こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2013年5月22日 水曜日 「それぞれの作法、それぞれの祖」

2013-05-22 22:54:44 | 音楽帳

ヒトそれぞれには、それぞれの「食事の作法」がある。
しかし、2013年現代では「作法」などという、日本が古来持ってきた「食物とじぶん」の対峙するに際しての規律は、ほとんど見当たらない。
家族自体が崩壊した中で、作法も何も無いのかもしれない。

先日、ひじき・小松菜・揚げを混ぜた「混ぜごはん」を、じぶんは「菜(な)めし」と呼んだが、それは、お袋さん経由で、じぶんもそう呼んでいるだけ。
幼い頃に、よく他人の家庭にお呼ばれした際に気付いたのが、その家庭内での風習なり作法。
「じぶんがこう思っていることとは違うんだなあ」という感触。
それより前に、他人の家庭の玄関を入ると同時に、その家ならではの「じぶんの家とは異なる匂い」に気付かされるのが先であったが。。。

「菜(な)めし」と呼んでいることを辿っていくと、日本間のかもいの上に飾られたモノクロームの写真でしか会ったことの無い・じぶんにとってのひいおばあちゃん・ひいおじいちゃんに辿り着く。
「ひいおばあちゃんは、菜めしと呼んでね。それが大好きだった。
ひいおじいちゃんは、学校にも行ったことが無いのに、読み書き・計算が出来て、孫にも優しかった。
庭師で、よく行った先でお三時に出てくる和菓子を紙にくるんで、じぶんは食べずに持って帰って・わたしにくれた。」

「祖」との繋がりは、三ノ輪で過ごした15年の間に、大勢の親戚縁者や地域共同体とのやりとりから、じぶんの底に沈んで定着している。

よく「食物とじぶん」の対峙の中で、一番好きなものを先に食べるか?あるいは、一番最後に取っておくか?
そんな習性は、まさにそれぞれの在り方に直結している。

私自身がどちらか?と言えば、一番好きなものを最後に取っておく、という後者であった。
しかし、歳を経るごとに、また、3・11以降変わっている。
いついなくなるかを思えば、前者になる。
それは、食だけのことだけでは無い。

かつてのじぶんは、音楽や本など・・・「恐れ多い」と思うものは、買ったとしても、「いっとき寝かせておく」という習性があった。
ある一定の「熱さ」が去った後で、少しずつ味わい出す、という具合。

ここで上記に対する、早々なる矛盾がある。
8年もだらだらと、身勝手で精神分裂病独白を続けながらも、無意識に「一番好きなものを最後に取っておく」ことをしてきた。
そこには、余りに好きなゆえに、好きなアルバムについて・曲について、語るも恐ろしい、という作用が働いていた。というか好きな分だけ言語化出来ない、とも言える。
となると「3・11以降変わっている」なるも、いささか欺瞞じみてくる。

YMO+3人という4つが「祖」であるにも関わらず、YMO・細野さんや教授について語りながらも、幸宏について語ることを、極力回避してきた。
かつて、じぶんは幸宏の音楽には「幼くして大好きだった母を失ったことが、大きく音楽に影を落としている」と言ったが、その感じ方には変わりは無い。
まるでじぶんでじぶんに刃(やいば)を突きつける・リストカットすることで精神を浄化させるかのように、痛々しい吐露が彼の音楽にはあり(彼は否定するだろうが)、そこには他人事とは思えないシンパシーをじぶんが抱くゆえと考えている。

今まで紹介をすることを避けていた曲である、幸宏の「SAYONARA」。
これは後のアルバム「EGO(イーゴ)」の「レフト・バンク(左岸)」でも顔を出す、近くて遠い存在が、「向こう岸にいる」という幻覚。
それをナイーヴな彼は、無意識にロマンティズムという形に変えて表現している。そうじぶんは思っている。
■高橋幸宏 「SAYONARA」1982■
「What Me Worry?(ボク、大丈夫)」より


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