
細野さん、清水靖晃、砂原良徳、井上鑑、鈴木茂、南佳孝、高中正義、サーカス、ポート・オブ・ノーツ、ブロンディ、ブームタウンラッツ、クリストファー・クロス、ロータス・イーターズ、ティアーズ・フォー・フィアーズ、フラ・リッポ・リッピetcの一部の曲をしまう。
夏が短かっかたため、大して聴けないまま終わった曲たち。

■Lotus Eaters 「First Picture of You」1983■

誰も現代に牧歌的に生きられるはずがない。
だが病弱のため牧歌的であることを強いられた自然詩人たちはいた。
かれらを語るときにいくぶんか、気まずさと恥部をさらけだす辱かしい思いに誘われるのはなぜだろうか。

おまえはもっともらしい貌をして、難しく厳しく冷たく裁断するがじつは、おまえは少女たちの甘心を買うためにそういう姿勢をしはじめたのではなかったか。
遠いアドレッセンスの初葉の時に。

そう云われていくぶんか狼狽するように、これらの自然詩人たちへのかつての愛着を語るときに狼狽を感じる。この狼狽と気まずさと恥ずかしさの根拠のうち、とりだすに値することだけをとりだしたいのだが、その前にいうべきことはある。これらの自然詩人たちの詩と文学とは、まず自身の恥部を臆面もなく晒けだしたものを本質としていた。

『その高原で私の会ってきた多くの少女たちを魅するために、そしてそのためにのみ、早く有名な詩人になりたいという、子供らしい野心に燃え』(麦藁帽子)ている『私』は、とりもなおさず堀辰雄のアドレッセンスの自画像の投影だった。

堀の文学はいくぶんかの度合で昭和の自然詩人たちの恥部と、その愛好者の恥部とを象徴することになりえていた。もともと堀自身は現実生活の貧苦を解せぬような、甘い育ちの男ではなかった。旧士族の裁判所勤めの父親とその家の手伝い女中のあいだに生れ、母の再婚先の彫金師の家に育った。向島曳舟通りの路地裏だった。

下町の裏店のごみごみした家並で、病弱であまり子供の遊び仲間に入りたがらない内気な彫金師の連れ子というのが堀の少年期の境涯だった。それは盲目的で濃い人情に囲まれて、それなりに愉しいものだったろう。
だが同時に貧困ゆえに夜ごとに朝近くまで繰返される父母のいさかいを、目醒めて聴き耳をたてるような幼児の体験から、人生の「最初の悲しみ」をしったのだった。

堀辰雄もその文学もそんな飴チョコになる謂れもなければ、甘美な憧憬のみを表象するはずもなかった。
(吉本隆明 歳時記 『夏の章-堀辰雄-』より/昭和53年[1978])





コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2015年9月1日 火曜日 秋・雨の上野公園

2015-09-01 23:25:08 | スケッチブック

気が付けば不思議な夏・・・。
一風堂(土屋昌巳さん)のオリジナルラストLP『ナイト・ミラージュ』収録「アフリカン・ナイト」一節だが、ほんとにお盆(失礼:梅雨)は明けたのか?という蒸し暑さをひきづりながら、そこに35℃越えの焼けつく日々が続いた今夏。

そんな悪魔も8月最後の週に入ると、一気に30℃切れへと失速、はうれしい想定外。
歩きシャッターを切る像には、既に秋の色味が見えていた。そして、8月が終わり9月へ。。。

この季節が一日でも長く続くといいな。。。
まるで小さい子が言うような口調で女の子に言われて、そうだね、と返す。

”おしごと”は盆明けから、クニが決めた意味不明の”余計な配慮”=9月5連休対策へ。
その途上・休んでいる場合じゃないが、ルール上・夏季休暇を消化せねばならず、今日休みを取った。

雨が降ったりやんだりのぐずついた天候。それもまた良し。
室内に居ると窒息しそうなので、外に出て歩き出す。降ってもやんでも外に出るから、あまり違いはないのだが。

***

観に行きたいと思い、チケットを買っていた展覧会も”いずれ”と言い訳をしながら後送りしてきたが、開催終了に近付き、いつもは行き当たりばったりの自分が珍しく目的を持って歩き出す。
この日曜で終わる『伝説の洋画家たち -二科100年展-』へ。

戦後の匂いを長く保ってきた上野。
駅前”じゅらく”から並ぶ通り、上野公園の噴水、そのスキマに住まうホームレスの人々の構図。それらはとうにローラーで”浄化”するべく体制に殺され・消えた風景のなかを痴呆気味に歩く。

9月1日・そぼふる雨は見える風景を曇らせたが、それは過去と今日を橋渡しして繋げてくれた。展覧会が開かれているのは東京都美術館。ふだんは「都美館(とびかん)」と呼ぶ。

ひさしぶりの感じがする。
常に燃え続ける画家・横尾さんの三叉路シリーズ展やムンク展など、ここで観た時のインパクトの残像がよぎる。
もっと言えば、大学時代アルバイトでココの搬入のチカラ仕事をしていた頃。

著名な絵画展は、絵の扱いが大事なので任せられず、おおむね一般人の絵画展・書道展だったが、絵を搬入してフロアに掛けていく仕事は割りが良い”とっぱらい”だった。
1日で8,000~9,000円くらい日雇いで貰い、夕方には解放される。
そのお金を持った帰り道に、小銭程度でコーヒーや缶ビールを呑む。そんなしあわせの瞬間を想い出した。

雨降る上野公園を歩いている最中、さまざまな音楽が脳内を流れた。
デヴィッド・シルヴィアンの「9月」、レイン・トゥリー・クロウ「ブラックウォーター」、ジョン・フォックス「雨上がりのヨーロッパ」。。。etc。自動生成に任せる。

展覧会は、平日にしては意外と人が居たが、おだやかな年配の方が中心で心地良かった。
もはや亡くなってしまった”文壇”も、こうした”画壇”にも、大いなるウソが含まれるので複雑だが、好きな画家である岡本太郎・佐伯祐三・長谷川利行・山口薫・藤田嗣治の肉筆には興味津々だった。

良い絵もあれば、そうではない絵もある。

それは常それぞれの人の生きてきた路とこすれ合うものだから、インターネットやデジタルで理解できるものではありえない。百人百様。だから観に行く。くだらないメールバトルを明け方しているヒマがあったら、雨だろうが外に出て、雨に打たれたほうがマシだ。

これは絵に限らないことだが、絵を見るとその横に在る作者が生きた時代の数字を見て計算してしまう。それ自体は昔からのクセだが、今では肉薄した事実。

長谷川利行 1891-1940

そこに刻まれた数字と今の時代への距離、そして、自分年齢で”あと何年”と計算してしまうクセ。
[私が彼なら死んでいる]
80年代と今を測る長さに倍率を掛けてみると、100年ごときなどあっという間の花火に過ぎない。
最近はそう思う。そう思ってから、明治・大正の人たちがぐんと近づいて感じられる。

大阪生まれ(失礼:京都生まれ)、酒呑みでアナーキーな印象の強い長谷川利行。
かつて『美の巨人たち』で見て、記憶に刻まれた「タンク街道」が浮かぶ。
形状は違えど、幼少から三ノ輪は下駄屋・荒木さんの実家から浄閑寺を左にして、なだらかに傾く延長線上・遠景に見ていた、南千住のタンクを描いた絵。荒れた筆のリアリティ。
この展覧会では浅草・神谷バーを描いた、という作品。走らせた絵筆とはねた絵具の痕跡。

薄暗い中、観る人がうごめく。
しかし、これを描いた人たちはもう居ない。
絵だけが在る。
それが、存在する絵よりも印象に残った。

絵だけが残る中をうごめく人々の姿にシャッターを切りたいが、そうもいかぬ。
とある画家の静物画の説明に書かれた言葉。「物がそこに在る、という不思議」。
その画家はそれに導かれて、病気で外に出られない室内で静物画の魅力にとりこになったという。



■ウラミジール・コスマ 「センチメンタル・ウォーク」(映画『デイーヴァ』サウンドトラック)■

ああ、やっぱね~っ、といくら思われても、雨の上野公園のリアルな風景を目の前にすると、未だ好きな映画「ディーヴァ」の美しさを想い出す。

「絵を描くことは、生きるに値するという人は多いが、
生きることは絵を描くことに値するか」(長谷川利行)


「美の巨人たち」(2002年7月27日放送)で見たものをパソコンで取り込み印刷してノートに貼り込んだ当時。
その2002年ノートを、今一度めくる。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする