敗戦後の日本では、自分で自分を律するマックス・ウェーバー 流の近代的な主体を形成しようとしてきました。だが、高度経済成長が終わって、そんな理念はどうでもいいではないか、ということになった。
神道的であれ、仏教的であれ、ある種の「場」の中に、前主体的な形で 包み込まれている方がいい、という日本古来の共同的心性も復活してきた。
加えて、現代のテクノロジーは、ほぼ万能のブラックボックスで、 原理は分からなくても欲望を満たしてくれる。
壊れても回路ごと取り換えられる。
そんなテクノロジーのシステム全体が、一種母性的な構造を 作っていて、ユーザーは幼児的段階のままそれに依存していられる。
これは日本に限らず、普遍的です。
ですから、現代はいわゆる主体形成なしの、バラバラの個が浮遊するようになったという印象が強いんですね。
一般論として、近代とは、恐るべき終わりを予期しながら、常にそれを先送りすることによって均衡を保つプロセスです。
世界の終わりの日が分かっていたなら、だれもその日には紙幣を受け取らない。
だから、その前日も、いや、巡り巡って今日も、受け取らない。
必ず明日があるという前提のもとで、最終的決算、つまり恐慌を繰り延べていくのが資本主義です。
テクノロジーの世界で少しずつだけど変わってきているのは、一生懸命制御するハードウェアを作る時代が終わりに近づいていることです。バイオやナノ技術は勝手にシステムを制御できる自己組織型の機構を自然ともっている新しい世界を生み出してくれます。
近代テクノロジーが、市場を富というドライビングフォースで一生懸命制御する今の経済だとすると、次世代のテクノロジーである、生物学的あるいは自己組織型のシステムが、近未来の経済の仕組み、新しい哲学になるんだと思います。そのときにはスタートレックの世界のような「富の概念の超越」が実現していることでしょう。
自分は、ペシミスト的であるので、「今」と直近の未来しかない=いつ死ぬかわからん、ということを日々考えて生きているので、「近未来」よりも「今」のありように興味があります。
もうこのコトバも1990年のものなので、少し古いですが、「母性的」「幼児的」「ばらばらの個の浮遊」というコトバが、80年代末期の頃を象徴していて、自分には「よくわかる」コトバです。