すっかり、大竹伸朗の「全景」を先週見に行ってから、関心は、大竹さん。
会社では、人目を盗んで、創作活動。
帰り道では、MD録音機で、帰るまでの道の音を録音。
これを、持ち帰り、エコーかけたりいろいろいじって作品にしようと思っている。
帰りの電車での酔っ払いおやぢ3人の会話も録音した。
***
帰って夕食の後、こないだ「全景」展で買った、大竹さんのグループ「19」の「EZMD」(マルセル・ヂュシャンに捧ぐ)を聴く。
そのうち、手は、久々に、坂本龍一の「未来派野郎」に。
「バレエ・メカニック」に感動。
***
「未来派野郎」は、私の浪人とノイローゼとの戦いの果ての、最終局面、'86ー'87年に流れていた。(発売は、1986年4月21日)
細野さんのコトバに置き換えると「OTT(オーヴァー・ザ・トップ)」
資本主義が、これまで以上に無いほどに加速し、全てが「過剰」に向かい、チキガイじみた閉塞感の中、中で膨張した世界は、私の中でも、1986年末に臨界点・破綻を迎える。
危うく、自殺衝動を向かえ、それを越える頃、このアルバムは流れていた。
私には、忘れようにも忘れられない因縁の一枚のLPだ。
***
「最近、お前もわかりやすくなっちゃったね」と言われると坂本が言っていたのは、1983年頃だったか?
その言われたという人物は、私の想像では、友人のアート・リンゼイと大竹伸朗である。彼らの頭にあるのは、「B-2UNIT」であり「WarHead」であろう。
その後、そこにたたきつけた久々の過激な坂本龍一は、モリサ・フェンレイのパフォーマンスのためのアルバム「エスペラント」と、この「未来派野郎」である。
「全ては遊びに過ぎないから」とバカにして、おちゃらけていた坂本龍一が、YMOを散会させて、やっと一人に戻り、その「個」としての戦いが真に始まったのは、この「未来派野郎」かもしれない。
初めて「個」人としてのコンサートをし、今までに無いほどに、動きのある音楽、動きのあるステージを行ったのは、社会に対峙しながら、「個」を獲得するための真剣な戦いと悲劇的な叫びに、私には捉えられた。
36歳にして、坂本龍一は、実に遅いステージ・ソロ・デビューをした。
ステージで汗を流す坂本龍一の目には、もはや「全ては遊びに過ぎないから」という、逃走し続ける、片手間の姿は無かった。
***
このアルバムには、「ロック」に同一化されないまま、生きてきた自分に対するクエスチョンをし続けてきた、1つの応えの形がある。
必死に、その「ロック」、それに「グルーヴ」感に程遠い自分の姿へのあらがいがある。掌握したテクノロジーと、自分なりの鍛え方を経て、このアルバムは、その「ロック」と「グルーヴ感」を出すことに、注力されている。
このアルバムのレコーディングに入る前に、彼は、ヘヴィメタルやレッド・ツェッペリンの全アルバムを聴き直していた。
思えば、この時期こそは、不思議に、テクノが、資本主義社会の過剰さを背景に、そういったロック的なものに接近していった、実にいたいたしい時代だった。
それは、後のミニストリー初めとした流れや、近時では、アンダーワールドなどの世界のような到達点ではなく、やむなくそこに追い込まれていった不幸な時代と言っていいだろう。
少しも平和ではない。(たとえ、今、聴くこのアルバムが、今時点ではどれだけ素晴らしかろうと)
「未来派野郎」坂本龍一 <ウィキペディアより引用の上、補足・追記した>
1・Broadway Boogie Woogie ( music by Ryuichi Sakamoto, words by Peter Barakan )
坂本にとっては初めての、ブルースコードを使用したロックンロール的ダンスナンバー。曲名は、ピート・モンドリアンのマンハッタンを上から見下ろした様を描いた絵画の題名からとられた。ヴォーカルはバーナード・ファウラー(マテリアルの「OneDown」にも参加、オーディションをした上で、彼に坂本はヴォーカルを依頼。)と吉田美奈子。曲中流れる男女の会話は、映画「ブレードランナー」からワンセンテンスずつサンプリングして、それぞれ別の場所にあったものを会話風にコラージュされた。間奏のギターソロは当時21歳だった鈴木賢司で、坂本から「鈴木賢司らしい演奏を」と注文したテイクが採用された。サックスは当時ジェイムズ・ブラウン・バンドに在籍していたメイシオ・パーカーJr。
2・黄土高原 ( music by Ryuichi Sakamoto )
坂本の楽曲では数少ない、オーソドックスなコード進行を持つ楽曲のひとつ。テクノの呪縛がとけて、いわゆるフュージョン的なテイストが全面に出ている。エレクトリックピアノの演奏は、手で演奏したものを一度NEC PC-9801対応のカモンミュージック社製音楽制作ソフト“レコンポーザ”に取り込んで細かくエディットされ、人間とコンピュータの中間の独特なノリを狙っている。16分音符と32分音符の組み合わせによる細かなシーケンスフレーズが曲を通して流れ続ける。コーラスは吉田美奈子による多重録音。レコーディング中にたまたま遊びに来た飯島真理が気に入り、歌詞をつけて12インチシングル「遥かな微笑み」としてカヴァーしている。なお、曲名は「こうどこうげん」とも「おうどこうげん」とも発音できるが坂本自身は前者を使用している。アルバム『メディア・バーン・ライヴ』にはライヴヴァージョンが収録されている。
サウンドストリートでも「機械で、何とか黒人の持つグルーヴ感を出せないか?と思い、作った」と言っていた。
3・Ballet Mecanique ( music by Ryuichi Sakamoto, words by Akiko Yano, translated by Peter Barakan )
元々、岡田有希子('86年4月8日飛び降り自殺で死去)に提供した「ワンダー・トリップ・ラヴァー」を歌詞を書き換えてセルフカヴァーしたもの。時計が時を刻む音や、カメラのフィルムを巻き取る音などをサンプリングしてリズムを組み立てている。ヴォーカルはバーナード・ファウラー、バッキングギターは当時パール兄弟のメンバーだった窪田晴男。ギターソロ・パートは、鈴木賢司のプレイ数テイクをサンプリングし継ぎ接ぎしたもの。後に、中谷美紀に「クロニック・ラヴ」のタイトル・別の歌詞で提供した。アルバム『メディア・バーン・ライヴ』にはライヴヴァージョンが収録されている。
今、聴くと、楽曲の素晴らしさもさることながら、鈴木賢司のギターが素晴らしすぎる。名曲である。
4・G.T.II ( music by Ryuichi Sakamoto, words by Peter Barakan, original Japanese words by Akiko Yano )
曲名は「グランツーリスモ(大旅行)」の意で、車の衝突音で曲が始まる。サンプリング音の組み合わせによるリズムの凝りようは尋常じゃない。ヴォーカルはバーナード・ファウラー、ギターは窪田晴男。シングルカットされた「G.T.」のメガミックスヴァージョン。
アート・オブ・ノイズの「Legs」のヴォイスがサンプリングされている。
B-1・Milan, 1909 ( music by Ryuichi Sakamoto )
“スペースコロニーの東洋人地区に流れるBGM”というイメージで作られた曲。1909年は詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティが未来派宣言を発表した年である。後半から現れる高次倍音を含んだ声は、マッキントッシュの「Smooth Talker」というソフトで作られたもの。
B-2・Variety Show ( music by Ryuichi Sakamoto )
サンプリング音で組み立てられたヒップホップ的なビートの上に、“さるルート”から手に入れたというマリネッティの演説が乗る。マリネッティは、自身の演説会のことを“ヴァラエティー・ショウ”と呼んだらしい。
B-3・大航海 Verso lo schermo ( music by Ryuichi Sakamoto, words by Caori Cano, Italian translation by Syuhei Hosokawa )
ヒップホップのビートの上に、オペラ的歌曲を無理矢理乗せたいという坂本の野望から生まれた曲で、当時細野晴臣が傾倒していたOTT(Over The Top)の坂本版。強迫的なリフ部分と、複雑な転調を何度も繰り返す歌部分に分かれる。狂気的なヴォーカルはかの香織。初期の仮タイトルは「機械状無意識」。「プレイング・ジ・オーケストラ」ではオーケストラの演奏とバーナード・ファウラーのヴォーカルで再演。
B-4・Water is Life ( music by Ryuichi Sakamoto )
クラシックのCDからの音源を切り刻んで編集したコラージュ音楽。
B-5・Parolibre <パロリブレ>( music by Ryuichi Sakamoto )
初期の仮タイトルは「オペラ」。タイトルはイタリア語で1910年代の未来派の自由詩のことで、未来派に関わったアーティストによる造語といわれ(直訳すると「話し文学」)、読み方は「パロリーブル」となる。坂本としてはブッチーニのオペラの中の間奏曲のようなつもりで書いている。主題はヘ長調であるのに対し、中間部では変ホ短調に転調する(調性対比)。後半のボーカルはかの香織。ギターはアート・リンゼイ。前半のメロディー部分のオンド・マルトノ(正弦波)はDX 7によるもの。テーマの再現部において、ピアノの後ろでうっすら聴こえる不協和音がいかにも坂本的。後に『1996』でピアノ三重奏アレンジで再演。アルバム『メディア・バーン・ライヴ』にもライヴヴァージョンが収録されている。
***
このアルバムは、ひどい長い時間を、結果的に拘束されてしまった失敗作「音楽図鑑」への反省も踏まえ、スピードを重要視し、約1ヶ月半という、キチガイ的超スピードで作られた。
それは、このアルバムを聴くとわかるように、それまでに無い、細かい部分へのこだわりの無さ、一筆書きのような世界とでもいうのか、時にアンバランスな面も含めながら、一気に完成させられたものだ。
臨界点を経て、クール・ダウンしていく「Parolibre」という、ゆったりしたピアノ曲が、「終末」をかなでるのを聞きながら、私は、服用したトランキライザーが次第に、自分の「意思」の力をかき消して溶かし込むように、カラダと精神を麻痺・弛緩させていくのを感じていた。1986年の暮れであった。
あれから20年が流れたんだね。
「僕には 初めと 終りが あるんだ
こおして 長い間 空を見ている
音楽 いつまでも 続く 音楽
踊って いる 僕を 君は 見ている」(バレエ・メカニック)
会社では、人目を盗んで、創作活動。
帰り道では、MD録音機で、帰るまでの道の音を録音。
これを、持ち帰り、エコーかけたりいろいろいじって作品にしようと思っている。
帰りの電車での酔っ払いおやぢ3人の会話も録音した。
***
帰って夕食の後、こないだ「全景」展で買った、大竹さんのグループ「19」の「EZMD」(マルセル・ヂュシャンに捧ぐ)を聴く。
そのうち、手は、久々に、坂本龍一の「未来派野郎」に。
「バレエ・メカニック」に感動。
***
「未来派野郎」は、私の浪人とノイローゼとの戦いの果ての、最終局面、'86ー'87年に流れていた。(発売は、1986年4月21日)
細野さんのコトバに置き換えると「OTT(オーヴァー・ザ・トップ)」
資本主義が、これまで以上に無いほどに加速し、全てが「過剰」に向かい、チキガイじみた閉塞感の中、中で膨張した世界は、私の中でも、1986年末に臨界点・破綻を迎える。
危うく、自殺衝動を向かえ、それを越える頃、このアルバムは流れていた。
私には、忘れようにも忘れられない因縁の一枚のLPだ。
***
「最近、お前もわかりやすくなっちゃったね」と言われると坂本が言っていたのは、1983年頃だったか?
その言われたという人物は、私の想像では、友人のアート・リンゼイと大竹伸朗である。彼らの頭にあるのは、「B-2UNIT」であり「WarHead」であろう。
その後、そこにたたきつけた久々の過激な坂本龍一は、モリサ・フェンレイのパフォーマンスのためのアルバム「エスペラント」と、この「未来派野郎」である。
「全ては遊びに過ぎないから」とバカにして、おちゃらけていた坂本龍一が、YMOを散会させて、やっと一人に戻り、その「個」としての戦いが真に始まったのは、この「未来派野郎」かもしれない。
初めて「個」人としてのコンサートをし、今までに無いほどに、動きのある音楽、動きのあるステージを行ったのは、社会に対峙しながら、「個」を獲得するための真剣な戦いと悲劇的な叫びに、私には捉えられた。
36歳にして、坂本龍一は、実に遅いステージ・ソロ・デビューをした。
ステージで汗を流す坂本龍一の目には、もはや「全ては遊びに過ぎないから」という、逃走し続ける、片手間の姿は無かった。
***
このアルバムには、「ロック」に同一化されないまま、生きてきた自分に対するクエスチョンをし続けてきた、1つの応えの形がある。
必死に、その「ロック」、それに「グルーヴ」感に程遠い自分の姿へのあらがいがある。掌握したテクノロジーと、自分なりの鍛え方を経て、このアルバムは、その「ロック」と「グルーヴ感」を出すことに、注力されている。
このアルバムのレコーディングに入る前に、彼は、ヘヴィメタルやレッド・ツェッペリンの全アルバムを聴き直していた。
思えば、この時期こそは、不思議に、テクノが、資本主義社会の過剰さを背景に、そういったロック的なものに接近していった、実にいたいたしい時代だった。
それは、後のミニストリー初めとした流れや、近時では、アンダーワールドなどの世界のような到達点ではなく、やむなくそこに追い込まれていった不幸な時代と言っていいだろう。
少しも平和ではない。(たとえ、今、聴くこのアルバムが、今時点ではどれだけ素晴らしかろうと)
「未来派野郎」坂本龍一 <ウィキペディアより引用の上、補足・追記した>
1・Broadway Boogie Woogie ( music by Ryuichi Sakamoto, words by Peter Barakan )
坂本にとっては初めての、ブルースコードを使用したロックンロール的ダンスナンバー。曲名は、ピート・モンドリアンのマンハッタンを上から見下ろした様を描いた絵画の題名からとられた。ヴォーカルはバーナード・ファウラー(マテリアルの「OneDown」にも参加、オーディションをした上で、彼に坂本はヴォーカルを依頼。)と吉田美奈子。曲中流れる男女の会話は、映画「ブレードランナー」からワンセンテンスずつサンプリングして、それぞれ別の場所にあったものを会話風にコラージュされた。間奏のギターソロは当時21歳だった鈴木賢司で、坂本から「鈴木賢司らしい演奏を」と注文したテイクが採用された。サックスは当時ジェイムズ・ブラウン・バンドに在籍していたメイシオ・パーカーJr。
2・黄土高原 ( music by Ryuichi Sakamoto )
坂本の楽曲では数少ない、オーソドックスなコード進行を持つ楽曲のひとつ。テクノの呪縛がとけて、いわゆるフュージョン的なテイストが全面に出ている。エレクトリックピアノの演奏は、手で演奏したものを一度NEC PC-9801対応のカモンミュージック社製音楽制作ソフト“レコンポーザ”に取り込んで細かくエディットされ、人間とコンピュータの中間の独特なノリを狙っている。16分音符と32分音符の組み合わせによる細かなシーケンスフレーズが曲を通して流れ続ける。コーラスは吉田美奈子による多重録音。レコーディング中にたまたま遊びに来た飯島真理が気に入り、歌詞をつけて12インチシングル「遥かな微笑み」としてカヴァーしている。なお、曲名は「こうどこうげん」とも「おうどこうげん」とも発音できるが坂本自身は前者を使用している。アルバム『メディア・バーン・ライヴ』にはライヴヴァージョンが収録されている。
サウンドストリートでも「機械で、何とか黒人の持つグルーヴ感を出せないか?と思い、作った」と言っていた。
3・Ballet Mecanique ( music by Ryuichi Sakamoto, words by Akiko Yano, translated by Peter Barakan )
元々、岡田有希子('86年4月8日飛び降り自殺で死去)に提供した「ワンダー・トリップ・ラヴァー」を歌詞を書き換えてセルフカヴァーしたもの。時計が時を刻む音や、カメラのフィルムを巻き取る音などをサンプリングしてリズムを組み立てている。ヴォーカルはバーナード・ファウラー、バッキングギターは当時パール兄弟のメンバーだった窪田晴男。ギターソロ・パートは、鈴木賢司のプレイ数テイクをサンプリングし継ぎ接ぎしたもの。後に、中谷美紀に「クロニック・ラヴ」のタイトル・別の歌詞で提供した。アルバム『メディア・バーン・ライヴ』にはライヴヴァージョンが収録されている。
今、聴くと、楽曲の素晴らしさもさることながら、鈴木賢司のギターが素晴らしすぎる。名曲である。
4・G.T.II ( music by Ryuichi Sakamoto, words by Peter Barakan, original Japanese words by Akiko Yano )
曲名は「グランツーリスモ(大旅行)」の意で、車の衝突音で曲が始まる。サンプリング音の組み合わせによるリズムの凝りようは尋常じゃない。ヴォーカルはバーナード・ファウラー、ギターは窪田晴男。シングルカットされた「G.T.」のメガミックスヴァージョン。
アート・オブ・ノイズの「Legs」のヴォイスがサンプリングされている。
B-1・Milan, 1909 ( music by Ryuichi Sakamoto )
“スペースコロニーの東洋人地区に流れるBGM”というイメージで作られた曲。1909年は詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティが未来派宣言を発表した年である。後半から現れる高次倍音を含んだ声は、マッキントッシュの「Smooth Talker」というソフトで作られたもの。
B-2・Variety Show ( music by Ryuichi Sakamoto )
サンプリング音で組み立てられたヒップホップ的なビートの上に、“さるルート”から手に入れたというマリネッティの演説が乗る。マリネッティは、自身の演説会のことを“ヴァラエティー・ショウ”と呼んだらしい。
B-3・大航海 Verso lo schermo ( music by Ryuichi Sakamoto, words by Caori Cano, Italian translation by Syuhei Hosokawa )
ヒップホップのビートの上に、オペラ的歌曲を無理矢理乗せたいという坂本の野望から生まれた曲で、当時細野晴臣が傾倒していたOTT(Over The Top)の坂本版。強迫的なリフ部分と、複雑な転調を何度も繰り返す歌部分に分かれる。狂気的なヴォーカルはかの香織。初期の仮タイトルは「機械状無意識」。「プレイング・ジ・オーケストラ」ではオーケストラの演奏とバーナード・ファウラーのヴォーカルで再演。
B-4・Water is Life ( music by Ryuichi Sakamoto )
クラシックのCDからの音源を切り刻んで編集したコラージュ音楽。
B-5・Parolibre <パロリブレ>( music by Ryuichi Sakamoto )
初期の仮タイトルは「オペラ」。タイトルはイタリア語で1910年代の未来派の自由詩のことで、未来派に関わったアーティストによる造語といわれ(直訳すると「話し文学」)、読み方は「パロリーブル」となる。坂本としてはブッチーニのオペラの中の間奏曲のようなつもりで書いている。主題はヘ長調であるのに対し、中間部では変ホ短調に転調する(調性対比)。後半のボーカルはかの香織。ギターはアート・リンゼイ。前半のメロディー部分のオンド・マルトノ(正弦波)はDX 7によるもの。テーマの再現部において、ピアノの後ろでうっすら聴こえる不協和音がいかにも坂本的。後に『1996』でピアノ三重奏アレンジで再演。アルバム『メディア・バーン・ライヴ』にもライヴヴァージョンが収録されている。
***
このアルバムは、ひどい長い時間を、結果的に拘束されてしまった失敗作「音楽図鑑」への反省も踏まえ、スピードを重要視し、約1ヶ月半という、キチガイ的超スピードで作られた。
それは、このアルバムを聴くとわかるように、それまでに無い、細かい部分へのこだわりの無さ、一筆書きのような世界とでもいうのか、時にアンバランスな面も含めながら、一気に完成させられたものだ。
臨界点を経て、クール・ダウンしていく「Parolibre」という、ゆったりしたピアノ曲が、「終末」をかなでるのを聞きながら、私は、服用したトランキライザーが次第に、自分の「意思」の力をかき消して溶かし込むように、カラダと精神を麻痺・弛緩させていくのを感じていた。1986年の暮れであった。
あれから20年が流れたんだね。
「僕には 初めと 終りが あるんだ
こおして 長い間 空を見ている
音楽 いつまでも 続く 音楽
踊って いる 僕を 君は 見ている」(バレエ・メカニック)