こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2012年5月28日 月曜日 「1987年4月2日の夜」

2012-05-28 22:12:19 | スケッチブック



上は、1987年4月2日のノートに書かれた色鉛筆・万年筆・マジックでの絵である。
自分の横に寝ているのは、当時の愛猫・茶介くん。
実のところは、現実には寝るのが怖くて、こんな大の字で寝てなどいられない状態だった。

***

中学、高校、素浪人・・・と歳を経るごとに精神的に追い詰められて行った結果、1986年に自死に失敗しつつ、周囲が迫ってくる幻覚・眠れない恐怖と戦っていたが、その理由はその後、ユングに出会い・心理学・精神医学の本を読み、次第に「自覚」に至っていく。

・・・・かんたんに言ってしまえば、追い詰められた現実が、受け入れる容器(心身)からあふれ出ての破綻。
抑圧とねじりや迷走が絡み合って、どうにもならなくなった状態の最果て。
耐えに耐えてきた抑圧の中、何とか崩壊しようとする自我のほころびを縫いつつ、生き耐えて行こうと細い糸を繋ぎながらも、限界値を超えた。

当時、精神的な破綻は、自分にとって忌避すべきことであり、悟られまいとした。
狂気も精神破綻も認める訳にはいかなかった。
しかし、結局、志半ばで折れた。
そして、医者も薬も嫌っていたのに、薬のドランカー状態にハマっていく。

何とか、精神のことは精神でカタを付けねばならない、と思っていた信念は、ここで終わる。
未だに痛み止めを飲まない主義である、と語る人を見ると敬意を抱く。
自分が、越えられなかった危機を、この人は多分、何かに依存せずに超えてきたのだ、と思う。

***

自我の危機的状況の中、自分がすがったのは、ノートへの走り書きメモ・物語・夢的なイラスト描き。
そこに自分を逃げ込ませようとしていた。
今思えば、これは明らかなる精神後退現象だったかもしれない。
ただ、そこに没入している時だけ、少しだけ安心があった。

上のような絵を毎日毎日、描いていた。

***


そこから距離を置いた今言えるのは、当時はやむを得なかったのであろうが、あらゆるプレッシャーから、逃げに逃げた結果、現実を正視出来ず、自己肯定を出来なくなっていた。
というか、とてもではないが、もう逃げ場の無い地点で、構造的に成立出来ない自我になってしまっていた。

薬とは、当時、自分にとって、暴れる精神患者がモルヒネ注射を打たれて、鎮圧させられるような感覚だった。
しかし、とりあえずの代替えの自我を作るべく、一旦、精神を後退させたまま、ひたすら絵とメモを続けるしか手は無かった。

***

自分は、そこで一度目の人生が終わったと思っている。
一旦、後退した状態から、改めて多くの本や音楽や生き物や友人と出会いながら、ゆるやかに、社会への軌道に入って行った。
一生廃人の牢獄だけは回避した。

まあ、この二度目の人生も変わらない部分は、やっぱり変わりは無い。
でも、あの地獄よりもマシなのだろう。

今もたまーに、いたずら描きなどはする。
見た目は、似たもの。
しかし、自分自身には似て非なるものである。
コメント
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