モノに執着した自分にしては、少しづつではあるものの、捨てる行動に出始めている。
明日なき世界にあって。
私は人生において、モノを一気に捨て去ったことが何度かあった。
一つ記憶にあるのは、中学に入る頃。
無理矢理押し付けられた教科書に学習本、ついでにお下がり受けた本などを、家の裏に積み上げて火をともした。
このようなことは何度もあったが、モノが自分を支配する。身動きを出来なくする元凶、ということはよくある。モノに限らず、人間関係含めて火をともして絶ち・剥いでいくと、中に芯が見えるはず。。。と思いきや、空っぽの真実があらわになった。
それは、某草加川沿いにカセット等をゴミとして放った深夜の暗がり。二十歳の冬。
内側で魔が騒ぎまくりどうにもならなくなった、死に向かう前の最後の風景であった。
その前後に読んでいた島田雅彦さんの「僕は模造人間」もスイッチの一つとなった。
正直、あのときの自分はどうにかしていた。だが、私が日々のおり、戻るべきサーモスタットの1つは、あのときの感覚である。「私」を構成させる中のノイズを除去した上で、見える風景こそ大事。
よく「人生は○○との戦いだ」「世界は○○との戦いだ」という言い回しがある。
この○○だが、実は何をはめても”それらしい”説得力を持つ。
たった一つですべてを括ることなどは詭弁なのだが、もっともらしくなる。
そういう意味では、「人生はゴミとの戦いだ」と言える。
親が40近くになって産まれたせいで、幼い頃やたらと何かを買ってもらえたが、無理矢理いろんなモノを「おっつけ」られた。受ける側の私はそれをどうこなし・いつゴミと認定するか?に悩んでいた。
全くぜいたくな話だが、なかなか捨てられない性格だったので、ひたすら溜まって沈殿していくモノの存在との戦いは、そんな頃から有った。
【戦争・震災・自然災害に唐突に呑み込まれ、すべてを失った方を思えば全くぜいたくだろうが、幼い頃から”経済”なる魔の手によって湯水のように不必要なモノを押し付けられ、その一方でひたすら好きな街が破壊され続け、常なるものを失ってきた私にも言えることはある。
そして今、五輪の為に東京が再度破壊進行中にある。どうせなら、ゴジラや怪獣たちに潰された方が納得できる。】
今2015年は、真理は別としても「エコ」という言葉があり、過剰消費を善とする思想と拮抗すること、(これまた疑わしい)「デジタル化」があることでゴミの相対量は減っているかもしれないが、それはただの流れ上のめぐりあわせ。それらに救われている部分はあるが、カッコで括ったように、民をコントロールするための戦略用語の1つに過ぎない。
また「断捨離」という言葉があり、それ自体の発想には頷くが、この言葉で一儲けする特定人物や受け手が”捨てねばならない”強要と誤解を受ける面があるので、どうも頷けない。
断捨離の本来の発想は、モノを捨てることではなくて、モノ以外も含めて、ある「とらわれ」となっていることからの離脱が、より良い状況に向かうという考え。
そういう意味では、実際にモノを捨てようがどうしようが、悟りとは無縁なのである。
そう言っては、なかなか捨てられない自分をごまかしている。
なぜこんなことを書くに至ったか?は、今日、比較的心が安定する喫茶店で三行日記を書いていたり、ポリスを聴いていたことだったりする。小林先生が言うような「三行日記で健康になる」ことは無いが、より少ない言葉・字数にまとめ上げる発想は良い。日々の見通しをさせやすくする。
ポリスとの出会いは「孤独のメッセージ(Message in a Bottle)」(1979年)。
ポリスの5枚のオリジナルアルバムで、よく最後の「シンクロニシティ」を名盤に上げるが、私個人は想い入れが強い「ゴースト・イン・ザ・マシーン」(1981年)を忘れるわけにはいかない。1981年、秋から冬への刻印。同時期に「テクノデリック」や「エデンの嵐」があった。
決して全曲が素晴らしいわけではないが、ポリスにしては、それまでにないくぐもったモヤのような音風景や、陰鬱な曲が収録されている。そして、音色(おんしょく)が素晴らしく美しいのだが、それは多分にプロデューサー、ヒュー・パジャムによるものと勝手に思っている。
「ゴースト・イン・ザ・マシ-ン」。機械の中の亡霊。
この言葉と連動していつも思い出すのが、中学生の頃夢中になって読んでいた栗本慎一郎さんの本の一節。
同じモノを大量生産させ、品質も平準化させることが可能になった今(80年代)も、そういう電気製品に当たり外れがあるというのは、モノではない、何かが作用しているはず、機械そのものに魂的な何かがあるのではないか?といった内容。そこに栗本さんは、可能性なりヒントがあると言っていて、そこにビビッと来たので、未だに覚えている。
ポリスのこのLP、A面1曲目は最初にシングルカットされた「スピリッツ・イン・ザ・マテリアル・ワールド」。マドンナが物質至上主義の世界を逆手に取って「アイ・アム・ア・マテリアル・ガール」と煽り、言い放ったのは1984年のこと。
このLPにはたくさん良い曲があるが、1981年冬の寒い中、よく脳に浮かべていたこの曲を今夜は。
■ポリス 「暗黒の世界」1981■
帰宅すると室内24℃。外のほうが涼しい。
明日なき世界にあって。
私は人生において、モノを一気に捨て去ったことが何度かあった。
一つ記憶にあるのは、中学に入る頃。
無理矢理押し付けられた教科書に学習本、ついでにお下がり受けた本などを、家の裏に積み上げて火をともした。
このようなことは何度もあったが、モノが自分を支配する。身動きを出来なくする元凶、ということはよくある。モノに限らず、人間関係含めて火をともして絶ち・剥いでいくと、中に芯が見えるはず。。。と思いきや、空っぽの真実があらわになった。
それは、某草加川沿いにカセット等をゴミとして放った深夜の暗がり。二十歳の冬。
内側で魔が騒ぎまくりどうにもならなくなった、死に向かう前の最後の風景であった。
その前後に読んでいた島田雅彦さんの「僕は模造人間」もスイッチの一つとなった。
正直、あのときの自分はどうにかしていた。だが、私が日々のおり、戻るべきサーモスタットの1つは、あのときの感覚である。「私」を構成させる中のノイズを除去した上で、見える風景こそ大事。
よく「人生は○○との戦いだ」「世界は○○との戦いだ」という言い回しがある。
この○○だが、実は何をはめても”それらしい”説得力を持つ。
たった一つですべてを括ることなどは詭弁なのだが、もっともらしくなる。
そういう意味では、「人生はゴミとの戦いだ」と言える。
親が40近くになって産まれたせいで、幼い頃やたらと何かを買ってもらえたが、無理矢理いろんなモノを「おっつけ」られた。受ける側の私はそれをどうこなし・いつゴミと認定するか?に悩んでいた。
全くぜいたくな話だが、なかなか捨てられない性格だったので、ひたすら溜まって沈殿していくモノの存在との戦いは、そんな頃から有った。
【戦争・震災・自然災害に唐突に呑み込まれ、すべてを失った方を思えば全くぜいたくだろうが、幼い頃から”経済”なる魔の手によって湯水のように不必要なモノを押し付けられ、その一方でひたすら好きな街が破壊され続け、常なるものを失ってきた私にも言えることはある。
そして今、五輪の為に東京が再度破壊進行中にある。どうせなら、ゴジラや怪獣たちに潰された方が納得できる。】
今2015年は、真理は別としても「エコ」という言葉があり、過剰消費を善とする思想と拮抗すること、(これまた疑わしい)「デジタル化」があることでゴミの相対量は減っているかもしれないが、それはただの流れ上のめぐりあわせ。それらに救われている部分はあるが、カッコで括ったように、民をコントロールするための戦略用語の1つに過ぎない。
また「断捨離」という言葉があり、それ自体の発想には頷くが、この言葉で一儲けする特定人物や受け手が”捨てねばならない”強要と誤解を受ける面があるので、どうも頷けない。
断捨離の本来の発想は、モノを捨てることではなくて、モノ以外も含めて、ある「とらわれ」となっていることからの離脱が、より良い状況に向かうという考え。
そういう意味では、実際にモノを捨てようがどうしようが、悟りとは無縁なのである。
そう言っては、なかなか捨てられない自分をごまかしている。
なぜこんなことを書くに至ったか?は、今日、比較的心が安定する喫茶店で三行日記を書いていたり、ポリスを聴いていたことだったりする。小林先生が言うような「三行日記で健康になる」ことは無いが、より少ない言葉・字数にまとめ上げる発想は良い。日々の見通しをさせやすくする。
ポリスとの出会いは「孤独のメッセージ(Message in a Bottle)」(1979年)。
ポリスの5枚のオリジナルアルバムで、よく最後の「シンクロニシティ」を名盤に上げるが、私個人は想い入れが強い「ゴースト・イン・ザ・マシーン」(1981年)を忘れるわけにはいかない。1981年、秋から冬への刻印。同時期に「テクノデリック」や「エデンの嵐」があった。
決して全曲が素晴らしいわけではないが、ポリスにしては、それまでにないくぐもったモヤのような音風景や、陰鬱な曲が収録されている。そして、音色(おんしょく)が素晴らしく美しいのだが、それは多分にプロデューサー、ヒュー・パジャムによるものと勝手に思っている。
「ゴースト・イン・ザ・マシ-ン」。機械の中の亡霊。
この言葉と連動していつも思い出すのが、中学生の頃夢中になって読んでいた栗本慎一郎さんの本の一節。
同じモノを大量生産させ、品質も平準化させることが可能になった今(80年代)も、そういう電気製品に当たり外れがあるというのは、モノではない、何かが作用しているはず、機械そのものに魂的な何かがあるのではないか?といった内容。そこに栗本さんは、可能性なりヒントがあると言っていて、そこにビビッと来たので、未だに覚えている。
ポリスのこのLP、A面1曲目は最初にシングルカットされた「スピリッツ・イン・ザ・マテリアル・ワールド」。マドンナが物質至上主義の世界を逆手に取って「アイ・アム・ア・マテリアル・ガール」と煽り、言い放ったのは1984年のこと。
このLPにはたくさん良い曲があるが、1981年冬の寒い中、よく脳に浮かべていたこの曲を今夜は。
■ポリス 「暗黒の世界」1981■
帰宅すると室内24℃。外のほうが涼しい。
確かにそんなウソが流布していたときが有ったようにも思いますが、元々はソニーは嫌いなメーカーでした。
嫌いだった理由は明快で、音より機能性とカネの回収能力を重視し、CM等メディアをフル活用すること「だけ」のメーカー姿勢。
酒分野のサントリーと同じ。
そういう自分が、まさかVAIOを買い、「マイバイオちゃん」と寵愛するまでになるとは思いませんでした。私のVAIOは、愛に答えるように10年近く活躍しました。
ただ、keronさんも思うように、何かがマシンの中にはある。そういう立証出来ない想いがあります。
マドンナは「生き抜く」という意味において、敬意を抱いています。単なる馬鹿なエロネエチャンでは無い。
しかし、マテリアルガールのニュース知りませんでした。
たぶん、あの頃はとりあえず話題性をかっさらうことで、後の活動への布石を打ったのでしょう。それが本当はやりたくなかった、という真相でしょうね。
いろいろ知らない話しを教えてくれて、ありがとうございます。
栗本慎一郎先生のくだりで「ソニータイマー」という言葉を思い出しました。ソニー製品は好きなのですが相性は悪いみたいで、よく法則が発動していました(笑)。
電化製品や車などはやはりそれぞれ「個」があるように思えてなりません。
今年3月位のニュースでマドンナが
「私が一番きらいな曲は、『マテリアル・ガール』。絶対に、今後、もう二度と聞きたくないの」
と突然言い放ったのにはびっくりしました。え?今?
人が羨むすべてを手に入れても、手に入らなかったものがあるからでしょうかね。ではでは。